由比医師の朝は早い。
と、言っておけば格好がつくというものだが、実際のところはそうではない。年寄りは早起きになるものだが、どうも最近朝起きるのが億劫になった気がする。
おそらく若いころに無理をしすぎたのだ。医師になって40年以上、体力に任せて身を粉にして働いた。病気に休みという概念はないし、患者の苦痛も同様に休みはない。
過労で早死にした同期の医師の葬式にすら行けなかったほどだ。そんな中で、70歳を迎えようとしている由比医師は……たまたま死ななかっただけで、であれば、生きているだけで御の字だ。
朝6時には朝食をとる。新聞は総合面と社会面だけは毎日読むようにしている。テレビもつけてはいるが、知りたいのは天気予報だ。雨は患者がクリニックに行かない理由になる。今日は一日快晴だそうだ。
8時過ぎに母屋の隣にあるクリニックに入った。梅雨晴れの空がこれからの夏の熾烈さを予感させる。毎年熱中症患者が増えている。由比医師も患者に注意している手前、エアコンをつけるのだが正直なところあまりエアコンの風はあまり得意ではない。死ぬよりはましだと思ってつけているだけだと思う。
8時半、受付事務として雇っているパートの佐原というまだ若い女性が出勤してくる。佐原カナは地元の出身で、由比医師は彼女が赤ん坊のころから診察していた。由比医師の娘の同級生だということもあり、彼女が大学生の頃からこうして働いてもらっている。彼女と和やかに世間話をした後、ドアにかかっているプレートを「診療中」に変えれば、診療開始だ。
娘にクリニックを継がせ三年が経つ。自身は名誉院長というよくわからない肩書を背負ったものの、実際外来に立つのは週に二回に減った。
今日も朝から周辺の同世代が診察室にやってくる。名誉院長殿の日はいくらでも長話をしていいと思っている人間も数人いるが、全員が由比医師とは長くからの付き合いだから文句は言わない。けして都会とは言えないS市における高齢者サロンというわけだ。
「ノブちゃん、お医者をやめんでくれよ」
そう言って三十分も喋り散らして帰っていった田町も、かつてこの地で同じ学校に通った幼馴染だ。乱暴な口も聞くが、基本的には素直な男だと思う。医師になるために東京の大学に進学した信愛が、唯一楽しみにしていたのがこのS市に残った田町との手紙のやり取りだった。それも昔の話だ。
「やめないよ、まだ元気だから」
「俺はさあ、末のボンにはかかりたくねえんだわ。死んでも嫌だね、だから死ぬまで面倒見てくれな」
「はいはい。酒は控えなよ」
田町はノブちゃんは厳しいわあ!と笑いながら帰っていった。彼と話している時、自分が由比信愛という名前だと言うことをよく思い出す。
田町は今も、隣の地区にあるクリニックの院長……末高良医師をボンと呼ぶ。末医師は医師一家に待望の男子として生まれ、家庭ではどうだか知らないが、外向きには甘やかされて育った不遜な男だ。神経質なうえに気が強く、言ってしまえばわがままな男だ。家庭内のしつけがすさまじかったという話も聞く。姉が多いので女性にも慣れた口で話しかけるし、それゆえ女性からのウケはよかったようだが、それもまた田町のような男には印象悪く映るのだろう。
信愛を含め田町と末医師は同い年で、同じ小学校・中学校に通っていた。互いにとっくに還暦を過ぎても、田町は末医師をボンと呼び、多少バカにした態度をとる。おそらく田町がバカにしたいのは末医師そのものというよりも、末医師の周囲だったのだと今は思う。
カルテを片付け、待合室の様子を見に受付を覗くと、もう患者はいないようだった。佐原がため息をつきながらパソコンのキーボードを叩いている。
「レセプト?」
そう尋ねると、佐原は頷く。レセプトとは診療報酬明細のことで、国保や社保の基金にこれを提出しなければクリニックに診療報酬が入らない。佐原も由比も毎月ダブルチェックをするが、だいたい数件は返戻といって戻ってきてしまう。この修正がわりと大変だ。もう少し事務員がいればこんなことにはならないのだろうが、現状そんな余裕もない。二人で何度も確認をしていたら、気づけばもう午前の診療時間は過ぎていた。
