一体いつからこんな関係になっていたのだろう。軽口をたたいては笑って、その所作の美しさに心を躍らせて、聖堂でうたを歌い、時には悲しみ、怒りをあらわにして……心のすべてを通じ合わせることができなくても、それだけで右近は満足だったはずだったのに。こんな水を張った盆のような緊張感のある関係を誰が望んだと言うのだろうか。
「右近殿……」
もう誰も何も許せなくなってしまった。自分も、忠三郎も、なにもかも。そもそもゆるすなんて行為自体が傲慢な考えだとはわかっている。それになによりも問題なのは、許しを願うことすら諦めてしまったことの方なのかもしれない。
ただその体に腕を回し唇を重ねる。忠三郎のさまざまな思いから生じるであろう言葉を吸いつくすように。そう、言葉だけではもうこの躰は救えない。この罪深いからだは、何も知らなかったあの頃の右近の魂をおいて遠くに行ってしまった。
悪しき欲望は次から次へと右近を苛み際限なく責め立てる。もちろん抵抗した。それは事実だ。だが右近の魂をもってしても……いや、右近だからこそなのだろうか、その抵抗はあっけなく打ち砕かれてしまった。坂道を転がる小石のように、もう自らの意思で止めることができない。こんなこと、今までの右近ならば考えられないことのはずだった。常に理をもち浄くあること、それはなにより右近の信条だったはずだった。こんなに浅ましく甘く苦い快楽をがむしゃらに求めることなんて、あり得ないとすら思っていたし、そういった人間を憐み助けようとすらしていたはずだった。もうその頃には戻れない。後ろを振り返ったところでそこには何もない。ただ無がその昏い大口を開けているだけにすぎない。
「……」
言葉もなくせがむように求める右近を、忠三郎はどう見ているのだろう。右近への愛を誓い、誠実な眼差しを向けていた忠三郎は、今もこんな自分を変わらず愛しているのだろうか。そうだとしたら、それはなぜ?右近の魂はもう引き返せずただ堕ちるばかりで、このままでは忠三郎まで堕ちてしまうのに。何故、そうまでしてこの身を愛するのか。もう右近という人間はここにいないのに。いるのは、ひとりの獣にすぎない。神にも人にも見放された哀しいけだものにすぎない。人を疑い、疑いながらもからだを開き、押し寄せる快楽に溺れた哀れな存在だ。それも厭わず変わらぬ愛を差し出すこの忠三郎という男を前に、右近はむしろ憔悴してしまったのだ。
何故なら、右近を変えたのは右近でも忠三郎でもなく、二人を見守っていたはずの与一郎であるからだ。忠三郎との関係を知りながらも右近を抱いた与一郎は、その冷えた眼差しで右近の何を見ていると言うのだろう。吐き気を催すほどの悍ましい関係には理由が確かにあったはずだった。三人の関係に歪みが生じた最初のきっかけは、忠三郎と右近がただならぬ関係になったことだとは思う。だが、与一郎の行動は右近の理解の外をとっくに超越していた。いや、二人の男のそれぞれ違う右近への感情は、どちらも右近には理解ができなかった。
与一郎に幾度となく貪られた右近の肌を、何も知らない忠三郎の厚くしなやかな手が労るように撫でる。その熱を吸い取って右近は何とか生きているようなものだ。もうこの体はとっくに死んでしまっているのかもしれない。だって右近の魂がどれだけ叫ぼうとも、ひとつも言うことを聞かないのだから。
永劫とも一瞬とも思える夜をどれだけ過ごしてきただろうか。その夜を重ねるたびに、本来ならば強く結ばれるはずの絆めいた明るい関係は、薄墨を重ねるように確実に暗澹とした翳りに塗りつぶされていく。それは望んだものではけしてないはずなのに。甘露だと思って覚えた毒の味を一生忘れられないで、右近は忠三郎の影を一生見失ってしまうのだろうか。こんなに近くにいるのに、目の前で睦みあっているはずなのに、その熱は確かに右近のものなのに。
「お願いします……もっと……お傍に……」
声が震えているのが、自分でもわざとらしいと可笑しくなってしまう。こんなの自分ではないと思っているのは誰を差し置いても自分以外にいないのだ。
もういっそ忠三郎が遠くへ行って右近のことを忘れてしまえば……考えたくもないが、その方が互いに幸せなのかもしれないという見当違いな思想まで生まれてきてしまう。せめて忠三郎には、純情なだけの右近を愛してほしかった。右近の言葉に頷きながら抱きしめるこの愛しいぬくもりを護るために。
忠三郎の横顔に、引け目しか感じなくなったのはいつからだろう。ここに座る自分を、許せなくなったのはまだいい。どうして忠三郎まで許せないと思ってしまうのだろう。そう思う自分すら嫌になる。空白しかない、ばらばらの右近に手を差し伸べ続ける忠三郎のその手に、右近が何をしたかはもう言いたくもない。考えられるだけで最悪の結果だ。右近の頬を伝う涙に同情するものなど誰もいない。
その刹那、忠三郎といたはずの空間が歪み、気が付くとそこは昏く澱み与一郎に組み敷かれていた。
ああ、今日も与一郎は右近を抱くのだ。きっとひどいことをする。これ以上なく淫猥で許されないことをするのだ。
何故、安心してしまうのだろう。これっぽっちも、爪先すら右近は与一郎を受け入れられなどしないのに。忠三郎に助けを求めるべきなのに。それができないばかりか、もう助けが来ないことをどうして悦んでいるのだろう。右近の手首を掴み床に押し付ける与一郎の細い指から滴るそれが緩やかでそれでいて明確すぎるほど冷たい殺意だと言うことをどうして救いに思ってしまうのだろう。これが救いなのだろうか。体に伝わる鈍い痛みに息を漏らし、これ以上ない恥辱を受け入れているだけのこれがどうして救済であろうか。もう何度目かもわからない絶頂で互いの肌を汚し、渇く間もなくまた汚す。汗の匂いと精のそれが、不毛な時間を埋めていく。
忠三郎と同じことをしているはずなのに、本当に心の底からその行為を受け入れ歓びたいのはそちらのはずなのに。首を絞められているような苦しさを感じるのもまた忠三郎といる時なのだ。こんなはずではなかった。
もう、わかっていたはずだ。なにもわかることなんてできないと。わかろうとするだけ無駄だと言うことを。とっくにそんなこと知っていたのに、足掻くだけ苦しいことも、諦めたほうが楽だと言うこともわかっていてやめられない。今のこれがまぼろしでも悪夢でも、ただ疑いという刃を素手で掴むことが新たな執着となって刻まれていく。その刃で何度も自らの皮膚を裂き、救われるためのなにかを、許せるだけのなにかを一生探すしかないのだ。
右近は与一郎に抱かれ、ただ、冷たい水を飲みたいと思っていた。