吹かねど花は散るものを(お題:花)
忠三郎は元来桜が好きであった。優美な姿、散り際の潔さ。かくありたいとすら思った。咲きはじめや盛りの頃より、やはり盛大に散る姿が好きであった。
「花もちらさて 春風そ吹」
花見の時にそう詠うことすらあった。
いつからだろう。もう桜は見られないと思うようになったのは。そして桜のように散ってしまう自らの魂に、恐怖すら覚えたのは。戦場で死ぬものだとばかり思っていたこの手は、日を追うごとに老いていき、腹の激痛は次第に胸の方に上がってくるようで不快だ。どうやら腹に水が溜まっていると言う。どう言うことかさっぱりわからない。もっと言うと足がひどい。どうやっても浮腫が取れず腫れ上がってしまった。もう歩くのも一苦労だ。身体中の循環が止まったままそれでもなお生きながらえているようだ。
このまま死んでしまうのか。せめて桜のように美しいまま死にたかった。こんな死に方なんてしたくなかった。
疑った、怒った、祈った……そして、憂鬱な気持ちを経て……忠三郎は、何かを知ったのだ。
熱心な切支丹の盟友、大切な、盟友がかつてなにげなく口にしていたこと。神の子を信じないものについて言及した言葉だったと記憶している。
「神は彼らの目を見えなくし、その心を頑なにされた。こうして、彼らは目で見ることはなく、心で悟らず、立ち帰らない。私は彼らをいやさない」
どの話の流れだったかはもうすっかり忘れてしまっていたが、それを思い出した時、なんだかそれまで思っていたことをすべて言い当てられた気がしたのだ。
例えいま、桜を見ても忠三郎はきっとそれを目で見ることはないだろう。桜という概念を見て、その概念を自らに当てはめて悶え苦しむに違いない。
それではそれこそ何のために生きていたかなんてわからない。そんな人間は誰からも癒されない。たとえそれが神の御業によるものだとしても。
忠三郎は、それでも惑うことは多かった。親しかった友人が次々に訪ねてくるのは、まるで生きながら死に水を取られているようで…それに対して何も思わないと言ったらうそになる。
「あんた、教えは捨てたんじゃなかったんですか」
彼もまた、その一人。
与一郎…今は羽柴越中と呼ばれている…彼の訪問は、忠三郎の心を少しざわつかせた。何よりの親友だと思っていたから。そんなに俺はまずいのか、と思うことくらいは許してほしい。
そんなことを知らない与一郎は、ふんと鼻を鳴らして忠三郎の手にある小さな本に目をやる。
「いや…なんとなく気になってな」
その答えが気に入らないのか、強い視線で一瞥すると忠三郎の横にどっかり座った。普段ならもう少し美しくに座るだろうに、わざと彼がそうしていることくらい、わかっている。
忠三郎の手にあるもの。それは今の彼にはふさわしくないかもしれない。それは…先述の盟友から譲られた、簡単な聖書だった。
捨てたと周りには言っていたが、忠三郎はこの本と…その時に同時に譲られたロザリオを、密かに保管していたのだ。
与一郎なら、咎めはしても誰かに吹聴はしないだろう。彼の奥方も、同じ教えのもとに生きているという。
「しばらく見ないうちにすっかり老けたな」
暫く黙ってそれを見ていた与一郎が突然そんなことを言うので、思わず噎せ込むところだった。
「どういうことだ、与一郎、お前な」
「別に。あなたはもっと桜のような人だと思っていただけですよ。好きだったじゃないですか、桜が」
「……それを言うな、散り時も選べないのが人間というものさ」
そう言って、聖書を仕舞う。どうも与一郎はそれも気に入らないようだ。怒りながらここに来たのだろうか。なんだかそれを想像しても可笑しい。
まあ、でもよく考えたらそれもそうか。見舞いに楽しみを抱いてくる親友なんてきっといないだろう。不機嫌な彼を見ていると、彼がまだ熊千代と呼ばれていたころを思い出す。
厄介な子どもだったなあ。今もか。そんなことを忠三郎が思っているとは思っていないだろう、いや、もしかしたら気が付いているのかもしれない…与一郎は吐き捨てるようにこう言った。
