しまった!
牧原アヤは夜勤明けのバスの中で、スマートフォンを手に静かに愕然としていた。
木曜日の午前11時。昼前の陽光は夜勤明けの人間に厳しい。まるでこの世には日中に勤務する人間しかいないとでも言いたげで、春から夏にかけてならばなおさらだ。体の隅々が乾いているような独特の感覚と、妙に冴えきった頭は日光には弱いのだ。時間帯的にバスが空いていることだけがかろうじて救いと言っていいだろう。
なずな総合病院で看護師をしているアヤは、曜日感覚や日数感覚が薄れがちなシフト勤務だ。趣味のドラマや映画鑑賞を諦めるほど仕事人間にもなれないが、趣味に全振りできる人間にもなれない。
それでも昨今の技術革新は素晴らしいことに、放送済みのテレビ番組が見られるアプリというものが番組の公式で存在する。配信期間は大体が放映後一週間。一週間以内であれば、仕事の都合でリアルタイムで見られなかったドラマを見ることができる。
そう、その「放映後一週間」が、昨日の24時ぴったりに過ぎていたことに、アヤは今まさに気が付いたのだ。
しまった、『カンカンガクガク』を見逃してしまった。今季一番のドラマだと思って推していたにもかかわらず、ここ一週間新患対応やら、新人看護師の指導やら、忙しさにかまけていた……。
民放のドラマは待っていれば他の配信サイトなどで公式配信されることも多い。しかしそれは何か月も先だし、どの媒体で配信されるかもわからない。このために番組公式アプリに課金することも一瞬頭を過ぎるが……いや、一つ課金してしまうと際限がなくなってしまう。大手の映像配信サイトへの月額千円の課金だって悩んで選んだのに。不惑を過ぎても惑いっぱなしだ。
だいたい、看護師の給与が思ったよりも少ないことが悪いのだ。弁護士になる夢を諦め飛び込んだ看護の世界自体が悪いものだとは思わないが……この病院は特に賃金が低いと転職した同僚に教えられ、暗澹たる気持ちにならないこともない。
そんな中で『カンカンガクガク』はアヤの日常の不満を代弁してくれるようなドラマだったのだ。脚本は社会派ドラマを書かせたら右に出るものはいないと評されるベテランで、今回も丁寧に社会のままならさとその中で正義とは何かを模索する弁護士たちの群像劇となっている。弁護士事務所に訪れる「助けを求める人々」のひとりひとりにアヤの心のかけらが存在するような気がして、推しドラマだが軽い気持ちで見ることはしたくなかった。腰を据えて見ようと思っていたのだ。
まあ、だから見逃したのだが。
溜息をついてスマホをポケットに突っ込もうとしたとき、通知を知らせる振動がアヤの指に伝わった。画面を見て、思わず重くなっていた表情が緩む。
珍しい、彼女からの連絡だなんて。
「明日、うちにこれない?」
彼女からのメッセージのあとには、最近手に入れたのであろう可愛らしいスタンプが押されていた。
アヤには、年上の恋人がいる。彼女はかつて新人だったアヤが対応した患者の妻だ。残念なことにその患者は亡くなり、当然連絡を取ることもなかったのだが……共通の趣味であるドラマ鑑賞で縁あって再会した。
穏やかだがどこかとぼけたような、飄々とした綺麗な人だとアヤは彼女……会田ルリに対して思っている。
最初こそアヤが心のどこかで求めていた家庭の暖かさをルリに見ているだけと思っていたのだが、彼女の亡き夫に対してじわりと嫉妬の感情が滲むことが増えていき、ルリへの想いが恋愛感情によるものだと気がついた。
