誰でもない水面
「好い香りがする」ふっと香ったその香りはどこかで知った香りな気もしたが、それがどこかは思い出せなかった。何故か安心感だけがふわふわと漂っている。利勝はすんすんと香りをたどり、それが宗矩から香っていることに気がついた。「何か焚き込めているのか…
江戸初期幕閣
争いの街と花泥棒
忠利の江戸入りが少しだけ早まったある年のことだった。忠澄の仕事が明けたと言うので、忠利は久しぶりに彼と会う約束を取り付けた。こちらも忙しくしていて、たまに手紙のやり取りなどはしていたが、それも少しずつ時間間隔が開くようになった頃だったから、…
江戸初期幕閣
曇天の猫
せめてその時の顔だけでも覚えておけばよかった。彼の顔はいつも陽の影に隠れていた。実際にはそんなことはない。彼は日向を歩けるが、直孝がその顔を無意識に認識することはなかった。いつも、直孝がその顔を見たいと思った時にだけそれは現れる。不思議なも…
江戸初期幕閣
ゆく道をまもり
自分が普通でないことなんて知っていた。同じくらい、自分が普通であることも知っていた。平凡な自分がここまできたのも、そしてこれからそれを自ら手放すのも、全て一つの理由に収束する。ただ、そのときの将軍に愛されただけ。ただ、それを受け入れただけ。…
江戸初期幕閣
その名を呼んで
そもそものきっかけは、もしかしたら自分にあるのかもしれない。若いころに戯れに関係したことはある。だがそれは若いころの……まだ互いに与七や伝八などと呼び合っていた頃だ。たどたどしい幼い睦合いは今も少しだけ苦く記憶の底に積もっている。別に彼のこ…
江戸初期幕閣
蝶に花を
あれはまだ互いに若い頃だった。忠秋と信綱は揃って家光に呼び出された。夜半も夜半だ、きっと……そう言うこともあるかもしれない、と互いに耳を打ったのを覚えている。年は少しだけ離れていたが、二人とも幼い頃から家光の側で働いていた。だから知っている…
江戸初期幕閣
鶉の報せ閑話 忠秋と信綱を見ている不思議な少年
本編閑七は捨て子の一人だ。生みの親を覚えてもいない。昔はそれが悲しくて、夜にひっそり泣くこともあった。物心ついたころから、彼は一人だった。いや、周りに同じ浮浪者はいたが、決して互いに心を許すことはなかった。閑七という名前もなかったころの話だ…
江戸初期幕閣
鶉の報せ
「鶉を全て手放したそうじゃないか」信綱の言葉に忠秋は顔を上げた。彼にしては珍しく仕事中に雑談を振ってきたと思ったが、その内容だって仕事がらみだから特段忠秋を面白がらせるものではなかった。彼の言う通り、忠秋は先日まで大量に飼育していた鶉を手放…
江戸初期幕閣
恥を知らぬ話
子どものころだ。忠長がまだ国千代と呼ばれていたころ。自らはどこまでも国千代だと思っていた。ずっと、一生そうだと思っていた。兄とは仲が良かった。夜になるとしばしば国千代は竹千代を訪れた。今思えば、両親はそれを黙認していたのだと思う。早くに独り…
江戸初期幕閣
家中たちから見た藤堂高虎という男
そもそもなぜ自分が破格の待遇で抱えられたかを実のところ詳しくは知らない。藤堂高虎と名乗る彼が、自分に何を望むのかを、元則はとんと知らなかった。嘘だ。きっと知っていたのだと思う。当時はまだよくわかっていなかったが、結局のところ自分に被さる運命…
江戸初期幕閣 茶人・切支丹
美味しそうに食べる男
もしも延俊という男を知らない人間に彼のことを説明する機会があるとしたら、忠利はどれくらいの時間で語りきれるか年々不安になってくる。最も大切なこと……というよりもこれだけは絶対に言い置くべき点として、彼はけして悪い男ではないということだけは最…
江戸初期幕閣 茶人・切支丹
煙にたずねて
秀忠が煙草を嫌うのには理由がある。臭いについては言うまでもないが、煙草を理由に秀忠から距離を取られる気がして気に入らなかった。だから娘が煙草を好むと聞いたときも良い顔をしなかった。大坂暮らしが長くつらい思いをしただろう彼女と、遂に心まで距離…
江戸初期幕閣