「桜もそうだと思いますがね」
「まあ、そうか」
「散りたくて散る桜なんて、そういないんじゃないですかね」
冷たくそう言っているが、強がっているだけだろうなということは伺える。そこに寄っかかるのは違う気もするが、そのうちに放っておいても散ってしまう魂だ。少しだけ、この魂の花びらを握らせることをしてもいいだろう。
「……うたを残したい」
それが何を意味するかを、知らない二人ではなかった。案の定、与一郎はその整った相貌を歪ませて、明らかな嫌悪感を示す。
「死ぬ気満々な奴に手伝う手なんて、どこにも」
「違うさ、死ぬ気なんてないよ。…花のうたを残したい」
「何が違うんですか、病が頭に行きましたか」
そう言って文句を言いながら、与一郎は忠三郎のそばにやってきて、どれどれと覗き込んできた。なんだかんだ、血筋と言うべきか…興味はあるのだろう。本人に言うと烈火のごとく怒るだろうから言わないが。
「ちょっと、聞いていますか」
「はいはい」
それからしばらくして、忠三郎…蒲生氏郷が遺した歌は、広く残るものとなる。彼は桜の咲き始めるころ、一足早く散った。
君は紅葉より美しい(お題:紅葉)
この人は、その気持ちも払ってしまうのだろうか。
初めて呼ばれたとは言え、気合を入れすぎた気がする。気に入りの朱鷺色の衣に浅葱色の羽織まで羽織って、そこまでして右近に良い印象を与えたいだろうか。というか、与えたところでどうなるというのか。まだわからない。
それは秋空の高い爽やかな日だった。今年は嵐も少なく良い気候だった。程よい寒気が紅葉の色づきもほどよくいい季節になった。
その日は右近に呼ばれ……一席設けようということで、屋敷を出て足早に右近の元に急いでいた。
「あら、ようこそいらっしゃいました……お恥ずかしい、掃除もまだ終わっていないのですよ」
辿り着いた頃がどれだけだかは覚えていない。屋敷の前には右近が自ら足元を掃き清めていた。
そんなもの、外のものに頼めば良いのに……彼の気質は知っていたから、それも言えずにいると右近は忠三郎に気がついて微笑みながら近づいてきた。手には箒まで持って……。
「あ……いえ、早く到着しすぎました」
「そのようですね、ふふ、こんな時期に汗までかいていらっしゃる」
そう言って右近は忠三郎の肩に手を伸ばす。たしかに忠三郎は汗ばんだ体そのままに来てしまった。
思わずうわっと声を出してしまう。
「……あ、あの、失礼いたしました」
とりあえずそう言うだけで精一杯だ。右近は笑いながら、手ぬぐいを出してその赤らんだ頬を撫でる。ふわ、と良い香りがする。香でも炊き込んでいるのだろう。
「ふふふ、急いでいらっしゃったんですね、嬉しいです……あらあら、真っ赤」
みるみる顔が赤くなっていくというか、熱を帯びていくのを感じる。恥ずかしい以上に、それを見られていることへの羞恥が忠三郎を襲った。
「いえ、あの、大丈夫、ですから…」
「ええ、わかっていますよ」
思わぬ返事にえ? とその顔を見ると、右近は微笑んでそこにいた。やられたと思うには随分と時間がかかる。あの、と言う頃にはすでに彼は箒を壁に立てかけ先に屋敷に入っていた。どうぞと声がかかるので、咳払いをして中に入る。もうこうなったら見栄も何もない。何しろ今までのやりとりは蒲生家の側仕えも高山家のそれも見ている。今更見栄を張っても如何にもならない。
その庭は美しく掃き清められていた。
紅葉が舞うのが勿体無いような、なおその美しさを引き立ててるような…なんだか、言って仕舞えば野暮だがそう思うのだった。
「良い季節になりました、この季節がいつまでも続くと良いのですが」
そう笑う右近の横顔が美しい。琥珀色の瞳が見るその世界は、どのように映っているのだろう。
「……人が望めば、それは叶うと聖書にありました」
「そうですね、厳密に言えば……人が望むものはすでに叶えられているのです」
