原罪、これから

彼との出会いは、まだ幼い忠興にとって眩しすぎるものであった。彼が父と穏やかに話す笑みの中に力強い芯を感じては、憧れをもって眺めていた。忠興が……多くの子供がそうであるように……大人の会話に割り込んでも、子ども扱いせず話を合わせてくれた。それは忠興にとって新鮮なものだった。だから、彼の娘との結婚が決まった時の忠興の心のありようは、安易に言葉にできないほどの喜ばしさで溢れていたはずだった。その縁を簡単に手放してはいけないとすら思った。その時は確かにそう思っていた。
祝言を挙げる少し前、忠興は彼……明智光秀に、こう言われて二人きりで話す機会があった。
「大人の話をしよう」
まるで彼が父と親しく会話するように、忠興を大人として認めてくれているのだと、喜んで彼と話した。もう少しこちらに、と呼ばれたら、なんの疑いもなく光秀の傍に寄った。それが最初だった。
光秀は忠興の肩を抱くとそのままその唇を忠興のそれに押し当てた。ちゅ、と上唇を吸われ、思わずその体を突き飛ばそうとしたがそのころには深い口づけに変わっていた。抵抗しなかったわけではない。忠興は光秀の胸を押しのけようと何度も試みたが、人よりやや長身の光秀と、まだ身長の伸びきらない忠興の体格差ではどうにも埋まらない壁があった。
「ん、む……っ!」
突然の出来事は忠興が抱えていた光秀への憧れをあっけなく崩すもので、なんとか押しのけ出てきた声はひっくり返って、もう二度と元に戻れないのではないかと思うほどであった。何もかも、もう二度と元には戻らないとすら。
「な、何を考えて……っ!」
はあはあと息を漏らしそう問うた。頬を染めて睨んだが、光秀は穏やかに笑うだけだった。
「そうか、口吸いは初めてだったのか……それはすまないことをしたね、償いをしよう。私はいつも君を守ろうじゃないか」
確かに口づけは初めてだった。悟られた悔しさと、それに対する代償の途方もなさが、自らの無力を嘲笑っているようで腹が立った。
そこから忠興がどうやって彼のもとから逃げたかは覚えていない。ただその時はそれだけだった。いや、口づけだって十分当時の忠興にとっては大ごとではあった。された側であるはずなのに、罪悪感すら覚えたのだった。憧れを踏みにじったのは確かに光秀だ。だが、彼にそれをさせてしまった途方もない理由があって、それは自分に起因するものではないかという加害意識に少しばかりの自己意識の高さが混ざって、自分ではもう何が正しいことなのかもわからないまま、なんとか逃げ帰ったのだと思う。
あのときに縁は確かに結ばれたのだろう。だがそれは忠興の望みもしない悍ましい縁が、解こうにも解けない強靭さでただその魂を縛り上げているだけといっても過言ではなかった。
光秀の娘である珠子との祝言は、その後滞りなく終わった。光秀もあの時のことなどなかったかのように振舞い、周りもこの義父を敬うよう薦めた。言われなくても、忠興はこの義父を誰よりも敬愛している自信があったはずなのに、あの苦々しい口づけが頭を掠めては、何度も背中が冷えた。
珠子はその父に似て聡明な目をした女だった。少しばかり感情的になるところもあるが、世の人とそうは変わらないだろう。夫婦関係も傍から見て悪くなかったと思うし、そう思われるように努めていた。
一瞬でも、あの関係が幻だと思えた日があったはずだった。それを崩したのは、意外なことに父である藤孝であった。
「義父殿に会ってやれ、お前に会いたがっている」
忠興は昔からこの父が得意ではなかった。好きとか嫌いとかではない。そう思えるほど藤孝は忠興の前で自らの話をしなかった。知らない人間は嫌えないものだ。だから好きか嫌いかはわからないが、得意ではなかった。
それに付け加え……忠興は幼少の頃この父に半ば捨てられたことがある。今では仕方がなかったと無理矢理に自分を納得させているが、当時のことはあまり思い出したくない。父を見るたびにその記憶が否応なく忠興の前に現れるのだ。
そんな父にそう言われて、年相応に反抗したい気持ちがなかったわけではないのだが、たとえ逆らってもどうにもならないことだけは経験的に知っていたので、仕方なく光秀を訪ねた。不在だと言うので一度出直した。夜の事だったと思う。忠興と入れ違いに見たことのあるような男がそそくさと出ていくのを見て、変だなとは思っていたが、深く考えずに光秀のもとに向かった。
……彼は恐らく体を清めそのまま出てきたのだろう。至極さっぱりした顔で、にこりと笑った。それを見て、忠興は嫌な予感がした。会いに行くと言っていたのに、一度出直させたこと、先ほどのすれ違った男のこと、やけにさっぱりとした義父……その義父に吸われた上唇が、忠興の意思とは真反対に何かを問おうとしている。本当ならば、何も知らないふりをしていた方が善くて、あの口づけはただの趣味の悪いからかいだったのだとそう思っていたら、また結末は変わったかもしれない。
「……あの男と何をしていたんですか」
忠興の問いは、二人の間を虚しく転がった。光秀はそれを眺めるように黙っていた。表情は相変わらず穏やかに口角を上げている。だが目が笑っていない。そう言えばこの男が笑っている時、目まで笑っているのを見たことがないかもしれないが、忠興がそれに気が付くのはしばらく後のことだ。
