明智光秀が生きているという噂は、忠興をそれなりに動揺させた。直接その噂を聞いたことはない。きっと皆、忠興が彼の娘婿なことを気にして接しているからだろう。しかし、それでも耳に入るのが噂というものだ。そういうこともあって、ただの悪趣味な噂にすぎないと平静を装うのはそこまで難しいものではなかった。それよりも、今生きている珠子と子供たちをいつ呼び戻すかをずっと考えていた。光秀の孫にあたる小也というまだ幼い女児も、このまま引き取ろうと思った。最初は悩んだが、これで自分の中できっぱりとあの義父との関係に終止符を打つつもりで、誰かの娘ということではなく、純粋に珠子を愛そうとすら思った。
しかし忠興は珠子の変化にまったく気が付かなかった。よしんばそれを感じ取ったところで、それまでの光秀と珠子の区別がつかないなどという尋常でない状態が常だったのだから、むしろ彼女の変化というよりも自分の変化だと思い込んでしまっていただろう。だからこんなやり取りがされていることなど忠興は知りもしなかった。
清原いとが、周りを気にしながら珠子の元に滑り込むように座る。その小さな手にはやはり小さな十字架が握られているが、珠子の位置から出ないと伺えないものだった。いとは押し殺した声でそっと耳打ちする。
「珠子様、以前お話しされていた受洗についてですが」
「わかっています。寿巳」
寿巳と呼ばれた女は、珠子の横で表情一つ変えず答えた。彼女は珠子が明智家の娘だった頃から今に至るまで従順な部下の一人だ。きっと珠子が死ねと言えば喜んで死ぬだろう。
「はい、準備は出来ております」
「では日取りはこちらで……宣教師を呼べないことが心残りではあります。珠子様ほどの方が受洗なさるというのに……」
口惜し気ないとの小さな目は、言葉の外にある今の珠子の境遇を嘆いているのだろう。珠子は笑っていとを労った。
「いえ、これでいいのですよ。いずれ皆、すべてを理解するでしょう」
彼女らの計略を知らないまま、忠興は忠興である計画を立てていた。忠興には不仲な弟……興元がいる。昔から反りが合わなかった。そんな彼に興秋を押し付けてしまうという多少手荒なものだった。興元には子がいない。最初は忠興の言うことにいい顔をしていなかった興元だったが、何度か話して半ば無理矢理許諾させた。これしかないのだ。そう思った。
だから珠子らが細川家に戻ったその日には、既に興秋が興元と養子縁組することが決まっていた。珠子は忠興の行く手に立ちふさがり激しい剣幕で詰ったが、決まったことだと言い捨てるしかなかった。珠子にとって興秋は掛け替えのない存在かもしれないが、忠興にとってはそうではない。それだけだ。珠子を手元に置けるのならば、興秋はむしろ邪魔でしかなかった。やっと消えた義父の残り香を、排除できるのならば手段を選べるほど忠興にも余裕がなかった。
「殿ッ! どうしてそんなことを簡単に決めることができるのですか、人としての情はないのですか!」
激昂する珠子の表情を、忠興は直視できなかった。内心彼女の中にある義父の影におびえているのは事実なのだ。もこの世には彼女しかいないことを何度も自らに言い聞かせ、自分の意思は揺るがないことを伝えた。
「そんな……そんなこと、父上が聞いたら何と言うか……」
だから、その言葉は忠興の心の奥底にあるその恐怖心を煽るのには十分だった。思わず珠子を睨む。彼女は忠興のその反応にも負けない形相だった。息を吐き低い声でこう問う。それはできることならば、彼女には言いたくないことだった。
「お前の父親は死んだ。何故まだ生きているような口ぶりをする?」
言ってしまったあとで、自らの言葉の強さに後悔することなどいくらでもあるだろう。この時もそうだと思っていた。
だが珠子は忠興のその言葉にむしろ表情を緩めた。どころか、あの穏やかな笑みを見せさえした。忠興が一番見たくない、あの義父と同じ穏やかな微笑だ。やめろ、と口に出す前に珠子は一言、こう言って忠興に背を向けた。
「恐れずに妻を受け入れなさい」
南蛮の神の子は、処女から産まれたという。母親を娶った男は、彼女に触れることはなかった。天の知らせがあったのだという。天の遣いはこう言った。恐れずに妻を受け入れなさい……忠興がその話を聞いたのは、それから少し経ってからだった。
忠興の友人がまた一人、耶蘇の教えに改宗した。もうこれで何人目だろうか。数えるのも億劫だ。新しいものに飛びつくほど、忠興は自分が身軽だと思わないが、かといってそれらを冷笑的に見ることも、ましてや止めにかかるようなほどの人間でもなかった。だからただ、眺めていた。
蒲生氏郷の改宗は、それでも忠興の心を強く動揺させた。彼は忠興と古くからの付き合いだ。それだけならどれだけよかっただろうか。忠興は、たとえ光秀への想いが仄かな憧憬だったとしても、氏郷への想いは確実に恋愛感情を伴うものだということを自覚していた。
氏郷の眼差しが好きだ。それは否定しようにもできないものなのだ。彼の目が悲しみに憂う時、その因子を力づくでも払いたくなるのだ。誰も知らない。忠興だけの秘密だった。
氏郷を導いたのは高山右近という色白の男だった。伴天連集の大檀那と目される彼もまた忠興の友人だ。それには変わりないのだが……忠興は知っている。氏郷が右近を見つめる視線の意味がどういうものだかを。氏郷は、右近を好いている。それは忠興が氏郷を盗み見るときと同じ意味を指している。忠興と氏郷しか知らない。これは二人だけの秘密だ。秘密に秘密が上塗りされ、もう自分でもなんだかわからない。ただ、最近氏郷から右近の話を聞かなくなったとは思っていた。てっきり諦めたと思っていたが、まさか遂に改宗するとは思っていなかった。
友人との他愛もない談笑の中で、彼らの聖典の話になった。本当に、そこにはなんの意味もなかった。だが右近は物語ってしまったのだ。珠子が口にした言葉の意味を。
「恐れずに妻を受け入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」
その言葉は、忠興の隠し通していたはずの恐怖の糸を引っ張り上げ、思いもよらない行動を起こさせた。右近のその細い首を、友人たちの目の前で絞め上げたことは、周囲に衝撃を与えた。
幸か不幸かちょうどその頃、忠興に隠れて珠子が改宗したことが明るみに出た。このころのことはもう思い出したくもないし、思い出そうにもどう過ごしていたかも思い出せない。とにかく忠興にとって都合の悪いことしか起きなかった。ただ、右近に対する凶行については、奥方を耶蘇に取られて悔しいのだという謂れもない理由で黙認された。それはある意味では都合が良かったのだが、根本的な解決にはなっていない。
しかしその対価として、忠興は珠子に対しおぞましいことをしてしまうし、それはまた新たな悪夢の幕開けを意味していた。どこまでも香る義父の残り香は、それだけ忠興を支配していたといっていい。