右近は忠三郎とはけして視線を合わさずそう言う。その目は、相変わらず庭の紅葉を見ている。
紅葉に独り占めされているようだ。それはそれで気に食わない。
「紅葉が散るのも、望まれていると?」
少し意地悪にそう言ってしまう。こちらを見れば良いのに。まあ、まじまじと見られても困るが。
「その方が美しいですから……散った方が、良いこともあるのです」
紅葉の美しさは、散るが故にありますからと言うので、なんだかとても寂しくなる。まるで右近が自身が儚く散ってしまうことを示唆しているようだ。
「散らずとも……良いのに」
だから、その言葉も自然なものだった。
散ることはないのだ。ずっと美しいままでいれば良いのだ。それを悪く言うものなんていない。
「ふふ、あなたは優しい方ですね、大丈夫ですよ、わたしは散りませんから」
そう言われてはっと顔を上げると、恐ろしいほどに整った生っ白い顔がこちらを見ていた。夢にまで見たはずなのに、実際に目の前にあるとどこか眩しすぎて辛い。
「あら、池にまで紅葉が入ってしまいました……少し待っていてください」
「右近殿、待ってください」
「ええ、すぐに戻りますよ」
そう言って庭に出てしまう右近が今にもいなくなってしまいそうで、忠三郎も慌てて外に出る。
「ついてきてくださるなんて、本当に優しい方」
そう言って右近は忠三郎の目の前に立った。
……手を伸ばせば届く。十二分に届く距離だった。
だが、その手を出す勇気だけがなかった。
紅葉は自分の方だった。払われるだけの人生。
この手は優しく、でも残酷に払ってしまうのだろう。
きっと、この気持ちも……。
涙の青と本当の気持ち(お題:涙)
会津に加増されたことすべてが嫌だったわけではない。涙を流し転封を嫌がったとの噂があると言うが、そんなものでっちあげだ。確かに中央政権から遠ざけられたのを感じたが、それ以外の政治的意図を汲めないほど忠三郎は愚かではなかった。それに、全くゆかりのないこの土地で、彼は挑戦したいことがある。
一度は萎えた神の真理を、この国で創り上げたいと心の底から思っていた。もちろん大々的にはできない。しかしだからこそ、やってみる価値がある。
忠三郎はその話を誰よりもまず、右近にしたかった。彼は領地召し上げから前田家預かりになるまでの苦難を知っているし、何より忠三郎の盟友だ。
それだけではない。右近自身は知らないが、忠三郎は彼に……許されない思慕を抱いていた。
この秘密を守るために改宗したと言ってもいい。誰よりも大切な彼のために、忠三郎は十字架を手にしたのだ。
それを知らない右近は、忠三郎の話を聞いてこう言った。
「きっとそこはよい土地でしょう。ひとつぶの種が百倍にも実りましょう」
それは右近から何度も聞いた聖書の一節だった。だからこう答えたのだ。
「私も耳が遠かったころがありましたが、もう違います……右近殿、神の地は確かに近づいているのです」
だから、一緒に……と、言いたかった。本当は、その地を二人で作ることができたらどれだけよかっただろう。だがそれはできない。二人の道は同じようでいて違うのだ。
ふと、その手を取ったらどうなるだろうと夢想した。右近はきっと、微笑んで忠三郎を大切な盟友だと言ってくれるだろう。それがどれだけ忠三郎を傷つけるとも知らない。
会津という国を神に近い国にしなければならないと、忠三郎は確かにそう思っているが、根っこにあるものはそういった思いたちだ。その硬い岩のような思いを砕き、会津という国を一度最初から作る。
虚しいと言われるかもしれない。実際虚しいかもしれない。だが、もうやるしかないのだ。この思いを秘めた土地として。
そういえば、転封を嫌い涙を流したのがでっちあげだとは言ったが、涙そのものは流した。
それは、どうあがいても手に入らない右近が、なお遠くなったと嘆く涙だった。
一番近い場所で(お題:島)
