鶉の報せ閑話 忠秋と信綱を見ている不思議な少年

本編

閑七は捨て子の一人だ。生みの親を覚えてもいない。昔はそれが悲しくて、夜にひっそり泣くこともあった。物心ついたころから、彼は一人だった。いや、周りに同じ浮浪者はいたが、決して互いに心を許すことはなかった。閑七という名前もなかったころの話だ。ある晩、彼は誰かの声を聞いた。
こちらへ、こちらへ……
誰かが呼んでいると思って、閑七は走った。どれだけ走ったかは覚えていないが、気が付いたら普段決して足を踏み入れない場所にいた。世の重職に就く、閑七には縁のない世界の人々の住居地域だった。いけない、早く元の場所に帰らないと……そう思ったが、声がひときわ大きく聞こえるのだ。
こちらへ……
耳を澄ませてその声の出所を探っていると、背後で人の気配がした。閑七は驚き咄嗟にすこし跳ね上がると、そのまま頭を隠し地べたに這いつくばった。暗がりの向こうに灯りが見え、ざわざわと話し声が聞こえる。いけない、あらぬ疑いをかけられて殺されるかもしれない。そう思っていると、少し離れたところから穏やかな声が聞こえる。
「捨て子か」
その声に思わず閑七は顔を上げそうになってしまった。先ほどの声に似ている。閑七を呼んだのはこの人ではないだろうか。であるならば、閑七がここにいる理由も代わりに弁明してくれるのではないかと思った。
「どれ、顔を見せてくれないか」
そう言う優しい声に、恐る恐る閑七は顔を上げた。ふくふくとした恰幅のいい、而立ほどの男だった。彼は閑七を見てにこりと笑う。悪い人間ではなさそうだと思うが、閑七は知っている。この手の人間が悪かったときの絶望を。
「そうか、さっきからよく鳴いていると思ったら、この子を呼んでいたのかもしれないね。名前は?」
「な、名前は……」
ない。チビだとかそう言う風に呼ばれていたが、それはけして彼の名前ではない。言い澱む閑七を見て何かを察したらしい、男は閑七にこう提案した。
「もしも行くところがないのならば、うちで働いてみない? 住むところも寝るところも、食べ物もあるよ。名前もあげる。どうも今朝から鶉たちが騒がしいんだよ。あの子たちの世話を頼みたい」
男の提案はあまりにも閑七に都合が良すぎる。思わず目をぱちぱちとさせて彼の顔をよく見た。丸みを帯びた顔に、人の好さそうな目をしている。周りの男たちの反応を見るに、彼は相当な位置にいる人間で、本来ならば閑七など目にも入らないのではないだろうか。すると男の隣に控えていたまだ年の若い男が割って入ってくる。
「殿、恐れながら申し上げますが……こうして捨て子ばかり拾うのは……もう七人目ではありませんか」
「アハハ、そうだっけ? でも捨て子や浮浪者をなくすのは私たちの仕事の一つでもあるよ。それが上手くいってないから彼はここにこうしているんじゃない。それに鶉番がいないのはお前たちも困るでしょ」
そう言って殿と呼ばれた男は閑七の顔を見てまた笑う。
「ですが、殿……」
「ううん、決めた。七番目って言ったね、じゃあ閑七がいい。閑に数字の七で閑七郎。どう?」
どう、と言われても、まさかの事態だったが、少なくとも悪い人ではなさそうだ。だから閑七はもう一度頭を、今度は深々と下げた。
「よろしくお願いします……働かせてください」
「よし、決まり。こちらこそよろしくね」
そして閑七は一夜にして鶉番として働くことになった。彼を拾った男の名前は阿部忠秋と言って、若くして幕府の要職に就いていた。
閑七は忠秋の下で働いた。忠秋は閑七を邪険に扱うことは一度もなかった。それまで生き物を飼ったことのない閑七に、自ら鶉の飼い方を教えたりもした。
閑七はなぜか鶉の鳴き声だけで、どの鶉が何を訴えているのかが理解できた。これは説明が難しいのだが、この前のようなはっきりとした声ではなく、何かガサガサした音に混ざった声音でわかるのだ。
そのことは忠秋にだけこっそり教えた。周りに言っても不審がられそうだし、なんとなく彼ならわかってくれる気がしたからだ。案の定忠秋は閑七の言葉に頷きながらこう言った。
「やっぱりね」
忠秋もまた、そういった鶉の声がわかるのだろうか。それを訊ねる機会はついぞなかったが、もしかしたらそうなのかもしれない。
仕事から戻ってきた忠秋の横で鶉の話をするのが閑七の仕事にもなった。今日はどの鶉の調子が悪いとか、卵の数がどうとか……字の読み書きのできない閑七には口頭で報告する方が早かったのもある。
