思えば自分を見つめるあの黒い目は黒曜石でできていると思う。真珠でできた肌の下、手の甲から腕に広がる血管は翡翠でできているのではないだろうか。そしてそこに流れている血は柘榴石がひときわ赤く輝いては溶けているのだ。
そうだと思うと合点がいく。この人はきっと、綺麗な石でできているのだ。からだのすべても声も吐息も、彼が纏う香りにさえ、光り輝く石が込められていると。
今日は天気が良かった。そのくせ何もすることがなかった。めずらしく一日中一緒にいたのだ。息の詰まるような、それでいて幸せな一日だった。その結果、わかったのだ。
「珠子」
そう呼ぶ彼の声音は瑪瑙のように、小さくとも響くのだ。ああそうか、石なのか。そう思えばとても気が楽になる。
この人のことはとても好きだけれど、好きな人だと思うとどうしても気持ちが苦しくなってしまう。恋の苦しみなんて知らなかった。こんなに苦しいなら、知らなければよかった。
だから綺麗な石だと思えば、幾分気は晴れるのかもしれない。たまたま手に入った綺麗な石。異国からやってきた、素晴らしい石。
「なぜ笑う」
笑っているつもりは毛頭ないのだけれど……この人は嘘が嫌いだから、なんて言い訳しようかしらと迷ってしまう。あまり待たせるとまた不機嫌になるから……こまった人だ。
「いえ、私の旦那様は今日も綺麗だと、そう思っていただけですよ」
「……」
少し黙って、彼は咳払いをする。ああ、瑪瑙がころころと転がって行くようだ。ああ、この人の体の中はきっと綺麗な石がたくさん詰まっているのだろう。瑠璃に玻璃、橄欖石……琥珀……思い出せるだけの綺麗な石を詰め込んだこの人は、ため息をついてこう言った。
「お前は相変わらず面白いことしか言わないな」
「あら、本当のことですもの」
「……お前の方が綺麗だ」
「そんなこと言われたくて言ったわけじゃありませんのよ」
せっかくの言葉だけれど、それは丁寧に包んで丁重にお返ししなければ。別に褒められたいわけではないのだ。ただ褒めたいだけ。
人が美しい物を見て綺麗だと言うのは、別に見返りが欲しくて言うわけではないだろう。ただ、綺麗だから、その一瞬を切り取るために言うのだ。
ああ、綺麗だと。
「……お前が何を望んでいるのか全くわからん」
「望み?」
そうか、この人は見返りが当然あると思っているのかしら。なんて傲慢で、なんて可愛い人。まるで子供のようだ。そう思ってしばらく考える。別に欲しいものがあるわけではない。こういう時はなんて言うといいのだろう。好きなのだから、ずっと一緒にいたいとでも言えばよいのだろうか。でも、そんなことは実際不可能だ。果たされないものを望んでもむなしくなるだけ。海ですら満ちることはないのだ。それは一番よくわかっている。それを無邪気に求められることができたら多少は楽になるのかしら。
「それが珠子の望みならば、俺はなんでもしてやろうと言っているんだ」
「……ああ」
そういうことか。見返りじゃなくて、自分の想いが大きいと、そういうことを言いたいのだろう。大人だけれど子供みたいなひと。綺麗でいて可愛らしい人。とてもお利口なのに、時折見せる無邪気な横顔に、何度こちらが心を奪われたと思っているのだろう。むしろ冷たい顔をしている時のほうが落ち着くのだ。彼にも心があると思うから、とても辛くなる。
人間だと思うからいけない。知ってもらいたくなる。わかってもらいたくなる。珠子のすべてを抱えさせるなんてできないし、きっと彼はそれをしない。
知らないくせに、わかろうともしないくせに。何を言っても、強い言葉で否定してくる彼はきっと、叩いても割れない硬い石でできている。
「願わくば、あなたの隣にいつまでもいたいものです」
ああ、こんな物語めいたことを本当は言いたくはないのだが……いや、いい。相手はきれいな石なのだ。この部屋にいるのは珠子ひとり。ここにいるのは夫でなければ人でもない。きれいな石でできた精巧な人形。だからけして寂しくはないけれど、たったひとさじの孤独は続くのだ。
夕闇の迫るこの部屋が永劫続くように感じられる。橙色の夕日が石を照らす。それを嫌うように彼は珠子に寄り、この身を抱きしめた。
どうしてもいつもぎこちなく抱きしめるのだろう。
「珠子、好きだ」
ああ、石だからか。石だから。人じゃないから。人のぬくもりなんてない人だから。一方的にこちらの熱を奪うから。
抱きしめても抱きしめても、何も応えてはくれない。抱かれても、愛を囁かれても、この綺麗すぎる手は珠子にとって大きすぎて。
その腕の中で震えて泣くしかないのだ。
「ひとつ、思いつきました」
「なんだ……言ってみろ」
「あなたみたいにきれいな石が欲しいです。あなたがいない間、あなたと思ってくらします」
そう言ってその目を見る。ああ、本当に黒曜石のような、透き通るのに薄闇のような瞳。その目に映る珠子がどれだけ尊いと言うのだろう。どんな位を与えられても、この瞳に映る価値なんてないのだ。
彼はしばらく黙っていたが、珠子の頬に唇を寄せてそっと囁いた。
「それはできない」
「どうして……?」
「きっと、俺はその石を砕いてしまう」
そう言って嗤った彼の水晶のようなゆらぎのない顔の美しさと言ったら!
珠子は思わず息を呑んでしまった。彼はそれに気が付いているのだろうか。彼自身の魂の清らかさに。彼はいつまで汚れたふりでいるのだろうか。そこに計算されつくした美しさを壊すような背徳でもあると言うのだろうか。
夕闇がどんどん彼の目の色に染まっていく。世界が美しく塗りつぶされていくのを幻視せざるを得ない。ああ、珠子もまた、塗りつぶされてしまう。彼の腕の中で。それは幸せなことなのだろう。きっと。
それはきれいな石の中に閉じ込められるように。