老いた手を見ていた。開いた指と指の間には白い砂浜とどこまでも青い海があった。この命はもう長くないことを右近は肌で感じていた。だから最後に海が見たかった。
今まで見てきた海のどれよりも青いと思う。この島は、間違いなく右近の命が尽きる場所だ。こんなに美しい場所で死ねるなら、本望だ。
もうこの体は思ったように動かない。ここしばらくで右近は急に老け込んだ。凪いだだけで崩れ落ちかねない体はもはや枯れ木のようだ。髪の毛はかつての黒をとうに失っている。
家族が心配してやってきた。大丈夫、もう少ししたら横になるからと伝えると、何かを言いたげに去っていった。
再び海に目を向ける。ああ、この海はどの海よりもかつての想い人の瞳に似ている。色ではない。その深さとどこまでも透明な御心が瞳に出るのだ。あの黒々とした目は、世界のすべてだった。少なくとも右近にとっては。
だから右近は幸せだ。とうにこの世を去った彼にこうして再び会えて、見守られながら旅立てるのだから。異国のこの島で死ぬことを彼が知ったらなんて言うだろう。
記憶の中でなら何度も会った。でも、それだけでは自分の心を保つのは難しかった。今ようやくそれらが報われた気がしたのだ。
「お体に障りますよ」
気が付けば、隣に見慣れた男が座っている。ああ、幸せだ。自然と涙がこぼれてくる。季節は冬だと言うのに、熱された空気はあっという間に右近の涙をからめとっていく。涙は海に還るのだろうか。この海は、世界の人々の涙の集合体だとでも言うのだろうか。
少しうつむいた後、右近は男の顔を見ることなくこう呟いた。
「ここまでくるのに随分お待たせしてしまいましたね」
「いえ、すべて見ていましたから」
「あら、お恥ずかしい」
顔を上げると、彼は右近の顔をまっすぐ見ていた。雲一つない青空に太陽、本当に彼は太陽のような男だった。
「……お久しぶりです、右近殿」
「ええ、飛騨殿……お変わりないようでなによりです」
「あなたも」
「いえいえ、こんなに老いぼれて」
「……時を重ねて更に美しくなりました」
そう言って忠三郎は顔を赤くして視線を逸らす。頭を掻く癖は昔から変わらないが、昔よりも少し大胆に右近にものを言うようになったではないか。向こうでも変わらず時は流れているのだろう。少しずつ変容していくのだろう。よいことだ。
ふふ、と笑って右近は立ち上がる。不思議なことにもう先ほどまでの痛みはもうない。手を見る。もう先ほどまでの枯れ木のような手ではない。
忠三郎も倣って立ち上がるのを見て笑ってこう言った。
「そろそろ行きましょうか、飛騨殿にお話ししたいことがたくさんあるのですよ」
「ええ、でも……」
「あちらはもう大丈夫ですよ。ああ、でも……そうだ、飛騨殿、目を閉じていてくださいね」
「え……」
忠三郎の返答を待たずに右近はその懐かしい香りのする体に抱き着くと、そっとその唇を自らのそれで重ねた。
「わざわざお迎えありがとうございます。お礼です」
「……右近殿……」
「行きましょう。案内をお願いします」
「……はい」
そういって二人は歩き始めた。
高山右近
慶長二〇年一月六日、フィリピンルソン島マニラで死没
聖なる本とトワイライト(お題:本)
忠三郎が改宗をしたときは、それなりに大騒ぎだった。というか、あの頃はどこの誰が耶蘇の教えに改宗したかということで熱狂していた者が多かった。耶蘇の教えの中身にはそこまで触れずに、外見だけを見てその歪さに喜んでいただけに過ぎないのだろう。
与一郎は、それを肯定することも拒否することもなかった。
この直後に妻が改宗したときはそれなりに驚いたがそれ自体はどうでもよかった。息子たちを相談もなしに改宗させたのは腹が立ったしそれなりに言い争いになったが、それは彼らが与一郎の血縁という、当家にとって大事な手駒だからだ。別に冷たいと思われても構わない。この家を守るためならばこの身ですら駒の一つに過ぎないのだから。
「ついに落ちましたか」
