溜息と指先と

飢えた子供ならいくらでも見てきた。身体の飢えも、精神の飢えも同様に。彼らの不幸を業と切り捨てるのは簡単だ。ある意味では光秀もたくさんの命を流れるがままに見送ってきただけなのだろう。手を差し伸べたところで、彼らは光秀の手にも気がつかない。救いとはそういうものなのだと思っていた。
しかし、忠興は違った。初めて彼を見た時、光秀は少なからず動揺した。彼は、目には見えねども光秀に気がつき、その小さな手を伸ばしたのだ。まるで溺れた人間がやっと木の枝に掴まるように。そんな子供は初めてだった。
忠興は光秀の手をぎゅっと握ると傍に寄り、どこかに帰りたそうな表情をしていたがやがて俯いた。帰る場所ならあるだろうに。なんといっても彼の父は光秀の想い人だ。むしろ恵まれた彼が光秀には心底羨ましいほどだったのだが、それに気が付くことはない。
伏せられた幼い頬は震えていて、泣いているようだった。きっとずっと不安で寂しくて、それでも涙を流すことはできなかったのだろう。弱みを見せれば食いちぎられる。そんな世だ。それを光秀に見せたということは、それほど判断力が失われているのか、はたまたよく光秀を見ていて大丈夫だと察知したからなのか。光秀は小さな肩に触れ、こう言った。
「もう大丈夫、君はひとりで歩けるよ」
それでも彼は動かなかった。もう光秀はその手を離してもいいと何度も思ったのだが、爪をたてんばかりの力で忠興は光秀から手を離さなかった。
それらは何も光秀の傲慢ではない。ただ、この目の前の子どもの求めに応じただけだ。確かに多少手段は選ばなかったが、未熟な魂を少しは育てたつもりではある。
「いつになったら俺はお前から自由になれる」
気がつけば、忠興はもうすっかり青年の姿だった。居心地悪そうにわざとらしくため息をつくが、その手はしっかりと光秀の手首を掴んでいる。きっと気が付いていないのだろう。ふっと笑みを漏らして光秀はもう一度こう言った。
「君はひとりで歩けるから」
この身は確かに朽ちたはずなのだけれど、それでも残ったのは彼が手を伸ばしたからなのか。
いや、違う。すべて光秀が望んだことだ。彼がもう手を離せないことを光秀は知っている。長じて文句ばかり口にするようになったが、そのまだあどけないほの赤い唇を奪ったのは確かに光秀だ。この罪は誰にも渡さないし、わかりあう気もない。
愛しい魂を継いだその姿は少しずつ彼に似るようで、それでいて忠興は忠興の成長を遂げた。誰にも似ていない、誰のものでもなかったはずの手はまだ光秀の手首を掴んで離さない。
「お前が憎い、どうすればお前は消える」
忠興の言葉に何も思わないわけではないのだが、彼が奏でる死に至る毒はむしろ光秀よりも彼本人を苦しめた。彼はその腹に宿した魂をその未熟さゆえに振り切ってしまった。本人は気が付いていないから伝えることはなかったが、あまりにも気の毒だ。
だから光秀は自らの右手を掴むその愛しい指先にそっと口づけた。
「佳いことが起きますように」
ずっと忠興のそばにいた。しばしば互いに互いを貪った。黒い毛皮を纏った猫のようなしなやかさに、禽を思わせる純粋なまなこを持った美しい獣は、光秀のために何度も肌を湿らせた。本人がそれに気が付いているかは別として、何度も忠興は光秀の名前を呼び泣いていた。その頭を撫で、優しく唇を寄せ、その髪の毛の一本一本に言葉を織り込むように何度も願いを込めた。
「大丈夫、大丈夫」
姿は大人になっただけのこの子どもは、まだ飢えた目をして光秀を見る。そこに映る自分の姿は笑ってしまうほど若かった。これが今の自分か、そう思うと笑ってしまう。いくつも姿を変えたが、もう元の姿には戻れない。最初から明智光秀という人間はいなかったと言いたげに、この体はもう誰にもなれないのだ。忠興もどこかでそれに気が付いているようだったが、それでも手を離さなかったし光秀も離させなかった。
「母上」
気が付けば、忠興と光秀の間に割り込むように一人の青年がいた。彼の存在は光秀にとって想定外な事態を多く齎したが、おおよそは狙い通りだった。しかし彼……立孝はけして光秀に対して軟化した姿勢をとることはなかったし、彼が隣にいるときは光秀もあまり忠興に近寄れない時期があるほどだった。下手をしたら光秀以上に大きな力を持っているのかもしれない。
「立孝、こちらに来い」
光秀の手も、立孝の手も離せなくなった忠興はさぞ困ったことだろう。今も、老成したとはいえない若者の目をしてじっとしている。もうどちらの手も離していいし、好きなところに行けばいいのだが……それは二人が望まない。それだけは光秀も立孝も共通している願いのようなものだった。
「まったく、お前たちには困らされる」
そう呟く忠興にこそ周りは大層振り回されたのを光秀は誰よりもよく見ていたのだが、笑って眺めるだけにした。
夕暮れが迫り世界が赤く染まるころ、三つの影はゆっくりと動き出し、そして見えなくなった。それでもまだ、その指は二人の手に絡みついている。