そんな中、他愛もない話として忠秋が話す仕事の話が閑七は好きだった。彼は閑七が今まで見た中で一番誠実な大人だった。子供の言うことと馬鹿にすることはなかったし、それだけに厳しさもあった。怒鳴らなくても自分の主張を伝えることはできるのだとその時閑七は初めて知った。
仕事仲間の話もよく聞いていた。その時初めて松平信綱の名前を知ったのだ。何度も彼の名前を聞いた。最初はよほど仲がいいのかと思っていたが、聞いているうちに本当は仲が悪いのではないかとひやりとしたこともある。でも今は、忠秋が信綱をどれだけ案じているかがわかるようになってきた。いや、それも言い方が少し違う気がする。忠秋にとって信綱は多分もっと特別な何かなのだろう。
ところで、阿部家には閑七と同じ境遇の子や若者が多くいた。当初は七人目だから閑七と言われたがそれは誤りで、どうも閑七は子どもだけに限っても一〇番目だったらしいが、今更つけられた名前を変えることもないので、そのまま閑七で通っている。
特に善兵衛と呼ばれる少年は閑七と年も近かったから話しやすかった。喧嘩もしたが、翌朝になると必ずどちらともなく和解できる、閑七にとっては無二の親友だった。
忠秋はよほど子供が好きらしく、自らの子どもと閑七ら浮浪児上がりの子どもたちを分け隔てなく遊ばせた。忠秋には娘が二人いて、どちらも愛想のいい活発な少女だった。息子はかつて大和という子がいたが早世したという。
長女は志乃、次女は弥々といった。二人は閑七が拾われた初日からこの汚い手を引き体を清めさせ、拭いてくれた。姉妹は生まれも育ちもいい筈なのに嫌な顔一つしないのでその態度を怪訝に思っていたが、閑七のような子のための服を準備するのが楽しいようで、ああでもない、こうでもないとまるで喧嘩するように決めていた。姉妹は仲が良く、それぞれ違った特技や趣味を持っていた。志乃は木登りが得意で、木から屋根に伝って逃げた猫を捕まえたこともあるし、弥々は足が早かったので鶉を捕まえるのが得意だった。思えば二人とも何かしら捕まえるのが得意だった。
それまで夢にも思わなかった穏やかで幸せな日々は、少しずつ閑七をおしゃべりにさせた。それまではうまく言葉にできないことも、周りが少しずつ教えてくれた。鶉の飼育の仕事も半年もしないうちに慣れ、初めて卵から見守った鶉も大きくなっていった。名前を付けてよいと忠秋に許され、一晩悩んで善丸と名付けると、それを聞いた善兵衛に俺の名前を取り上げるなと言われ、そこで初めて彼の名前の字に気が付いて笑いあったものだった。
「閑七、元気か」
「はい、皆様に良くしていただいております」
あれからおおよそ三年が経った。閑七は昨年から忠秋の元を離れ、先述の松平信綱の下で鶉番として働いている。忠秋が鶉の飼育を辞めたからだ。なんでも、彼に取り入ろうとする人間が、良い鶉を贈ろうとしたそうだ。閑七に政治はわからない。だが、忠秋が悲しそうにしているのはわかる。
鶉の殆どは飼育に慣れた人間に譲られ、大きな鶉小屋は空っぽになった。一羽、善丸だけが残された。鶉の寿命は短い。善丸も人に例えたらそれなりの年だ。彼をどうするのか、そして自分はどうなるのかと思っていたが、忠秋は仕事から帰ってくるなり、閑七を呼び出した。
「善丸を松平伊豆殿に差し上げることにした。ついては、お前も鶉番として松平家に行くように」
それはまさかの命令だった。閑七が驚いて顔を上げると、忠秋は悲しそうに笑った。この人と離れたくない。この人だけではない。阿部家の人はみな閑七を良くしてくれた。恩を返すためにこれからも働くつもりだったのに。
「大丈夫、伊豆殿は少々難しいが、私よりも誠実だ。お前を悪くするようなことはしない。」
信綱の名前はよく忠秋から聞いていた。閑七にはわかる。忠秋が信綱を特別な目で見ていると言うことを。その場に鉢あうことはなくとも、忠秋の声音や眼差しにはいつも意味があった。
信綱を筆頭に松平家は厳しかったが、閑七の出自を問うことはけしてなかった。いや、実際彼らが腹の底でどう思っていたかはわからないが、事実としてそういった話が閑七の耳に入ることはなかった。それがどれだけ有難いことだったか知れない。
そしてその日、仕事が終わったのだろう忠秋は松平家を訪問し、閑七の横に座った。それが普通ならばありえないことだということを閑七は松平家で知った。よく二人で話したものだった。
「伊豆殿はまだ帰っていないのか。帰るように伝えたはずなんだけどなあ……善丸はどう? この前伊豆殿から聞いた話だとちょっと厳しそうだったけど」