忠三郎を招いてのささやかな酒の席での与一郎の一言は、どちらかというと忠三郎の改宗という事実よりももっと奥を突くものだった。まあ、こう言って揶揄うのはおそらく自分だけではあるまい。
「もう少し言い方というものがあるだろう、与一郎……無礼だぞ」
「無礼なのはどちらですか、何度も押しかけてきては赤子のように泣き喚いて、そのたびに諦めると言っていたのは……レオ殿でありましょう」
忠三郎とは目を合わせず盃を眺めながら、あえて洗礼の際に名受けられると言う異国の名前で呼んでやる。明確に線を引く感覚だ。忠三郎は不服そうに唇を尖らせる。
「それはその……仕方のないことだったのだ……だいたいお前は俺のことをその名で呼ばなくともいいのだぞ。それともなにか、お前も改宗するか?」
「お生憎様、私がいては何かとあなたも不都合でしょう。お邪魔虫はここで眺めているだけですよ」
「何を言っているんだお前」
忠三郎が身振り手振りを交えて話すたびにその胸に下がる神への服従の首輪が揺れるのが気に食わない。
「よもやお前、右近殿とのことを口外してはいないな?」
「あんな話、誰にも話しませんよ。あんたと右近殿がどんな関係になったところで誰もそれを面白がりはしないでしょう……ああ、でもあの蒲生殿が泣いて一人の兄弟子を焦がれていると言うのは、少しは話しの種になりましょうなあ」
くつくつと笑うと、忠三郎が頬どころか耳までその血を昇らせる。
「与一郎お前なあ!それに、お前がいてどうしてお邪魔になると言うのだ……まさかお前も右近殿を?」
「知っているでしょう、俺はあんたと違って男は好きません」
「ではなぜ」
「さあ、どうしてでしょうねえ……懐に入っているそれに答えは書いていませんか」
そう言って近寄り忠三郎の懐に手を当てる。案の定、そこには一冊の本がある。聖書と呼ばれる彼らの聖典だ。十字架とともに譲り受けたと風の噂には聞いていたが、やはり持ち歩いていたか。
この本を持つには忠三郎はあまりにも純朴すぎると与一郎は本能的に思っていた。別にこの一冊の本にどのようなことが穿いてあるか事細かに知ってはいない。だが聞きかじった程度だが、なんとなく忠三郎が持つには危ない代物だと思っていた。
「お前に何がわかる」
「あなたよりはわかっていますよ……改宗したとて、右近殿は手に入りませんぞ」
「……いやお前は何もわかっておらん。諦めるために改宗したのだ。盟友になってしまえば、もう諦めざるを得ん。退路を断つために改宗したのだ」
……盟友になってしまえば……というところが引っかかる。まるで過去の自分を見ているようだ。親友になればこの淡い恋心を諦められると無邪気に思っていた、過去の醜くも美しい何も知らない自分を。その相手がよりによって目の前のこの男だなんて思いたくもない。その男が、よりによって先般から話題に上る右近こと高山右近に大層惚れ込んでいるだなんて、この地獄が地獄に見えているのはどうやら与一郎だけのようだ。
「だからお前が変に気を回す心配もない。今日はその詫びに来たようなものだ……今まで心配をかけたな」
「まるでもう二度と会えないような物言いですね」
忠三郎はそんなことあるか、と笑うと、懐から件の本を取り出した。簡素な本は、右近がその手で書き写したものだと言う。
「これを見ていると、心が落ち着くんだ……”隣人を自分のように愛すること、愛は隣人に悪を与えない”」
そう読み上げる忠三郎の顔が、どんどん与一郎の知るところのそれと変わっていく気がした。もうこの人はレオという人間で、蒲生忠三郎という男ではなくなってしまったような気すらする。それだけは厭だった。どんな手を使ってでも、引きずりおろしてでも……いや、よそう……それをしたところで虚しいばかりだ。
「おい、与一郎聞いているか?」
「ああ、聞いてませんね」
「聞け、俺がわかりやすく教えてやるんだから」
「どうせ右近殿からの受け売りでしょう」
「…………まあ、そうだが」