午後は娘が診察室に入る。さてここからの時間をどう使おうか。最近気が付いたが、由比医師はこれといった趣味がないのだ。
由比医師は思い立って、スマートフォンの音声認識アプリにこう話しかけた。
「高良くんに電話して」
高良と書いてタカラと読むこの名前が、末医師は好きではない。そんな自分に向かって「たからくん」「たからくん」と呼んでくる由比医師はそういうことをわかっていてやっていると思う。家族以外の人間で、末医師を名前で呼ぶ人間は限られている。四人いる姉たちは外でも名前で呼ばれていたが、末医師はどこに行っても「末」だった。両親や祖父母たちはさすがに全員を名前で呼んだが、どこかで姉たちはどうせよそへ嫁ぐのだからという態度をとっていた。そもそも、末医師の姉たちは皆、「次は男の子だといいわね」と言われ生まれたのだ。両親が受けた周囲の圧ははかりしれない。ばかばかしいと思うが、それに逆らえるほど末医師に余裕はなかった。自分は「出てくるのが遅すぎた長男」なのだ。生まれた時点ですでに失敗を重ねている。もう、失敗は許されないとどこかで思っていた。
やはりというか、姉たちは皆早々に結婚して家を出た。彼女たちの夫も当然のように医師だったが、姉の中で医師になったのは一人もいない。
不平等だと思う。
自分が下駄をはかされているということに気づかないほど愚かになれなかった。しかし社会に盾突くこともできなかった。それを口にしたときに、静かに笑って、そうなんだよと言ったのがこの目の前にいる由比医師だ。中学生の頃だったと記憶している。
当時の由比信愛は、同世代の中でものんびりとした男で、そのくせ下世話な男たちの仲間にも入れるような器用な人間だった。人懐っこい彼のその言葉は、何故か今も引っかかっている。
今も時折、由比医師は末医師を訪ねてくる。こちらはずいぶん昔に独り身になったし、子どももいないし、口うるさい親族もおおよそ遠ざけてきた。姉のうち一人は死んだ。残りの三人の姉たちともたまに電話をする程度だ。盆暮れ正月くらいしか会うこともない。ほぼ唯一の来客がこの男だといっていい。
彼は不思議な人間だ。白髪は増えたが豊かな髪を持ち、同じ色の眉毛は色は変われど昔と同じく強い意志を物語っている。しかし柔和なのだ。学生の頃は静かな印象だったが、会話になるといつもなぜかこちらが一生懸命話してしまう。それを聞き上手だと説明されても、腑に落ちないのだ。
「今は何を読んでいるの」
由比医師はそう聞いているだけで、ふんふんとこちらの話に相槌を打っているだけなのだが、気が付けば最近読んだあの新刊小説がくだらなくて破り捨てそうになった話だとか、ヤレ映画化だドラマ化だので帯に俳優の顔がくっついているのが気に入らないだの、自分でもつまらない話をしている自覚はあるのだが話してしまう。
そういう聞き出す能力に長けているのだ、由比医師は。末医師よりもずっと町医者に向いている。末医師の話す力や聴く力は後天的に努力して手に入れたものだが、彼のそれはおそらく天性のものだろう。
彼を褒めちぎっても仕方がない。ふうと息を吐くと、末医師はすっかり冷めたコーヒーを啜り、由比医師を見つめる。彼は相変わらず静かに笑っている。
実はこんなふうに尋ねてくるようになったのはここ五年くらいのことだ。由比医師が自身のクリニックを娘に継がせる話が出たということで挨拶にやってきたのがことの起こりだった。それまでは、互いに年賀状くらいはやりとりしていたくらいだと思う。由比医師の周りにいる人間は末医師を嫌っている者も少なくないし、医師会で顔を合わせる程度だった頃は彼も自分を嫌っていると思っていた。
