高山右近

二人して俺になんの恨みがあるんだよ、と与一郎は言ったそうです

その日与一郎は苛立っていた。出かける用事が先方の都合で急になくなり、届くはずの手紙は届かず、手慰みで削り始めた作りかけの茶杓は盛大に手元が狂ってだめにしてしまった。そういう日もあるだろうと楽観的な人間ならば思えるのだろうか。与一郎にはそうい…

腐れ縁と馬鹿に付ける薬がない

馬鹿は死んでも治らない、という言葉を思い知る。久方ぶりに会った男は、自分の記憶とは何一つ変わっていなかった。仕事終わりの金曜日。男のスマートフォンに一件のメッセージが舞い込んできた。『相談したいことがある。』などという白々しくも、文面から察…

明日晴れたら

右近は晴れの日が嫌いだった。雲が厚く立ち込め、今にも雨が降り出しそうな気候が好きだと言ったら、友人たちに怪訝な顔をされた。潔癖の右近殿らしくない、雨が降っては泥が跳ね汚れるではないかと。潔癖かどうかはさておいて、彼らは一つ勘違いをしている。…

ある恋

それまで右近は自由に生きてきたと言っても過言ではなかった。家族を持ち、領地を持ち、幸せに生活していた。大掛かりな復活祭もやった。信仰とは生活そのもので、身に染みているものだ。それに抗わず生きることに誇りすら抱いていた。だから神の御名の下に、…

正しい涙

初夏の日差しが寺の縁側に腰掛ける忠三郎を容赦なく照らした。新緑の影が淡くなっては浮かび濃くなっては沈んでゆくのを、じっと見つめてはため息を漏らす。「あまり外にいてはこの暑さは毒になりますよ」そう言って茶を持ってきたのはここの僧侶だ。もう十年…

十字架

あきらめる為に切支丹になった、なんて聞いたら、右近は怒るだろうか。一度、言ってみたかった。あなたをあきらめる為に、神に跪きました、と。「飛騨殿は不思議な方です。ここまでわたしの心を受け入れてくださった方はいらっしゃいません」嬉しそうに語らう…

Crossroad

「どうして」この国を出るまであと僅かとなった夜明けごろ。すべてを捨て、すべてを遺してここを後にしようと、方々に形見分けを済ませ、海に浮かぶ朝日を眺めに外に出た右近はその姿を見て、思わずそう口走ってしまった。目の前に広がる深い海のような色の目…

野の百合のいかに育つか

ついに出立の時が来た。もう二度とこの国には戻ることはないだろう。目の前には秋の青空がただ何も言わずに微笑むばかりで、これからの旅立ちを示唆しているような気がした。……全て無駄だったとは思わない。右近を知る者は彼の追放を仕方がないと納得させて…

【R18】命ばっかり

一体いつからこんな関係になっていたのだろう。軽口をたたいては笑って、その所作の美しさに心を躍らせて、聖堂でうたを歌い、時には悲しみ、怒りをあらわにして……心のすべてを通じ合わせることができなくても、それだけで右近は満足だったはずだったのに。…

毒の豪雨

雨が降っている、それも大粒の雨だ。声を押し殺し与一郎の指の動きに意識を尖らせ、与えられる甘やかな刺激に耐える右近を見かねた天の情けなのか、それとも罪人を裁く鉄槌なのかは知る由もない。「この土砂降りだ、きっとあなたの声なんて掻き消えてしまうで…

ただ、夢に出ないだけ

忠三郎が死んでから半年が経った。世界は一瞬の動揺を見せたが、やがて何もなかったように蠢きはじめ、そのままになっている。別に太陽は何事もなかったように昇ってくるし、月もまた何事もなかったように軽薄に薄雲を纏っている。何も変わらない彼だけが欠け…