せめてその時の顔だけでも覚えておけばよかった。彼の顔はいつも陽の影に隠れていた。実際にはそんなことはない。彼は日向を歩けるが、直孝がその顔を無意識に認識することはなかった。いつも、直孝がその顔を見たいと思った時にだけそれは現れる。不思議なものだ。なにか理由があるのかもしれないが、それは今もよくわからない。
「先日、武蔵の寺で雷雨に遭ってな」
そんなこと、単純な閑話にすぎない。ただの事項の挨拶のようなもので、穴埋めに使う勝手な話の一つだ。
確かに鷹狩りで辺鄙な田舎の村に立ち寄った。そこは沼地だらけの使い勝手の悪いところだったが、一応井伊家として所領を得て、代官を置いている土地だった。荏原の世田ヶ谷というその村は、直孝が行くたびに曇天が広がるところだった。あまりいい印象はない。だから名前しか知らない。
大場という配下はこの土地のことを良く調べていて、この地にかつてあった城の話をいくつか教えてくれた。しかし直孝にとってはどれもありきたりな昔話にすぎなかった。
「はあ」
彼が返す言葉はいつも分かりづらい。ちゃんと聞いていないのではないだろうか。しかしそれでいてあとで聞くとしっかりと聞いているのだから油断がならない。藤堂采女と名乗っている彼を見かけたのは実はそこまで昔の事ではない。しかし、昔から知り合っているのかもしれない。わからないことだ。わからなくていいのかもしれない。知ろうとしたら、その深い色をした目に捕らわれるのかもしれない。
ただ、今ならばその目に捕らわれてもいい気がした。永劫そこから出られなくても、それは心地いいものではないかとすら思った。それが何故かはわからない。
「采女殿も見ていたのではないか」
世田ヶ谷村にかつて存在した城は、城主と姫君の悲しい話が付きまとう。周囲の女に妬まれ、城主にさえ疑いを向けられた姫君は十九歳という若い身空で、かつその腹に子を宿したまま自ら命を絶ったのだという。その時に姫君が願いを託した白鷺のことも聞いた。撃ち落された白鷺の骸からは鷺草がいくつも生えたのだという。しかしそれもただの昔話だ。どこまで本当の話か知らない。
その城の跡地に着く前から降り始めた雨は、鷹の帰りと共に強くなってきた。曇天はいよいよ黒さを増して、いまにも落ちてきそうだった。
直孝が采女に向けた、そこに彼もいたのではないかという疑いはただの戯れだ。戯言にすぎない。そこにこの小柄な男がいないことなど自分が一番わかっている。その時は自分一人で、少ない近習と、件の大場だけを連れていただけだ。渦巻く灰色の重い雲に、暗澹たる思いを重ねただけでそこに彼への想いすらなかったと思う。
「あはは、見ているわけがないですよ」
想定した通りの返事だ。それを直孝も望んでいたとでも言うのだろうか。直孝には彼の言葉が信じられない。国元では城代かもしれないが、本来自分とこうして並ぶこともおかしな彼が、自分に対して畏まることもなく朗らかにしていることが、あえていうならば好ましいと思う程度だ。
「ただ」
「ただ?」
采女はこちらに向き直り、こちらを一瞬じいっと見た後に、その目を細めた。
あの雨のうち、世田ヶ谷の昔の城の近くに寺があると聞いて、直孝はなんの気はなしに休ませてもらおうと足を運んだ。その頃はごろごろと雷鳴が聞こえ始めていたと思う。
寺に入ってすぐ、直孝はこの目に会った。采女ではないが、今の采女がしているような眼差しをした猫に。
猫はにゃおん、と鳴くと直孝をまるで導くように尻尾を振って歩き始めた。別に追うつもりはなかったが、濡れた衣をそのままに、ふと直孝はその猫の導くままに歩いたのだ。
刹那、それまで直孝がいた松の木の上でぐしゃ、という醜い音が聞こえたのち、ばあんと激しく雷鳴が響き、あっという間に松の木は燃え朽ちてしまったのだ。
直孝は驚いた顔で猫を見た。この猫についていかなかったらと思うと……時間が経ってからひゅっと肝が冷えた。猫は何食わぬ顔でこちらにすり寄り、やがて住職の足元に駆けていった。
その話の全てを采女にしたわけではない。今、なんとなく思い出しただけだ。しかし采女は直孝を見てこういうのだ。まるで総てを見ていたかのように。
「あの白猫にはお礼を言っておいてください。とんでもない面倒事を避けてくれた」
あの時たしかにこちらを見ていたのは白い毛並みの美しい猫だった。住職に抱かれて直孝の元に再び現れたその猫を思い出して……直孝は采女を見ると、ふっと笑った。
「ああ、やはりお前か。お前の何かか」
「まさかまさか、見知らぬ猫でしかありません」
采女はそう笑うが、直孝は全て合点が行った。不思議な雰囲気を醸し出す彼の使いか何かもしれない。若しくは、彼自身が猫なのではないかと思った。そうだとしたら良いとも思った。采女は、用事がないのであればとこちらに背を向けた。彼の帯の下……どこかに尻尾でもないかと思ったが、それはなかった。
見知らぬ猫であれ、命を助けてもらった恩義は出来た。ならば仕方がない。今度改めてあの猫に礼をせねばなるまい。
のちに、その寺は直孝の寄進もあり井伊家の菩提寺となった。直孝死後はその遺骨も分骨された。その寺の名を豪徳寺といって、件の猫は招き猫として広く伝わった。
今も豪徳寺には招福猫としてその猫を祀る神社が存在する。
了