ルリもおそらく最初は本気にしていなかったろうが、さまざまあって交際が始まり2年が経過した。穏やかな関係は激務なアヤの生活の支えのひとつであり、次の休みはどこに出かけようかなんて話し合うのがモチベーションになっている。
「もちろん!お昼からお邪魔していいですか?駅でご飯買ってきます」
とはいえ、敬語が抜けない。
ルリとアヤの年齢差は24歳。ルリと先夫の間に生まれた息子とアヤはほとんど同い年で、そちらとは最近やっと互いに敬語が消えたのだが、肝心のルリとの間にはいまだに敬語がうっすらと残っている。
年齢差なんか気にしないと付き合い始めたが、結局このままでいいかとほったらかしている。ルリも何も言わないので、甘えている形だ。
なかなか、これでいいと腹を決めることができない。二人のゆるやかな関係が心地が良いのは確かだが、もっと良い関係になれるのではないかと実行にも移せない。懸念ばかりが頭を掠めるのだ。
バスに揺られながら、アヤは車窓越しに外を眺める。
駅前に近づくにしたがい子どもを連れた自分よりも年下の女性を見かける。自分には縁遠い世界。たぶん、絶対に見ることのない景色。どのようなものだろう。
ああ、だめだ。夜勤明けは心を荒ませていけない。明日は何を買って行こうかと気持ちをごまかし、アヤは帰路に就いた。
「いらっしゃい」
翌日、ルリはいつも通りアヤを迎えてくれた。S市の住宅街にある一戸建て、玄関には息子夫婦から贈られた可愛らしい猫の置物とドライフラワーが飾られ、リビングには大きなテーブルに何冊か本と雑誌が置かれている。
駅ナカの総菜売り場で買ったローストポークとキッシュは初めて買ったものだったが、思ったよりも美味しかった。看護師をやっているくせに自分自身はなかなか健康的な食生活ができないと、誤魔化すように買ったロメインレタスとトマトにバジルソースとチーズがかかったサラダも、日頃の罪悪感を消す役割以上の仕事をした。
食事がてら、いつもの話題……今季のドラマの話になる。アヤは『カンカンガクガク』を見逃したことをまだ引きずっていたが、ドラマは他にもあるのだ。
「『よすがの僕ら』、今週分見た?」
「見ました。あれ最後のシーンの横川くん、演技すごくなかったですか!?」
「そうなの、調べたらあの子モデルさんなんですってね。知らない役者さんだから驚いちゃった」
世の中には知らない子がいるのね、とルリはしみじみ語る。横川奏というモデルは今打ち出し中のモデル兼俳優で、SNSで本人の写真を二人で見てはその顔立ちや雰囲気の良さを話した。
そういえば……この横川も、出ているのだ。『カンカンガクガク』に。端役ではあるが、印象的なパラリーガル役で出てくる。大人しく何も言うことはないが、きっとこれから彼の話も挟まるのだろうと思っていた。
ああ、カンカンガクガクを見ていれば……アヤはせめてこの気持ちをルリに話して笑い話にしてしまおうと、そしてルリにどんな話だったかを教えてもらおうと思った。ネットの感想は当てにならない。ルリとアヤはわりとドラマの「見ている場所」が近いので信頼できるのだ。
「そう言えば私、先週の『カンカンガクガク』、見逃しちゃって……横川君どうでした?なんか前回随分思い詰めてたみたいでしたけど……」
「あら、珍しい。もしかして、忙しい中呼んじゃったかしら?でも、ちょうどよかったかも……あのね、こんなことアヤさんに言うのも恥ずかしいんだけれど……」
ルリはそうして、こう言いだした。
「一緒に先週の『カンカンガクガク』、見てくれない?」
ルリはそういってテレビの録画メニューを開いた。
あ、あ、あ……!
見たかった『カンカンガクガク』の録画データが、ある!