実のところ話しかけるタイミングがなくてねと由比医師は笑って釈明したその日から、この奇妙な関係は続いている。三年ほど前から彼は事実上クリニックを引退したようなものなので、最近は一か月に二度ほどやってきてこうして話しているのだ。互いに酒も飲まないし煙草も吸わないので、やることとしたら直近で得た知識の話になる。それが存外に楽しいのだ。昔なら彼と親しくなるなど考えられなかったのだが、この年になっても新しい友人はできるのだと思った。
いや、違う。
友人ではなかったかもしれないが、周りには友人としか呼べない相手がいた。
唯一、末医師が心を開いた男でもある。
それは会田和孝という静かな男性だった。彼はS市の隣にある県境の町出身で、母親同士が幼馴染だったことで子どもの頃からずっと一緒だった。学区が違い、年齢も向こうが4歳年上だったが、それもまた良かったのだ。口数は少ないが、末医師の境遇を理解し、その上で対等に接してくれた。
いや……それも、違う。
末医師と和孝は明らかに恋仲だった。口に出すことは稀だったけれども、二つの口は愛を囁き合っていた。末医師は自らのこうした感情の流れを自らの置かれた環境ゆえの逃避だとどこかで信じ込んでいたし、だからこそ和孝から離れがたかった。末医師が東京の高校に進学したのも、和孝が東京の大学にいたからだ。2年間浪人し苦労して大学に進んだ和孝と、何不自由なく私立の高校に入った末医師は、二人で暮らしていたこともある。
楽しかったとしか、言いようがない。互いの家族すら、あの二人は真面目で仲が良いから、二人でいさせた方が寂しくなくてよいと言っていたのだ。しかしそれも、二人の内情を知ればきっと表情を変えただろう。今ほど世界は優しくなかったのだ。今も優しいとは思わないが。
このまま互いに東京で暮らせたらいいと末医師は願っていた。医学部に進み、そのまま勤務医として働けばいい。和孝は応用物理を専攻していたから、きっと大手企業の研究職にでもなるだろうと思っていた。
「君がいなかったら、きっと僕はここにいないね」
和孝の言葉は、末医師の未来を約束したものだと思っていたが、それは淡い期待以外の何物でもなかった。
彼の言葉には続きがあったのだ。
「でも僕がいたら、君の未来も潰してしまうよ」
和孝は静かな男だった。静かに、末医師の未来を決めつけた。そのうえで関係を勝手に清算したのだ。怒りも湧かなかった。むしろ相手に都合のいいように、そして相手が自分に都合が良かったとでも言いたげな態度をとった。
「そうだね。僕はもう大人だから一人でも大丈夫だよ」
嘘に嘘を重ねて、本当は心の底が抜けたような状態だというのに強がってそれ以上は何も言わなかった。和孝は大学卒業後故郷に帰り、地元のメーカーに就職した。一人残された末医師はそのまま医学部を出て経験を積んだ。
……という、話がある。
末医師のこの話を知る人間はほぼいないと言ってよかった。末医師と、和孝だけの秘密だった。誰にも言うわけにいかないし、言うつもりもない話のはずだ。誰からも奪われたくない。評価もされたくない。
そんな話を、この目の前で穏やかな笑みを浮かべている由比医師にしたのは、いつのことだっただろうか。
どうして話してしまったのかもわからない。由比医師は聞き出すことはしなかった。ただ頷き、こちらが話す言葉をよく聞いているようだった。一度漏れ出た言葉と感情は、末医師の思想を裏切ってとめどなく溢れ、気が付くと子どもの訴えのように必死に話していたのだ。
「高良くんは、その人が大好きなんだね」
嗜めるわけでも叱るわけでもなく、由比医師は穏やかにそう言った。そうだ。そう言って欲しかったのだと思う。ずっと、その穏やかな言葉で二人の関係を受け止めてほしかった。由比医師と出会うのが遅すぎたと思ったが、それは意味のない空想にすぎないとどこかで冷静に考えている自分もいた。
