光秀と関係する以上、彼の娘である珠子を抱けなくなるのではないかという畏れもあった。しかしその心配は杞憂だった。何故か珠子への欲情は消えなかったどころか、むしろ興奮さえした。それが彼女の実父に対する歪な欲望であったのことは間違いないだろう。しかし、その時はまだ気が付いていなかった。それを自覚したのは、強烈なものだった。懐妊した彼女を見て忠興は思わず言葉を呑んでしまった。一体いつからそうだったのかはわからない。珠子と義父の区別がつかないだなんて。
その事実は忠興を大いに恐れさせた。男だとか女だとかそういうことでも最早ない。いま話しているのが妻なのか義父なのかもわからないことが、彼ら彼女らだけでなく周りの者に知れてしまったら……自分は果たしてどのようになってしまうのかを考えるだけで、言い表せないほどの恐怖が襲うのであった。幸い、二人が完全に同席する機会は数えるほどであったから、あとは状況を見てどちらかであると断定して話した。おかしな話だということは最初からわかっている。光秀と珠子と同時に関係していることに対する罪悪感だとしても、甚だ理解できないだろう。忠興にだって理解できないのだから。
「殿」
閨での珠子の少し苦しそうな表情が、どうして義父に似ているというのだ。こうなってしまった原因は明らかに光秀にあるはずなのに、どうして忠興がここまで罪悪感にかられなければならないというのだ。
ほどなく珠子は女児を、そしてさらに翌年には男児を産んだ。どちらも大変な難産だった。周りは珠子の出産を大いに喜んだし、忠興も嬉しかったはずで、その中には当然光秀もいたはずなのだが、この頃の忠興の記憶は曖昧だ。その時その時は覚えているのだが、あっという間に霧がかる春の朝のようだった。ただ、子どもを抱いているかどうかで珠子であるか光秀であるかを判断していたことに気が付いたとき、忠興は自分がより一層怖くなったことだけはよく覚えている。
光秀との関係は、思ってもいない結果で幕を下ろした。光秀の反逆は、忠興に苦い選択肢を迫ったように見えるだろう。
実のところはそんなこともなかったのだ。その頃の忠興は完全に光秀と珠子の区別がつかなくなっていた。恐ろしいことに声も同じに聞こえるのだ。だから、光秀の要請を断った父の判断も、それに従い妻と離縁したていで彼女の身柄を味土野に移したのも、全て忠興にとって都合のいいものでしかなかった。
いっそ義父である光秀の死ですら、追い詰められた忠興にとっては最良の結末であったようにも感じられた。やっと妻をなんの躊躇いもなく、心の底から愛することができる。そう思っていた。そこに転がる愚かさに気が付いたのは、初めて珠子に会いに行った晩だった。
「俺を恨むか」
忠興の言葉に、珠子は首を横に振った。その胸に子を抱いてはいなかったが、今の忠興にはわかる。彼女は間違いなく忠興の妻だ。それだけが嬉しかった。彼女を抱いて、初めて安心とはこういうものかと理解した。それに気が付いたとき、忠興は涙をこらえることができなかった。それをどう判断したのかはわからない。珠子はそれを見ていた。
……あの、穏やかな顔で。
同じだった。あまりにも。初めて光秀と関係したときと同じ、慈悲深い穏やかな顔をしていた。その時の忠興の絶望感と言ったらなかった。先ほどとは明確に違う、暖かさのない涙を流し、忠興は珠子に縋るように詫びることしかできなかった。彼女から感じる熱も……その香りすら、嘘に見えた。
「恨んでいるなら、言ってくれ」
しかし珠子はそんな夫の様子に驚くことすらしなかった。ただ、その穏やかな顔で、忠興の頭を撫でた。
「いいえ。恨むことなど、何も」
その日から連夜のように夢に光秀が出てきた。彼もまた、穏やかな表情をしていた。夢自体は他愛もないもので、悪夢でもなんでもないものだったが、ただ、彼がいることは十分に忠興の夢見を悪くさせたし、魘される日々を作り出した。
珠子はやがて懐妊した。その頃、忠興は珠子を信じることのできない罪悪感という新たな歪みを抱えていた。それがいけなかったのだろう。
彼女は明智光秀を産むのではないか……という、荒唐無稽な疑いが、日々追うごとに確信に変わっていったのだった。
「無事に男児を産みます」
珠子の言葉は、きっとそこまで意味のない物だったのかもしれない。だが、そんな忠興を怯えさせるには十分すぎる言葉だった。平静を装い、唇の端を僅かに上げ、こう返すほかなかった。
「まだ産んでもいないのに何がわかる……女でいい」
「男の子ですよ」
そういう彼女の顔は、やはり穏やかだった。それからほどなくして、珠子は次男である興秋を産んだ。
男児出産と聞いた忠興の心境はあまりにも複雑であった。彼女は本当に産んでしまったのかもしれない。明智光秀という忠興の魂を奪った男を。そう思うと素直に喜ぶことは到底できなかった。
忠興のそんな様子に気が付いた男がいる。松井康之は、彼の浮かない表情を、若さゆえの斜に構えた甘苦いそれだと断定することがどうしてもできなかった。本人は気が付いていないようだが、いっそ塞ぎ込んでいるようにすら見える。
「いずれ本人がなんとかする」
思わず藤孝に忠興の様子を話したが、彼の返答はあまりにもそっけなかった。子に執着する藤孝の姿を見たことがなかったので、その時は特段気にもならなかったが、後になって康之はその自らの判断を後悔することになる。
幾人もの男たちの心を奪い、美味そうに食んだその魂は、けして消えてはいなかった。それどころか人という器を越え、薄皮一枚で隠されていた悍ましくも美しい姿を惜しげもなく晒し、にたりと微笑んだ。
「いつも守るなんて簡単に言っちゃったけど、これならうまくいきそうだ」