「今朝方は餌も食べてくれましたが……だいぶ弱りました」
善丸は立派な鶉で、体が丈夫なのでたいへん長生きしているが、そろそろその命の灯が消えてしまいそうだ。鶉の寿命は短い。早ければ二年足らずでその命を散らしてしまう。善丸は三歳を超える。そろそろその命の終わりも近いだろう。
鶉小屋を眺めると、善丸は藁の上に腹を付けていた。羽根の艶もだいぶ消えた。これはあと三日ももたないかもしれないな、と忠秋も思った。
「ああ、来ていたのか」
二人の背中に声をかけたのは信綱だった。仕事を切り上げてきたのだろうか。普段より少し帰りが早いと閑七は感じたが、確証は得られなかった。
「邪魔しているよ」
「来るなら言っておけ、それなりに準備もできたろうに」
「いや、善丸の様子を見に来ただけだし……それに伊豆殿と酒を呑む気にはならないかな。仕事の話になるでしょ」
「それの何が悪い? むしろ他に何も話をするのか教えてほしいものだな」
口喧嘩のようだが、二人の間に流れる空気は穏やかだ。彼らの会話を後ろに、閑七は善丸を眺めていた。
「二人にさせてあげなさい」
どこからか声が聞こえた。それはあの時、忠秋の元へ閑七を導いた声に似ていた。優しく撫でるような声……あれは善丸の声だったのだろうか。いや、おかしい、あのときはまだ生まれていなかったはずだ……不思議に思い、蹲るとても小さな命を撫でる。昔のように嫌がることなく、善丸は閑七を促すように嘴を上げた。その言葉を信じ、閑七は二人に遠慮して退出しようとすると、信綱がこちらを見たが、すかさず忠秋が声をかけ、結局閑七は退出した。それから二人がどのような話をしたかは知らない。その晩、善丸は静かに死んだ。
それからすぐに、閑七は忠秋の元に使いでやって来た。本来ならば、もっと上の人間がすべきことだったが、信綱が自ら指名したのだ。閑七は善丸を信綱の屋敷の隅に埋め、その小さな羽根を一本形見に手にした。
「そんなに気を遣わなくていいのに」
畏まる閑七を前に忠秋はそう言って笑う。善兵衛もいた。彼は孤児の中の出世頭になっていた。ここにはもう閑七の居場所はないはずだ。しかし、まるで暇を貰い田舎に戻ったような感覚だった。実際、閑七にとって故郷はここのようなものだ。他に帰る場所などない。
「忠秋様と善丸に出会えなければ、今の私はいないので」
「それは閑七が頑張れたからだよ。お疲れ様、よくやったね」
そう言う忠秋には、すべてわかっているのかもしれない。善丸があの時閑七に話しかけたことも、呼んだことも。
「善丸が言っていました。忠秋様と信綱様は特別だと。だから二人にさせてあげなさい、そう言っていました」
「……そうか、鶉に隠し立てはできないね」
そこから聞いた話は、閑七もなんとなくそうであるような……いや、そうであってほしいと思う内容だった。
忠秋は信綱のことを子供のころから慕っていたという。誰にも言えないと思っていたが、最近それが彼に知れて、少しずつ距離を詰めているそうだ。すべて善丸が言った通りだったと思う。
松平家で働くようになって、信綱がどれだけ優秀なのかは嫌でもわかるようになった。善丸や忠秋の話すそれは、それともまた違う印象だった。
忠秋は何度も、自分は幸せ者だと言っていた。多くに恵まれて、悩むことを知らないと。だから、閑七らのような子どもたちから学ぶことはとても多いと。そしてそれを、信綱と共有したいと言っていた。
「そんな理由で閑七を松平家にやるのは、正直惜しいと思うけれどね」
そう言って閑七の頭を撫でた。彼の指先が求めているものはきっともっと違う形をしていると、閑七は直感的に察したが、ただ下を向いて聞くだけだった。
「あのとき……私を呼んだのは、善丸だと思っていました。でも、もしかしたら忠秋様であったのかもしれません」
「私が? 面白いね、どんな声で呼んだんだい」
「優しい声でした。今のような……」
忠秋は笑って頷くが、こう答える。
「そうか……でもそれは、やっぱり鶉たちの声だよ。きっとずっと呼んでいて、たまたま閑七に聞こえたんだ。本当はもっと色々な人の声に聞こえなければいけない声だけど、今はね、まだ君にしか聞こえない。大事にしてね、その耳を手放さないように」
それから、閑七は松平家で死ぬまで働いたが、彼のことを詳しく知る者は少なかった。寡黙で働き者の閑七は、時折阿部家を訪ねていたが、そこで彼が何を話していたかを知る者はいない。

2026年4月27日