歴史創作

二人して俺になんの恨みがあるんだよ、と与一郎は言ったそうです

その日与一郎は苛立っていた。出かける用事が先方の都合で急になくなり、届くはずの手紙は届かず、手慰みで削り始めた作りかけの茶杓は盛大に手元が狂ってだめにしてしまった。そういう日もあるだろうと楽観的な人間ならば思えるのだろうか。与一郎にはそうい…

大久保忠成が阿部忠秋の悪戯を松平信綱越しに嗜める話

特別腹を空かせていたわけではない。忠秋は多少人より恰幅が良いが、それとこれとは別問題だ。同じ仕事をしている人間の困った顔を見たかっただけで、それ以上の理由はない。それに、自分のことを甘え上手とは思わないが、事実として年上に可愛がられてはいる…

小火の炉

「私相手では面白くはないでしょう」長い仕事がようやく終わり、少し話し込むきっかけがあった。信綱は利勝が酒を用意するのを見て、素直に眉根を寄せそう言う。晩冬、まだ寒さの抜けきらぬ夜の事、利勝は笑いながらぬるく温めた酒を口に運ぶ。信綱は酒を呑ま…

椿と芙蓉の恋

長益は初陣の際、戦とは関係のないところで馬から落ちて怪我を負った。このことは周りの人間を呆れさせ、それなりに失望もされたのだが、その後は彼の人柄もありなんだかんだ笑い話になっている。長益は一見口少なさそうな男に見えるが、話すと適度な毒をもつ…

溜息と指先と

飢えた子供ならいくらでも見てきた。身体の飢えも、精神の飢えも同様に。彼らの不幸を業と切り捨てるのは簡単だ。ある意味では光秀もたくさんの命を流れるがままに見送ってきただけなのだろう。手を差し伸べたところで、彼らは光秀の手にも気がつかない。救い…

馬鹿な火事

彼の死は正しくなかった。思えば、彼の父だって地震に巻き込まれて死んだのだから正しくは死ななかったと思う。加賀爪忠澄が死んだという事実を細川忠利は病床で知った。昔から体が弱かったから、少し風邪を引いたと思っていたのだが、どうもこの命の火もそろ…

我が左手

この手は結局何を守ったのだろうか。忠勝は、己が手を見ていた。分厚い手は歳をとるごとにごつごつしだし、硬くなった皮膚は木の皮のようだ。将軍家光は、忠勝のことを自らの左手と称した。彼の死後、遺された幼い将軍を守るのに奔走したこの手は、もはやその…

ひまわり

油照りの中、国元から上洛した折のこと。吉田の邸で一息ついた頃に忠興は言伝があるということを聞いた。淀の永井尚政が花をいくつか贈りたいとのことで、特に時期は待たないが数奇で使って欲しいとのことであった。尚政は若くして老中まで上り詰め、今は畿内…

君の脈で踊りたかった

静かに雪が降っていた……それしか覚えていない。輝綱が亡くなったのを、忠秋は隠居先で知った。せめて隠居するまではと思っていたが、本当にその最低限だけを守ってさっさと死んだ彼は、やはり信綱の血を受け継いだ子だと思う。父と比べられることを嫌がり、…