忠利の江戸入りが少しだけ早まったある年のことだった。忠澄の仕事が明けたと言うので、忠利は久しぶりに彼と会う約束を取り付けた。こちらも忙しくしていて、たまに手紙のやり取りなどはしていたが、それも少しずつ時間間隔が開くようになった頃だったから、ちょうどいいと思った。
屋敷で見た忠澄の顔には、だいぶ疲れがたまっているようだ。本来ならばもう少し血色もよいだろう目元が、薄青くなっている。
「眠れていないのではないか」
「ああ……気を遣わせてしまったなら申し訳ない」
畏まって話そうとするので、いい、いい、と手を振る。忠利と忠澄は幼いころからの遊び仲間であり、互いに淡く恋心を持った大切な関係だ。
京の寺に預けられ勉学に励んだのち、江戸に人質としてやってきた忠利に、最初に声をかけたのがこの忠澄だった。誰にも見せられない涙も、笑顔も、苦しい顔も、すべて互いに知っていると思う。事実としてそうでなくても、それくらいの深い仲だ。身体が弱い忠利の話し相手もしてくれた。
そう言えば、初めて口づけを交わしたのは忠利が熱を出した時だった。人恋しくなった忠利にせがまれて、ぎゅっと目をつぶった忠澄が可愛らしかったのをよく覚えている。
「忙しいわけではないんだ。だが……眠れなくて」
互いにそこまで酒に強くないので、いつもならばじっくり語りながら少しずつ呑むのだが、今日に限って妙に忠澄が盃を空けるのが早い。何かから逃げるかのようで、思わず忠利が酒を取り上げる。
「眠れないからと酒を呑みすぎるのはよくない。何かあったのか、話してはくれないか」
忠利の言葉に、忠澄はふと目線を天井に逃がし、しばらくして息をつくとこう話し始めた。
「……ひとりの男が、女に狼藉を働こうとした男を殺した。彼は自ら縄について、私の結論を待っていた……」
忠利はそれを一人の英雄の話だと思って聞いていた。きっと皆が彼の勇敢さを称賛するだろう。素直にそう思っていた。続きを待っていると、忠澄は言葉を暫く舌で転がすようにしていたが、やがて絞り出すようにこう言った。
「私は彼を赦した……が、彼は昨日、自宅で死んだという」
「……」
忠利は男の縊死体を想像していた。揺らめく男の血の気のひいた足は、けして忠澄に対して不満があったようには思えない。彼も忠澄も正しい。正しい筈なのに、結局彼は命を絶ってしまった。
「私は間違いを犯してしまったのではないかと、今でも思う。彼は罰されたかったのではないだろうか」
「それはおかしい、女は助かったではないか。そもそも女に手を出した輩が一番悪いのだ。お前も、その男も、何も悪くない」
「……そう、そう思うんだが……」
「甚十郎」
だいぶ彼は参っているようだ。普段はここまで仕事に心を持っていかれることはない。勿論情を大切にし、裁定においても罪人の背景をよく調べ、よく話を聞いているという。しかし忠澄も一人の人間だ。
昔、忠利の母珠子が、よく教会や神の話をしてくれた。神は善い人だけを天の国に迎えるというその話を聞いて、自分はそこには行けないのではないかと、特に悪事を働いているわけでもないのに悲しく思ったのを今でも覚えている。
忠澄の凛とした顔立ちや、真面目なところが好きだ。しかし、今はその真面目さが彼を苦しめていると思う。
ならば、ともに、わるいことをしよう。そう思って忠利はその名を呼び、顔を上げた忠澄の肩に触れると忠利はぐいっと引き寄せ、その頬に唇を寄せる。白い頬は冷えていて、今にも泣きだしそうな潤んだ目元が忠利をどきりとさせる。悟られないように、耳元でこう囁く。
「覚えているか、昔こうして触れ合った」
「……忘れるはずがない」
そう答える忠澄の肌のほんのり色づいたところを撫でる。そこに初めて触れたのは、今思えば幼い好奇心の方が強かった。好きという気持ちもあったが、互いの肌が触れ合っているとどきどきすることが不思議で何度も誘った。花を摘むようなその関係は、甘酸っぱい恋物語というよりは、幼子の拙い悪事に近いと思う。ならば罰されるべきは自分か、この忠澄か。もしも天の国に行けないのであれば、共にどこまでも旅をしたいと忠利はそういう話を忠澄にした。彼は黙って聞いていた。悪人ではないがけして善人でもない彼らの行き先は、まだ誰も知らない。
了