自分が普通でないことなんて知っていた。同じくらい、自分が普通であることも知っていた。平凡な自分がここまできたのも、そしてこれからそれを自ら手放すのも、全て一つの理由に収束する。
ただ、そのときの将軍に愛されただけ。ただ、それを受け入れただけ。家光の寵愛と同じくらい、周りの妬みや嫉みを一身に受けた正盛ができることなんて、もうこれくらいしかないのだ。不思議と自らの運命を悲しむことができなかったし、むしろ周りこそが哀れに見えた。
彼がいなくなった世界を生きなければならないのだから。それが正盛の本心に近いと思う。
「これを伊豆殿に」
だからこうして子供たちとは別に歌を遺したのは、せめて此岸に残らざるを得なかった信綱への償いのようなものだ。
彼がこれをどう受け止めるかは知らない。そこまで考えなくてはならないほどの仕事はもう正盛には残っていないし、そんな時間もない。一人遺される母の面影が一瞬胸をよぎる。
気の毒なことをしたと思う。正盛のせいで彼女は伴侶を喪った。気にせずただ勤めるよう言う母の顔が今も忘れられない。気丈に振舞うとはこのことだと思った。今の正盛は、少しだけあのときの母に似ているのかもしれない。
人の心などわからないものだ。何故なら自分が考えていることを自ら塗りつぶしてしまうこともあるから。薄墨で書いた繊細な線も、濃い墨で覆ってしまったらその中にあった言葉などもう誰にもわからない。書いた本人の胸の中にそれが残っていればまだいい方だ。正盛にはもうその下にどのような言葉が散っていたかも思い出せない。
だから、これでいい。信綱に手紙が渡るころ、もうすでに正盛はこの世にはいないだろう。誰もその言葉の下など見ることはできない。例え信綱がそれを剥がしてみることがあっても、彼は聡い男だからきっとそれを吹聴することはない。何故かそう信じてしまう不思議な男だと思う。
涙を流す人々に見守られ、盃を眺めた。最後に口をつける酒を酌み交わすことは、つまり正盛と共に死ぬことを意味する。誰とも共有したくない。この身はもうこの世にいない彼の人のものだ。例え彼らがそれを望んだとて、許すことはできなかった。だからこう言ったのだ。
「この盃を彌五兵衛に」
その名前に人々は驚き、そして意味を知るやさらに涙を落とした。彌五兵衛とは三年前にこの世を去った正盛の側近だったからだ。正盛は彼を心から信頼していたが、今の彼の役目は死んでいると言うだけの理由で選んだのだ。そこに彼との個人的な意味はない。
たとえ誰であろうと、誰も家光と正盛の間には絶対に入らせない。正盛の片隣は空白でいい。そこには何もなくていい。そうでなければいけないとすら思っていた。愛されたものとしての務めだと思う。ただ、もしもそれが赦されないのであるならば、もしくは信綱がそれを望んでしまえば……この空白もまた、塗りつぶされるのであろうと思った。
信綱は正盛から送られた手紙を一瞥すると、そっとそれを仕舞った。見返すこともないと思った。もう彼は死んだのだ。彼の最期の言葉を受け止めることだけしかできないのであれば、もう信綱の役目は終わっている。
ただ、そこから信綱は三日ほど寝なかった。別に意識してのことではない。純粋に一人の将軍がこの世を去り、遺された幼い新たな将軍をどう擁立するかで忙しかっただけでもある。そうだと思っていた。
「無理をしていないか」
「今は無理をする時だ」
見兼ねたのだろう、忠秋にそんなことを言われた。似たようなことは他の人間にも言われたが、忠秋はそう言うどころか信綱の目の下の濃い隈を容赦なくぎゅっと押してきたので印象に残っただけだと思う。
温かで柔らかい指先が冷え切った肌に温度を分け与える。ああ、この男は生きているのだなと当然のことを考えていた。確かに睡眠が足りていないのだろう。
「伊豆は無理をする時が多すぎる。今はそりゃあ仕方がないかもしれないが……」
「わかっているのならどいてくれ、お前も忙しいだろうに」
押しのけようと腕を動かすと、忠秋は信綱の袖を少し強めに掴んでこう言った。その本来温厚なはずの眉間を寄せるまでした。
「頼む、お前まで喪いたくない」
「……これを」
そう言って信綱は正盛からの手紙を忠秋に見せた。本当は見せない方がいいのだと思ったが、そこまで言われたら見せるほかないと思ったからだ。
忠秋は難しそうな顔をして、短い手紙……そこに残された歌を見ると唇を動かす。そして小さくその中身を口にして、目を苦しそうに細める、涙をこらえているのだろうか。
「出る日の……ひかりすなほにまつりこと……君の御代をは千代とのふ綱……」
正盛の歌に残された意味を全て探ることを今はしたくはない。しかし、そうでなくても露になる彼の切実な叫びのようなものを、受け止めるにはこう言うしかなかった。
「遺されたのは俺だけじゃない。豊後、お前もだ。だから今はどうか耐えてくれ」
「……」
忠秋は、暫く唇を真一文字に結び何かを考えているようだった。しばらくの沈黙を機に彼の肩に手をかけ、退くように促すと、こんなことを言った。
「今朝、加賀守の御母堂が亡くなった」
「……」
今度は信綱が黙って忠秋を見る番だった。正盛の母は、夫のみならず子にも先立たれたことを大層嘆いたことだろう。彼女の身の上を考えると、その最期の選択を詰ることなど到底できない。
「やれるだけのことをするしかない、わかっている。だが、少し人として考えなければならないのではないか。あまりにも……人としての営みを否定するのは、それは世のためにはならないだろう」
忠秋の言葉ももっともだとは思う。しかし、それでいて今できることはきっと少ない。その少ないできることを拾い集めることしかできない。
「遺された人間にも、逝った人間にも使命がある」
信綱の言葉に忠秋は何か言いたげだったが、結局それが言葉になることはなかった。やがて幼き将軍家綱の御代になり、殉死は禁じられた。ゆく道を守った人々のうち、信綱は在職のまま死んだ。忠秋もなんとか隠居はできたものの、しばらくして病気となった。彼は死際にこう語ったという。
「私が死んだ際には、骨を東照宮のそばに棄てるように」
彼の使命は確かに果たされたが、彼の願いは果たされなかった。
了