ただ、夢に出ないだけ

忠三郎が死んでから半年が経った。世界は一瞬の動揺を見せたが、やがて何もなかったように蠢きはじめ、そのままになっている。
別に太陽は何事もなかったように昇ってくるし、月もまた何事もなかったように軽薄に薄雲を纏っている。
何も変わらない彼だけが欠けた世界を生きていることに若干の違和感を覚えているのは果たして与一郎だけなのだろうか。
ふと考えてしまうのだ。それは彼が与一郎の親友だからでも、彼が病で早死にしたからでも、さらに言ってしまえば与一郎の初恋の相手だったからでもないと思う。
一番の違和感は目の前の男の眼差しにあった。
残暑の折、与一郎の招きに応じてやってきたこの男……高山右近は、たしかに忠三郎と深い仲にあった。
与一郎は知っている。忠三郎がどれだけこの右近という男の魂に惹かれ、惚れ込んだか。
何度も何度も忠三郎からこの男の話を聞いた。なんなら、右近と二人っきりになるように仕向けたことだってある。
むざむざ初恋の相手を捧げるような真似をしたことについては、一言でも二言でも言いたいことはあったのだが……。
最終的に与一郎は忠三郎の幸福を願ったし、そこには右近が不可欠だったと言うだけに過ぎなかった。
この二人は与一郎の本当の願いも、欲望すらも知ることはない。忠三郎の死に際に寄り添い、最期まで看取ったのは与一郎ではなく右近だった。
それは当然の帰結だった。教えに従い死にゆく忠三郎に祈りを捧げるにふさわしいのは右近の他にはいなかったからだ。
右近と忠三郎が結局どういった関係になっていたのかまでは与一郎は知らない。しかし、深い仲なのだ。それは疑うまでもない。
だから……傷ついているだろう。悲嘆に暮れただろう。それを与一郎や周りに吐露するとこだってできたはずだ。
むしろそれを期待している与一郎がいた。忠三郎の愛を受けたこの男が忠三郎のいない世界を憂うことで、与一郎の憂いも重ねられる気がしていた。
しかし右近はそれらをすることなく、いっそ穏やかにこう言うだけだった。
「あの方は間違いなく主の元にお帰りになりましたから」
気に入らない。素直にそう思った。愛されたくせに、与一郎が欲しかった一番の情けを体いっぱいに浴びたくせに。どうして彼は想い人の死に真摯に向き合わないのだと。
愛されもしなかった与一郎が悲しむのが莫迦みたいじゃないか、と。
どうも気丈にふるまっているようでもないのだ。もしそれならばまだかわいい方だ。まるで忠三郎なんて男が最初からいなかったように振舞うことに、与一郎はすこしばかり憤りを覚えていた。
「私は奴ではなくあなたを心配しているんですよ」
心配などしていない。ただ頭にきているだけだ。だがそれをそのまま口にしたところで、この生真面目な男に真意は伝わらない。
死んだ後のことなんて、心配しても仕方がない。今生きているのが自分と右近だと言う事実だけがここに横たわっているのだから。
「お気遣いいただき感謝いたします。しかし……私のことは心配無用ですよ、大丈夫ですから」
けして大丈夫ではないだろうし、右近にとって大丈夫だったとしたらそれが一番与一郎にとっては大丈夫ではないのだが。何かを言いたげな与一郎の口元を見て右近は笑う。
その顔を見て、与一郎は少しばかり動揺した。
……何故この男は、笑っている時の方が寂しげなのだろうか。どうしてその顔を、もっと早く与一郎に見せなかったのだろうか。
別に道化になるつもりはさらさらないが、それでもこの二人を一番近いところで見ていたはずなのに、この結末は何だと言うのだ。
「どうかしましたか?」
「……いえ、やはりあれの話をするとあなたが一番寂しそうな顔をなさるな、と」
「そうでしょうか、もとからこういう顔ですよ」
お前の元々の顔はそんな顔じゃなかっただろう、と昔の与一郎ならすぐに言い返していただろう。
ならばその顔を忠三郎に見せられるのか、とも思った。言わなかったし、言えなかったし、言うつもりもなかった。もう答えを出しても、どうにもならないのだ。忠三郎はいない、どこにもいない。右近が持っている答えと与一郎が持っている答えを出し合って、たとえそれで真実が見つかったとしても、それは今更慰めにもならない。
「かわいくない人」
与一郎の言葉にくすくすと右近はまた笑った。寂しそうに、憐れむように。やめてくれ、と声が出る前にその声が与一郎の顔を上げさせた。
「寂しくないわけではないですよ、むしろこうして普通に生きている自分に驚くくらいです……それに……越中殿は、あの人を夢に見ましたか」
「夢に?」
予想外の問いだった。夢。それならば何度も見た。なんなら今朝だって、忠三郎と自分がまだ子どもだった頃の夢を見た。
目覚めるたびに、ぐったりと体が疲れているのだ。まるで生き直しをしているようだ。最近は目が覚めてから起き上がれるまでだいぶ時間がかかる。
そこまで暴露するつもりはないので、静かに頷くと、右近はまたあの寂しげな微笑を見せると、与一郎から視線を外してこう言った。
「まだ、わたしはあの人と会っていないのです……一度も」
「……」
何も言えない。間違いなく忠三郎が会いたいのは右近だろうに。あの男はどこまで人に迷惑をかけるのだろう。とそんなことまで考えた。
そしてそれまで薄絹に包まれて見えることのなかった、右近のなかに確かにある忠三郎への思慕を素手で掴んでしまったような気にすらなる。そのあまりの熱に、手を離したいのに離せない。
夢で逢えること、逢えないこと、どちらが不幸かだなんて議論するほどに虚しいものはない。そんな不毛なことをするつもりはない。
ただ、その熱に一瞬でも心を動かしてしまった。それがすべてだ。負けなのだ。勝ち負けなんてないけれど。確かに負けたのだ。
一生をかけても与一郎は忠三郎の心を得ることなんてできない。太陽にいくら手を伸ばしてもそれを手にすることができないように。
当たり前にそれを手にする右近が、ただ夢に彼をみないことを憂うのだ。
「おかしな話です。こんなこと、あなたに話してもどうにもならないことですし……どうなさいました?どうして泣いているのです……あなたが泣くことなんてないのに」
右近の声が、ただそう響く。与一郎はただ涙を流すことしかできなかった。ただ、その涙を奪ってやることしか、できなかったのである。