「さあ、なにをしていたんだろうね。きっと善いことだよ」
光秀のその言葉は、忠興の疑いが真実であると明瞭に示していたし、その言葉以上の事実をつきつけていた。
「媾っていたのですか、何故、どうしてそんなことを」
「どうしてだろうね? おやおや、顔が真っ赤だ。どうしてそんなに怒っているんだい?」
「うるさい!」
光秀の言葉を遮るように忠興は叫ぶ。こんなはずではなかったし、本来ならばすぐにでも立ち上がりこの場を去ればよかった。会ってやったのだからそれ以上のことをする必要はない。そしてもう何も見なかったことにして、完全に彼に対して心を閉ざし、うわべだけの縁戚関係でいればいいのだ。
だがそれはできなかった。それは忠興の中にある光秀への思慕が、あの口づけとともに踏みにじられたはずの憧れが、まだどこかで息をしていて忠興に助けを求めている気がして。だから忠興は立ち上がりこそしたが、けして逃げることはしなかった。むしろ光秀に立ち向かう姿勢すら見せた。光秀はそんな忠興の様子を穏やかに微笑みながら見ていた。
そう、穏やかだった。彼の眼差しは優しかったが、一方ではまるで忠興のことなど見ていないとでも言いたげだった。それが気に入らず、忠興はこう叫んだ。
「弁解の余地を差し上げます……何か理由があるならば」
それはただの願望にすぎない。已むに已まれない事情があるのであれば……どんな事情でもそうはならないと思うが……ある程度納得できるかもしれないと言う、稚拙な考えにすぎない。
光秀は答えない。その顔は変わらず穏やかだった。そして彼もまた立ち上がる。唇を奪われたあの頃より少しばかりこちらも身長が伸びたが、それでもまだ光秀には届かない。
「事情を知ってどうするの。もしかして、嫉妬しているのかな?」
普段の彼の話し方ではなかった気がする。そもそもこんな声だっただろうか。くすくすと妖しく笑う彼は、本当に敬愛する義父だったかも疑わしい。
「黙れ、黙れ、黙れッ!」
「アハハ、そんな反応して、認めているようなものじゃないか……本当に可愛らしく育ったものだ。ねえ、この前の続きをしようか」
そう言って光秀は警戒する忠興の傍に寄る。詰められる間合いを嫌い睨んだが、お構いなしといった風でその長い指は忠興の顎を捉えた。
「やめろ!」
そう叫び叩き落とそうとした右手を、むしろ光秀は掴んできた。存外に強く握られ竦んだ隙に唇を重ねられ、容赦なく口腔内を蹂躙される。滑らかな舌に噛み付く機会は確かにあったと思う。それができなかったのは、認めたくはないが純粋に恐怖が忠興の心を支配していたからだ。それは年の差であるとか、体格の差であるとかそういう単純なものではなく、もっと根本的な、捕食するものとその獲物の違いと言ってもいいかもしれない。
「んんっ……! む、ぐ……」
息を継ぐ暇もなく呼吸を奪われ、このまま死んでしまうのではないかと思うほどの深い口づけは、忠興に不思議な感覚を与えた。何故かこの行為を最初から求めていたような気が急にして、その息苦しささえ安らかに思えたのだ。絡められた舌がいつまでもこのままでいたいと疼いたように思えたのだが、その時は気色悪さを一時的に受け入れただけだと自らを無理矢理納得させることで精いっぱいだった。
そう、確かに忠興は光秀を特別な目で見ていた。それはもしかしたら、恋慕だったのかもしれない。いや、いずれそうなるかもしれないものだった。しかしもうそれは恋という言葉では表現しえない何かになってしまった。なぜなら覗いてしまったから。明智光秀という男の魂の奥底にある、人ならざる何かを。
口づけに満足したのか光秀は忠興の体を引き倒し、まだ薄い背中を何度か撫ぜた。まるで幼子をあやすような行為を嫌がり身を捩る……その時に見えてしまった。光秀の首筋から胸にかけて散る、悍ましくも淫靡な情交の残滓を。そのときに忠興は……これは誓ってもいいのだが、本当に忠興の本心ではなかったと思う。あれは忠興に何かが取り憑いたのだとしか言いようがないのだが、この右手は忠興の意思に反して光秀の衣を剥いだ。呼吸が耳の奥で荒く響いたことだけよく覚えている。露出した肌には赤い痕が無数に散りばめられていた。首筋、胸元、脇腹……視線が下に降りれば降りるほど、目をそむけたくなるほど赤々しく濃くなっていく。目を背けたいはずなのに見てしまう。光秀はそれを笑ってこう言った。
「そんなに見たいの? ならば見せてあげよう」
衣擦れの音とともに、光秀の下腹部が露になった。そして導かれるように忠興は……光秀と、関係を持ってしまった。その肌の味を知ってしまった。それまで見下していた先ほどの男と同じように、忠興はその体に溺れてしまったのだった。
それから気まずい日々が続いた。光秀と関係してしまったことで、まるで自分の世界がすっかり変わってしまったようで、とにかく居心地が悪い。忠興は光秀に誘われ、何度かその体を抱いた。不思議と彼との営みでは、唯一座り心地の悪いこの世界から解放された気になるのだ。本来ならばそれこそが忠興の世界を変えた理由でしかないのにもかかわらず。