細川忠興

二人して俺になんの恨みがあるんだよ、と与一郎は言ったそうです

その日与一郎は苛立っていた。出かける用事が先方の都合で急になくなり、届くはずの手紙は届かず、手慰みで削り始めた作りかけの茶杓は盛大に手元が狂ってだめにしてしまった。そういう日もあるだろうと楽観的な人間ならば思えるのだろうか。与一郎にはそうい…

溜息と指先と

飢えた子供ならいくらでも見てきた。身体の飢えも、精神の飢えも同様に。彼らの不幸を業と切り捨てるのは簡単だ。ある意味では光秀もたくさんの命を流れるがままに見送ってきただけなのだろう。手を差し伸べたところで、彼らは光秀の手にも気がつかない。救い…

ひまわり

油照りの中、国元から上洛した折のこと。吉田の邸で一息ついた頃に忠興は言伝があるということを聞いた。淀の永井尚政が花をいくつか贈りたいとのことで、特に時期は待たないが数奇で使って欲しいとのことであった。尚政は若くして老中まで上り詰め、今は畿内…

没ネタ

そういえば、忠興には心当たりはあった。ある時光秀に声をかけられ、振り返ると……彼はとても悲しそうな顔をして、こう言った。「いや、なんでもなかった。すまない」そんなことが幾度かあった。気にしないようにしていた。いつも彼はどこか寂しそうに、泣き…

濁れる水を

ある時、江戸から離れない藤堂高虎を細川忠興がこう笑ったと言う。「和泉のたわけが、江戸の凝った水など飲んでいられるか」人の噂とはまことに勝手なものだ。人と人の間の水を好きに泳いでは、姿を変えるのだ。受取手の都合の良く形を変えに変えて、たどり着…

滅びゆく者には愚かな言葉

忠興はそれから暫く体調を崩した。もとより体は強くはない。臥せっている彼を心配して何人か見舞いの使者が来たが、会いたくないので帰した。本当に誰にも会いたくなかった。そんな忠興が、会わざるを得なかったのが蒲生氏郷だった。氏郷は自らやってきた。だ…

腐れ縁と馬鹿に付ける薬がない

馬鹿は死んでも治らない、という言葉を思い知る。久方ぶりに会った男は、自分の記憶とは何一つ変わっていなかった。仕事終わりの金曜日。男のスマートフォンに一件のメッセージが舞い込んできた。『相談したいことがある。』などという白々しくも、文面から察…

正夢と現

これが夢なら悪夢だろうか。これが夢なら正夢になるだろうか。これが夢なら…「どうして」そう呟く与一郎を、忠三郎は愕然と見下ろすことしかできなかった。与一郎は顔を背けその目の色すら伺うことはできない。傷を舐め合うわけではない。そんなつもりで抱い…

正しい涙

初夏の日差しが寺の縁側に腰掛ける忠三郎を容赦なく照らした。新緑の影が淡くなっては浮かび濃くなっては沈んでゆくのを、じっと見つめてはため息を漏らす。「あまり外にいてはこの暑さは毒になりますよ」そう言って茶を持ってきたのはここの僧侶だ。もう十年…

ただ、夢に出ないだけ

忠三郎が死んでから半年が経った。世界は一瞬の動揺を見せたが、やがて何もなかったように蠢きはじめ、そのままになっている。別に太陽は何事もなかったように昇ってくるし、月もまた何事もなかったように軽薄に薄雲を纏っている。何も変わらない彼だけが欠け…

きれいな石の恋人

思えば自分を見つめるあの黒い目は黒曜石でできていると思う。真珠でできた肌の下、手の甲から腕に広がる血管は翡翠でできているのではないだろうか。そしてそこに流れている血は柘榴石がひときわ赤く輝いては溶けているのだ。そうだと思うと合点がいく。この…