話を半分に耳を傾けながら、与一郎は右近の横顔を思い出していた。ああ、ああなってしまうのだろうか。世の中総てがああいう顔をしてしまうのだろうか。なにもかもを受け入れ、何もかもを犠牲にした顔をして、なんだかそれはそれで不気味だ。
わけがわからないから世の中は面白いのだ。別に右近本人はつまらなくないし、むしろ面白い人間に違いない。だが、そういうことではない。形と中身はいつだって想定の外だ。無理やり当てはめようとしてはならない。忠三郎の口から洩れる右近の声は、与一郎の心を引っ搔くだけ引っ掻くと、宵闇に紛れて煙のようにどこかに消えた。
あのとき、もっと右近との仲を追及していれば何か変わったかもしれない、本を破り捨て忠三郎をひっぱたいていれば何か違う未来があったかもしれない。それこそ神しかわからない賭け事の一つに過ぎないが、一つ言えるのは……どういう行動をとったところで、忠三郎の心はすでに右近の手中にあり、右近はそれに気が付かず、与一郎はそれを見ていることしかできなかったと言うだけのことである。
君の思想になりたい(お題:思想)
神の子であるイエスは群衆を前に山上に腰を下ろし、弟子たちにこう言ったとされる。
「心の清い人は幸いである、その人たちは神を見る」
まことに心の清い人というのは、この国にどれほどいるだろう。忠三郎は考える。何をもって清いと言うのかは議論が必要なところだが、少なくとも忠三郎を導いた高山右近という男は、これ以上なく清いと思う。そこには忠三郎が右近に抱く特別な感情は加味しない。むしろ、その清さに憧れを持っているのだから順序が逆だ。
その右近の目に世界はどう映っているのだろう。その背中に憧れて、忠三郎はひたすら祈り、渡された聖書を読んで過ごした。それでもわからないことだらけだ。教えは少しずつ忠三郎の足元を照らすが、それらは蛍の一匹一匹のようにまばらで右近の思想には追い付かない。
あの穏やかな微笑の中に隠された激流のような情熱。まるで知識という薄氷の下に思想という名の溶岩が蠢いているかのようだ。
本当に彼には神が見えているのではないだろうか。その清い思想に、少しでも近づけたら。
いや、違う、忠三郎は気が付いてしまった。
右近の思想の中に入りたいのだ。右近の思想のひとつに、そっと忍び込みたい。その願いはとても醜悪だということは忠三郎が一番よくわかっている。
だから何も言わなかった。ただ、この心にある邪な叫びを、押さえつけるだけだった。
忠三郎が没した。右近は共通の付き合いである与一郎のもとを訪ねた。二人はしばらく黙していたが、そのうちどちらともなくぽつりぽつりと話し始めた。
「飛騨殿ほど心の清い人はいませんでした」
右近がそう言う。与一郎はなんとなくそれに首を縦に振ることはできなかったので、腕を組み視線を落とすことだけをした。
「心の清い人は神を見ると言います、彼には見えていたのかもしれません」
「神が、ですか」
「……ええ、彼はいつも聖書を身近にとらえ、自分の言葉で解釈していました。彼の思想こそが、まことに清く神に近かったのかもしれません」
与一郎は右近を見る。その痩せた方は震えていて、目にはうっすらと涙を浮かばせていた。忠三郎が……神に近いと言うのは、与一郎もなんとなくわかる。特段耶蘇の教えを信じてはいないが、彼らの言う神は忠三郎を愛するだろう。
だが、与一郎は知っている。彼が右近に特別な……それでいて耶蘇の教えでは赦されない想いを持っていたと言うことに。
ああ、虚しい。右近が泣いているところなんて初めて見たというのに、一緒に泣くこともその涙を笑うこともできない。
忠三郎は右近に、右近は忠三郎に、互いに特別な情を持っていたのに……それが結ばれることはなかった。
全知全能の神という思想。それが二人を別ったというのなら、そんなものくたばってしまえと言いたくもなるが、何よりこの二人を繋いだものがそれである以上、与一郎はもう何も語れることはなかった。