滅びゆく者には愚かな言葉

忠興はそれから暫く体調を崩した。もとより体は強くはない。臥せっている彼を心配して何人か見舞いの使者が来たが、会いたくないので帰した。本当に誰にも会いたくなかった。
そんな忠興が、会わざるを得なかったのが蒲生氏郷だった。氏郷は自らやってきた。だから会わざるを得なかったのだ。たぶんそこまで考えて彼が行動したわけではないと思う。ただ、彼は心配しているだけなのだ。そういう男なのだ。どこまでも純粋で、目が潰れるほどに無邪気だ。
春先だったと思う。外は麗らかな日差しをその身いっぱいに享受している。忠興だけがそこにいない気がした。そんな忠興に外の話をしたかったのだろう、氏郷はこんな話をし始めた。
大坂の天主堂に不思議な男が住み着いた。乞食にしては身なりが綺麗で、物乞いをする様子もない。たまに受けた施しもほかの人に分けてしまって、本人が食べる姿を誰も見たことがない。
最初は興味なく聞いていた。ただ、彼の胸に下がる十字架を見ていた。もう届かないところに氏郷はいる。彼への想いは、誰も知らない。知らなくていい。
「不思議なことに、そいつ、夜になるとどこかに消えるんだ」
その一言で、忠興はぐっと現実に戻された。夢のような現実だ。その男はまさか光秀ではないか。疑いはその過程をすっ飛ばして一気に確信に変わった。背中が群なすのに耐え切れず。忠興は氏郷の肩を掴むとこう訊ねた。
「お前はその男に何か施したか」
氏郷は忠興のそんな様子に驚いたようだったが、やがて首を横に振って、なにも、と答えた。
「食わない人間に施しても仕方がないだろう」
氏郷はあっけらかんとしているが、内心忠興はあのこの世ならざるものになった義父とこの氏郷につながりができるのが怖かった。勿論、忠興の氏郷に対する想いや、義父にされたことの暴露も怖かったが、どちらかというと大切にしまっていたものを素手で引っ掻き回されるような不快感の方が強かった。だから、氏郷のその言葉に忠興は心底安堵したのだった。
その晩のことだった。ふと人の気配に気が付き目を覚ました忠興は、枕元に誰かが座っていることに気が付いた。光秀だ。何故かそこまで驚かなかった。
「招ぶんじゃなかったのか」
「あなたが心配で」
その言葉の薄さと軽さにむしろ驚いたくらいだ。誰でもわかる嘘だ。そんな言葉を簡単に使うような男ではなかったと思ったのに。だから身を起こしながら、ついこう問うてしまった。
「……天主堂に住んでいるのか」
その言葉に当初きょとんとした顔をしていた光秀だったが、何かを察したのか敢えて忠興から視線を外した。
「あの子は相変わらず、いい子だね」
彼の、あの子という言葉に、忠興の脳裏を掠めたのは氏郷の快活な笑顔だった。忠興にとって氏郷がどのような存在であるかなんて、忠興にしか知りえないことだ。当然、光秀が知る由もない。だが彼はまるでそんなものすべてお見通しという顔で、忠興の方に視線を投げた。許せなかった。その想いが遂げられることはなくても、いや、遂げられることがないからこそ。どうしてもそこには踏み入られたくない、触られたくないところだったから。
「ふざけるな……ふざけるなよ、貴様」
怒気を孕んだ忠興の、絞り出すような声を光秀は訝し気に見る。それもまた気に食わない。わかっていて踏んだものだろうに。
「何をそんなに怒っているの」
「黙れ」
「だいたいあの子は私の手には負えないし、私が何もしなくても大丈夫な子だよ」
宥めるようにそう言うが、光秀の言葉は信用に足りない。その言葉を鵜呑みにしたところで、忠興のこの怒りをどうやっておさめるというのだ。疑いの目を隠さない忠興の様子を見て、光秀は笑った。余裕のある表情が気に食わない。
「用件はこれだけ、じゃあね」
そう言って忠興の頬にその唇を寄せた。払おうとした瞬間、目が覚めた。それから暫く、忠興は光秀の夢を見ることはなかった。
あれだけのことがあったはずなのに、忠興の体は、そして心は、いっそ非情なまでに回復していった。漸く周りのことに気が向くようになった時に、しかし忠興は気が付いてしまった。というよりも、ある噂を聞いてしまったのだ。それは珠子が私物を売って天主堂にいるみなし児や浮浪者にものを買い与えているという内容だった。忠興はそれを聞いて、表情だけはなんとか取り繕ったものの、あの光秀の穏やかな笑みが脳裏に過ぎっては言いようのない怒りのような感情に呑まれそうになった。
「輿入れの際に持ち込んだ自分のものですし、心配なさらずとも貴方には関係ありませんよ」
珠子を問いただしても、返ってくる言葉はあまりにも優しすぎた。機嫌が悪いということを言う代わりに眉根を寄せ彼女を見ると、珠子はふふっと笑った。
「父のものは持っていませんし、持っていたところで手放しません。いいと言ってくれたものだけ手放しています」
……いい、とは。その言葉を呑み込み再び彼女を糾弾しようとしたときには、珠子はすでに背を向けていたし、忠興と珠子の間にはあの背の高い寿巳が入り込み、能面のような顔をして忠興に無言の警告を与えている。女ふぜいが何ができると思いたかったが、寿巳の威圧感に負けて何も言えなかった。ただ、珠子の言葉に戦慄することだけが忠興にできたことだった。そしてそんなものお構いなしという風に、珠子たちは慎ましやかにも清く美しい生活をしていた。まるで忠興など眼中にないかのようだった。
そんな時だった。次男興秋が大阪の天主堂の話をしたのは。最初は、身分違いの友人ができたという話だったから、忠興も興味なく聞いているだけだった。
「あの人は不思議な方なのです。何も口になさらない」
それが例の不思議な物乞いの男……そしてその正体たる光秀であることに気が付いたとき、忠興の形相はきっと恐ろしいものだったであろう。不審な目をして父を見る興秋をよそに、忠興はこのなんとも言えない居心地の悪さ、居た堪れなさからどうにか脱却したいと考えていた。そのためには興秋をどうしても遠ざけたかった。だから、その場で決めたのだ。興秋を興元のもとに養子に出すと。