そうか、テレビはこう言う時のために買っておいた方がいいんだなとアヤは痛感した。そりゃあ、これまでもドラマの見逃しをするたびに録画機能付きテレビの購入を検討したことはあるし、今の部屋に置けなくもないのだが、長らく一人暮らしをしてテレビを買うという選択肢をなんとなくスルーしてきてしまった。だいたいドラマはタブレットで見ているし、パソコンにTVチューナーを繋げればリアルタイムでも見られるから、と10万円前後の買い物に躊躇していたのだ。
「もちろん助かります!……ていうか、その……変な感じの話なんですか……?」
「……なんというか、私もよく噛み砕けてないんだけど、アヤさんにも見て欲しいの」
そういってルリは『カンカンガクガク』第7話を再生した。
ホラー風味だな、とアヤは思った。
たまにあるのだ。ホラー回というか、幽霊絡みの話があるドラマというのは。説明し難い超常現象のようなものを取り上げる話は書きやすいのだろう。最初はルリも怖くて見られなかったのかと思った。だが問題はそこではなかった。
話のあらすじはこうだ。
主人公の一人である弁護士の夢に女性の幽霊・ヒロミが現れる。
ヒロミは主人公たちが所属する弁護士事務所で作成した遺言書通りに遺産分配がされていないと告げ、調査して欲しいと依頼してくるのだ。
調査の結果、遺言書には遺族ではない一人の女性・リサに全ての遺産を相続させることになっていた。主人公はリサに連絡を取ると、ヒロミの妹夫妻に遺産を強請り取られてしまったことが判明する。
そこから弁護士としての主人公たちの奮闘が始まるのだが、なんとラストでリサが自ら命を絶ってしまう。
ことの次第としては、ヒロミとリサは長らくパートナーとして同居もしていたのだが、資産家であったヒロミの遺産を狙ったヒロミの妹とその夫が執拗にリサに嫌がらせをしていたそうだ。ヒロミの妹夫妻にかけられた同性愛差別としか言えない発言を苦にリサは命を絶ってしまう。
主人公たちは悲しみ、悔やむがもう何も戻ってこない。先の横川奏演じるパラリーガルの佐原が主人公たちに何かを言おうとして、ドラマは終わった。
基本的に単話構成の同作としては珍しく、次回への話を匂わせる話だった。
「うーん」
今どき、女性同士の恋愛を悲恋でしか書けないのは違うのではないか……?とアヤは首をかしげる。
昔は確かに、同性、特に女性同士の恋愛描写はやたらと悲劇めいて描かれた傾向があった。それに物語の本流にはけしてならない。しかし最近は少しずつ、そうではない方向になっていたはずだ。
バリエーションが多いのは悪いことではないし、ハッピーエンドだけがすべてとは思わない。しかし……ちょっと、安直ではないのか?
と、思ってルリのほうをちらりと見る。彼女も、少し気まずそうにこちらを見た。
ああ、きっとこのなんとも言えない燻る感じを共有したかったのだろう。
「あの、ルリさん。正直言って……モヤモヤしますね……」
「そうなの、アヤさんがどう思ったのかと思うと、ちょっと怖くて連絡もなかなかとれなくて……今週のもまだ見られてないの」
「ちょっとこれ、続きを見ましょう。それで判断したいです。なんか、釈然としなくて……」
もうこうなったらヤケだと言わんばかりにリモコンを借りて、今週分の『カンカンガクガク』を再生した。
後日、アヤはルリと共に県内の自然公園に来ていた。やっと取れた休みを、ルリとのピクニックに使おうと思ったのだ。
『カンカンガクガク』放送後のSNS上は、やはりドラマの展開にいろいろと思うところのある人の投稿が目立ったようだ。アヤがみかけた範囲でも、LGBTQと物語について言及しているアカウントがいくつもあった。
良くも悪くも、それこそ「侃侃諤諤」と話す場所が増えてきたのかもしれない。とはいえ、まだ議論の最中なのだろう。
自分たちは何ができるのだろうか……。
ルリのことは好きだ。彼女の息子家族とも良好な関係を築いている。ルリが何を思って結婚という選択をして、息子を産み育てたかを実はあまりちゃんとは聞いていない。人生とはそういうものだと思っていた、とは聞いたことがある。そんなわけないのにね、ばかね、と笑うルリが寂しそうなのが嫌だったことばかり印象に残っている。
