大久保忠成が阿部忠秋の悪戯を松平信綱越しに嗜める話

特別腹を空かせていたわけではない。忠秋は多少人より恰幅が良いが、それとこれとは別問題だ。同じ仕事をしている人間の困った顔を見たかっただけで、それ以上の理由はない。
それに、自分のことを甘え上手とは思わないが、事実として年上に可愛がられてはいる。だからそういう悪戯をしても大丈夫だろうと思っての行動だったはずだ。実際はそこまで考えていたわけではないのだが。
「俺が言いたいことはわかるな?」
信綱は登城した忠秋を控えの間に押し込むようにして、座らせた。周りの人間はなんだなんだと様子を伺っている。
まるで心当たりがないわけではないが、だからと言ってここまでされる謂れはないと思うのだが。これではまるで見せしめではないか。
「いやあ、なんのことやら」
「玄蕃殿の飯を食い散らかしたと言う話を聞いた。どうせまことの話であろう」
「おや、知恵伊豆とも称される伊豆殿が、ただの噂話だけを頼りにされて私を詰るようだ」
「余計なことを言う必要はない。玄蕃殿から聞いた話だ」
確かに、忠秋は先日玄蕃……大久保忠成の弁当を食べた。白飯と鮭、あとは漬物だけの簡素な弁当だった。
必要に迫られたわけでもなく、忠秋は昼前の僅かな時間でこっそり忠成の弁当を平らげ、そのあと自分の弁当も米の一粒も残さず食べたのだ。すべてはただ困らせたくなってやったことだ。
忠成は忠秋よりはるかに年が上で、ほとんど親子ほどの年の差だ。近く駿府城代となるという話も出ている。しかし忠成はあまり偉ぶることのない、親しみやすい人間であった。彼の兄である忠隣が失脚した後も淡々と仕事をこなす真面目さもあり、一方で洒落っ気のわかる男だったから忠秋はよく懐いていた。
そういう関係だからこその悪戯であり、その日のうちに忠秋は忠成を酒に誘い謝ったし、それに対し忠成も笑って許してくれたというのに。
「もう終わった話じゃないか。伊豆がそんなに怒る必要もない」
「終わった? 豊後、まだ終わっていないことがあるだろう」
どういうことだろうと忠秋は思っていたが、どうも話を聞くと信綱が夜詰のために城内に保管している食べ物が、気が付いたらなくなっていたそうだ。
「伊豆、待て、それは濡れ衣というものだ。どうして私がお前のものに手を付けねばならない」
この時点で周りからはくすくすと笑う声が聞こえてきていたが、忠秋にとっては本当に心当たりのないことだ。笑わせるのは好きだが笑われるのは嫌いな忠秋は、今すぐその言葉を撤回させたかった。
「玄蕃殿のものを食べて俺のものを食べないことなどあるか」
「だいたい、何を……」
その時、廊下から大きな足音がした。控えに入ってきたのは件の忠成その人だった。彼は朗らかに笑うと、体格のいい体を忠秋と信綱の間に割り込ませる。仲裁に入るように。
「おやおや、何か揉めていると言うから来てみたが……何がありましたかな」
忠成は事情を聞くと、面白そうに笑う。普段よりも感情を表に出すので、信綱も忠秋も訝しんで見ていると、こんなことを言い始めた。
「あの魳(かます)かぁ。あれは干し方がよく随分と酒が進んだものだ。そうだったな豊後殿」
信綱は品目までは口にしていないのに、忠成は信綱が持ち込んでいたものをピタリと当てると、忠秋に向かってそう言った。
魳……そういえば、酒に誘った時に忠成が持参した肴に魳の干物があった。水気が飛んで身の締まった魳は確かに肴にちょうど良かったが……。
「まさか、あれは伊豆のものだったと……?」
忠秋の言葉に忠成は不敵に笑う。どういう手段を使ったかは知らないが、彼は信綱が持ち込んだ魳を抜き取るとそのまま忠秋の邸に向かったというのだ。
「貴殿らは仲が悪いと言うから、話のきっかけになるかと思ったのだが……随分と仲が良さそうで安心した。いやいや失敬、仲が良いのならば豊後殿の悪戯も伊豆殿と一緒に責任を取ってもらったということにしよう」
忠成はそう言うと、忠秋の肩を叩き去っていった。まさに嵐のようで、残された信綱も忠秋も何も言うことはできなかった。
「……伊豆。その点についてはすまん。今度、何かを送ろう」
しばらくの沈黙のあと、忠秋がやっとそう言えたところで、信綱は呆れたように笑った。
「まったく、悪戯者が多くて困ったものだ」