和孝は地元に帰った後結婚し、S市に移り住んだ。子どもをもうけ、普通に暮らした。その子どもを末医師はずっと診てきたのだ。彼の妻が自分の同級生だったことをいいことに、まるで和孝を脅すかのように連絡を取るようになった。和孝はすっかり理想の家族というものに馴染んでいたから、時折会ったが……何もなかった。ゴルフをして、少しだけ酒を呑んで帰るというそういう関係は、二十年ほど続いた。
和孝は還暦を過ぎてしばらくのち、病気であっけなく死んだ。早すぎる死だったと思う。彼のカルテは、今も残してある。
由比医師にその話をしたとき、彼は目を細めてこう言った。
「手元にあったほうが、その人も喜ぶよ。カルテは人生の欠片だから」
何故か、そう言われて胸のつかえがとれた気がした。
思い出したのは、勤務医時代のある日のことだ。実家には帰りたくなかったが、あまりに帰らないのも親族の心証が悪いので時折顔を見せる程度には帰った。実家の客間は嫌いだ。あの場は末医師に暴力しか振るわない。
その日、その客間で知ったのだ。和孝が示した真っ当な未来というものを。
「和孝くん、結婚するんですって」
「それがお相手、嶋田さんところの娘さんらしいのよ」
「あら、高良さんと同級の子じゃない」
心が冷えていったのを今も忘れられない。そんな話、聞いてすらいなかった。嶋田という女性は確かに末医師の同級生だった。おどおどしていて、子どもっぽい女子生徒だったことは覚えている。自分とは共通点のまるでない人間だ。その場では何も言わなかったと思う。ただ黙って座っているだけだった。それが役目だったから。ただ、その話の流れでやってきた見合いの話は忙しいからきちんと向き合って決めたいとそれらしいことを言ったことは覚えている。
その後、末医師は東京で知り合った女性と結婚した。しばらくして、実父の医院を継ぐ話になった。最初から折り込み済みのことだったので断ることもできなかった。結婚相手だけは自分で決めたいとそれとなく話していたせいか、はたまた結婚相手の女性が東京出身の大人しい人間だったかせいかは知らないが、家族も結婚を素直に祝ったが、それは医院を継ぐことが条件だった。
彼女……今となれば元妻だが、彼女は末医師のそういった環境にすり潰されたのだ。末医師の血縁者は皆、当然のように早い懐妊を迫ったし、なかなか子どもに恵まれない夫婦を清すぎる関係だと揶揄った。彼女にはそれが耐えられなかったのだ。結婚して7年で彼女は東京に戻り、翌年正式に離婚した。
離婚したということは、由比医師も知っているようだった。彼はそうだったのかと口にする。由比医師も周りから男子誕生を望まれたが、妻の体を慮ったそうだ。一人娘は医師として働いているという。
もう、時代は変わったのだ。
末高良という長男が無理に失敗を重ねる必要もなかった。今となっては、誰にも文句を言えないけれど、ただ……少なくとも自分が受けた思いがここで消えるなら、それでいいと思った。
「高良くん、何か言いたそうだけれど」
由比医師がそう言う。珍しく話を振ってきたなと思うが、そう言うときは末医師も何かを言おうとしているときなのだ。本当に、人というものをよく見ている。
「……大した話じゃないさ。彼の墓参りに行こうと思ってね」
なかなか行けなかった。実はそろそろ医院を閉業することを考えている。患者も少なくなってきたし、潮時だ。それに余暇を楽しむ相手はもう目の前にいる。そのあたりも踏まえて話すと、由比医師は笑った。
「ああ、それはいい。きっと喜ぶんじゃないかなぁ」
「彼には妻がいるのに?」
「ルリさんのこと?彼女は大丈夫だよ」
何を根拠にそんなことを言ったかはついぞわからないが、結局としてその言葉は正解だった。突然の末医師の申し出に和孝の妻・ルリは勿論ですと頭を下げ、こう言ったのだ。
「きっと、あの人にとって末くんは大切な人なんだと思うの。きっと待っていたと思うのね」
彼女の言葉の真意を知ることはないが……夏の盛りの前に、末医師は和孝の墓前に手を合わせ、誰にも聞かれないようにこう囁いた。蝉の声がその声を滲ませて、無邪気にかき消していく。
「愛していたよ」