あのあとに見た『カンカンガクガク』は、佐原が自らをバイセクシュアルだとカミングアウトするシーンから始まった。自分たちは同性を愛する間は世間に罰されなければならないのか、社会はどう変わっていくべきなのか、そういうことを45分かけて描いたと思う。
脚本家としてはきっと2時間スペシャルでやりたかったのかもしれない。ヒロミとリサは過去のマイノリティとして、佐原は今の、そしてこれからのマイノリティとして描く意図があったようだ。過去にあった悲しみを真正面から描いた上で、佐原たち現代に生きる人間たちがけしてそれの繰り返しにならないよう、話としては構成されていたと思う。
それでも議論は尽きない。ヒロミとリサの話はもう少し短くても良かったのではないかとか、話としても分けるべきではなかったとか、リサは死なせるべきではなかったといった声も多かった。
折しも6月の頭と被ったこともあり、佐原役の横川奏がSNSにレインボープライドの投稿をしたことも話題になった。
「ドラマの中だけでなく、リアルに生きてる彼らと共に歩んでいきたい」
横川の言葉は共感を呼び、今も拡散されている。
アヤはルリと芝生の上にレジャーシートを敷いて、サンドイッチを並べた。
葉があおあおと生い茂る桜の樹の根元は、ちょうど良い木陰になっていて、自分たち以外にも他の桜の木の下には家族連れが目立つ。遊びに来たのであろう子どもたちが芝生を、木々の間を、縦横無尽に駆け回っている。
サンドイッチを頬張りながら、横川奏のSNSの話を少しした。スマホに疎いルリは横川の発言を知らなかったようで、少し安心した様子だった。
「本当は、こうして普通に存在するのにね」
そう話すルリに風が吹きブラウスが少し揺れるのを、アヤはじっと見ていた。
そして、そっと手をつなぎ身を寄せた。どうせ誰も自分たちのことなんか見てないだろうと思うのだが、いつも手を繋ぐ時にどきどきしてしまう。恋愛ではない意味での緊張感は、いつになったらしなくて良くなるのだろう。
ルリは手を握り返してくれた。
暖かくて小さな手が、アヤには愛おしい。
ルリは笑ってこんなことを言う。
「なんだか、子どもに戻ったみたい」
「ルリさんは、結婚して子どもがいたわけじゃないですか」
「ええ」
「こうやって、手を繋いであげてたんですね」
「……そうね」
しばらく、手を繋いで話をした。もうすぐ梅雨入りだとか、夏ドラマはどうなるのかとか、そういうたわいも無い話だった。
「あ、そう言えばね」
そう言ってルリが手を離す。惜しむように手を浮かしていると、ルリがそっとカバンから取り出したチラシを見せてきた。
「え……ルリさん、その」
アヤはその文字を目で追うごとに、言葉が詰まった。そこにあった感情は、単純な喜びや驚きだけではなかったのだが、すらすらと言葉にできるほど紀要にはなれなかった。
たまたま寄った図書館で見かけたというそのチラシには、『同性パートナーシップ制度施行開始のお知らせ』と書いてあった。レインボーフラッグのマークとともに、市内在住の住民であれば申請できるそうだ。
「あのね、今すぐじゃなくて……いいと、思うんだけど……うちでも始まったみたいだし。その、考えてもいいのかなって」
そう口篭りながら話すルリに、アヤはじわりと暖かさが心のどこかに滲むのを感じて、口元を手で覆った。
「いいんですか、私……こんなんですけど」
「それがいいんじゃない!それでね、一緒に住んでないと申請できないんですって……もしあの家でよければ、私と暮らしてほしいの」
実は、二人で住めないかということはアヤだってずっと考えていた。ただ、ルリの家は彼女の息子の実家だと思うと、こちらからは言なかなか言い出せなかったし、ルリがこう言ってくれた今だって躊躇がないとは言えない。
それでも……。
「私も、ルリさんと一緒に生きていきたいです。ルリさんの家からなら通勤もできるし……あれ、なんか泣いてるな私……えへへ、ごめんなさい」
アヤは涙を拭って、ルリに寄り添う。背中をぽんぽんとあやすように叩くルリの手のぬくもりが心地よかった。永遠に続くわけではないけれど、それを超えたところにあるほのあたたかい優しさに、アヤは再び瞼を擦った。
こうしてふたりの日常は、明日も、明後日も、来月も、来年も、変わらず続いてゆく。
了