小火の炉

「私相手では面白くはないでしょう」
長い仕事がようやく終わり、少し話し込むきっかけがあった。信綱は利勝が酒を用意するのを見て、素直に眉根を寄せそう言う。
晩冬、まだ寒さの抜けきらぬ夜の事、利勝は笑いながらぬるく温めた酒を口に運ぶ。
信綱は酒を呑まないし、利勝を相手にしたとてそれは変わらない。気持ちが良いくらい、彼はそういうことを口に出す男だ。だからこう返す。そんな良い男を前に呑むことを讃辞する意味で。
「そうだろうか?別にお前は呑まなくていい。私がお前の話を聞きながら呑みたいんだ」
「豊後でも呼ぶべきかと……まあ、大炊殿がそう仰るのであれば」
信綱はそう言って目線を利勝の掌にある盃に移す。
信綱は体が酒が受け付けないのか、たまに呑む機会があるときも舐める程度で、美味いとも不味いともすら言わない。しかし下戸にありがちな酒の席での手持無沙汰な態度をとることもない。利勝からしたら不思議なものだ。酒が飲めない酒宴など、どう考えてもつまらないだろうに。
「仕事終わりは深酒されているご様子、お身体は大丈夫なのですか」
「仕事が終わるまでもなく、普段から飲んでいるからよくわからないが……まあ、今のところは無事だから大丈夫だろう」
「はぁ……」
明らかに信綱は利勝のそんな様子に呆れているようだが、利勝から言わせれば飲める人間が飲めればいいと思っている。別に信綱のように下戸に無理に勧めることがないのだからいいではないかと思うのだが。
「大炊殿が倒れられたら私を筆頭に皆が困ります」
「そうだろうか。きっと伊豆にしろ皆にしろ、うまくやるだろうさ」
嘘ではない。確かに自分の身が働くに値しなくなったならば、周りも一瞬は困るであろうが、きっと波紋の消える水面のように何ごともなかったように再び静寂に包まれるであろう。そんなものだ。そうでなければ、今頃死んだ者たちへの想いだけで世は埋め尽くされるのではないだろうか。しかし信綱はそんな利勝の様子を見て、珍しく呆れ顔のまま笑ってこう言う。
「自らの大きさをご自覚なさらないのはそれはそれで困るものですが」
「説教臭いのはやめてくれ、どうした?いつもこちらが言うているようなことばかり……」
喉を鳴らすように笑う信綱は、利勝の問いに応えない。さては利勝が気が付かぬうちに酒を呑んでしまったのだろうかと思う。
いつもならば彼の唇は語りすぎるくらいで、いつも忙しそうにしているのだが、流石に連日の夜詰で疲れているのか。
訝る利勝に、信綱はすっと小首をかしげた。相変わらず楽しそうにしている。仕事以外で彼がそんな表情を見せることもあるのだろうか。そこまで考えて、自分が日ごろからこの男を何だと思って過ごしているんだろうと自らを問うてしまった。
「こちらがいつもされていることを返しただけで……いえ、それも大した理由ではありませんが」
「他にも何かあるのであろう」
「……隠し立てするつもりははなからなかったですし、私もそういう経験がありませんから伺っていただけですが、まあ……」
「まったく、伊豆が言い澱むとは珍しい。酒があるうちに話しておけ」
その言葉に信綱はず、と衣擦れの音を立てて利勝に近寄る。
耳打ちしたその言葉に、利勝は思わず酒を吹き出すところだった。
「但馬殿から先ほど手紙が。大炊殿の様子を教えてくれと」
「は……但馬が?様子も何も、昨日も但馬は上様のそばにおっただろう。そこに私もいたんだぞ、どうかしたのか?」
宗矩とは確かに人目のないところでは親しくしている。勿論仕事上では何もないように振舞っているし、それは互いに承知しているだろうに。それにわざわざ手紙などという手法で、それも利勝本人ではなく信綱に渡すなどどういうことだ。
「憶測を出ませんが、但馬殿は大炊殿に構ってほしいのではありませんか。何か他に理由があるのやもしれませんが……何か心当たりが?」
信綱の言葉を全く選ばない態度が、却って利勝にかかる負荷を軽くしている気がする。下手に邪推されたり気を遣われるよりはよほどましだ。信綱だって利勝と宗矩の関係は知らないはずだが、まあ彼ならば特に噂を広めたりはしないだろう。昔から利勝はこの真面目過ぎる男をよく見てきた。ところどころその明晰な頭脳に振り回されることもあったが、それ以外の人となりは信頼している。
「……それでお前の様子が少しいつもと違ったんだな」
「そうでしょうか?まあ、私が大炊殿を引き留めてしまっては但馬殿に申し訳がありませんから」
「まったく……申し訳ないが、この酒がなくなったら出かけねばならないようだ」
そう言って酒を煽る。ここで酒を残したところで仕方がない。宗矩相手ならば、多少でも酔っていた方がよさそうだ。
ぐっと酒を呑み干している利勝を見た信綱が、また薄く笑う。
「では私も出かけましょう、片付けたい仕事がありますので」
放っておくと何もかもを仕事で済ませてしまうのは信綱の悪癖ともいえる。まったく、この調子では自分よりも早く倒れるのはこの男なのではないだろうか。
「自らの大きさを見誤るなよ、伊豆が倒れたら皆困る」
「それはお互い様というものでしょう」
互いに苦く笑い、その晩は別れた。