そもそものきっかけは、もしかしたら自分にあるのかもしれない。若いころに戯れに関係したことはある。だがそれは若いころの……まだ互いに与七や伝八などと呼び合っていた頃だ。たどたどしい幼い睦合いは今も少しだけ苦く記憶の底に積もっている。別に彼のことが嫌いではない。だが、妙に気恥ずかしかったことだけはよく覚えている。そこまで考えて気が付いた。今も尚政は忠勝を与七と呼ぶことに。
「え、寝ないのか」
尚政はそう言って布団に入ってしまう。尚政の隣にはもう一組布団が用意されているが、まさか枕を並べて寝ろということか。いろいろと言いたいことはあるのだが、どこまでも自由な尚政の様子に驚くしかない。
「いや……お前、本気か?」
「何が?」
尚政はいつも忠勝のことを好きだ好きだと言ってくる。忠勝が誰といようとお構いなしに。あまりにも言われるものだから、遂には周りの人間が察してしまうくらいだ。だが、誓ってもいいのだが尚政とは大人になってから関係したことは一度もない。あれは若いころのあやまちで、ただの冗談だったと自分で納得させていた。だけれども、布団から伸びてくる尚政の指が、忠勝の腕を掴んで引き込もうとする。そんな長い夢など忘れろと言いたげに。
「嫌なのか、俺と寝たくないのか」
そう言われると、一瞬考えてしまう。しかしそこで寝たいと素直に言えるほどの年齢でもないだろう。互いに立場もある。どうしてこんなことを簡単に言い始めるのかが不思議だ。
尚政はいつもそうだ。とても優秀で頭の回転が速く、顔立ちも整っていて、それなのに変に気取ることなくむしろ周りを楽しませることをなによりもの喜びとしていた。それに昔から大人を喜ばせるのが得意な子どもだった。忠勝とはまったく違う性質だと思う。
だからだろうか、彼はこういうことを平気でできる。まるで羽根のように軽く風に乗っては笑うのだ。それでいて忠勝の手を取り、おいでと誘う。正直なところ尚政のそういうところは好ましく、それ以上に羨ましいと思う。結果的にこの性格で生き残れたので、尚政のように生きられたらとはもう思わないが、彼の人懐っこく揺るがないところは素直に好きだ。それは子供のころから変わらない。
「嫌ではないが……」
「ならば構わないだろう。俺と与七の仲じゃないか」
一体どういう仲を想定しているというのだ。少なくとも一緒に眠るそれではないと思う。それでいてずっとこうしてまごまごしているのもどうかと思う。嫌なら嫌と言えばいいのだ。尚政は一見急かせているように見えるが、ずっと忠勝の答えを待っている。それも彼の好きなところだ。ならば、と思って顔を上げた瞬間、尚政の指は忠勝の裾を掴み、そのまま有無を言わさず布団に寝かされた。
「……は?」
思えば忠勝は尚政から見ても放っておけない子供だったと思う。例えば下の世代には松平信綱など、動き回ってしまう意味で放っておけない子供ならばいたが、忠勝の場合むしろ逆でどこかぼんやりとしている子供だった。尚政と話していても、何も考えていないような、遠くを見ているそんな顔をしていることがあったし、なんだか相手にされていないような気がして寂しく思ったこともある。
しかし話を聞いてみると、彼はむしろ周りをよく観察していて、誰よりも考え事をしているようだった。
「いつも頭の中で言葉を捏ねている。まるで会話をするようにするんだ。お前もそうではないのか?」
ついぞ尚政にはその意味がよくわからなかったが、彼の頭の日常は随分と騒がしいようだ。そういうところも好ましい。だから何度もこう言うのだ。その騒がしい池に小さな石を投げ込むように。
「俺はお前が好きだ」
だが、忠勝はその言葉を聞くといつも眉間に皺をよせ、まるで叱られた子供のような顔をする。そういう手合いに慣れていないとは言わせない。何故ならば子供のころからそう言い続けてきたのだから。もう何度言ったか知れないほど、尚政は忠勝を好いていると言い続けていたから。ならば照れているのだろう。初々しくて可愛らしいではないかと、いつもそう思っていた。
あれはまだ本当に若い頃、尚政は忠勝を抱いた。同意の上だった……と思う。忠勝が断ろうと思えば断れる逃げ道は用意したつもりだったが、彼がそれをどう思ったかは今もよくわからない。汗ばんだ肌を重ねて、何度も求めた。それに忠勝も応えていたと思うし、むしろ求めてくれたとも思う。しかしその後も忠勝はなにも変わらぬ顔で尚政と仕事をした。あの一夜は幻だったのではないかと思うほどであった。
試しに誰もいないところで彼の手をとり、まるで情交のように指の股などを撫でさすったくらいだ。忠勝は顔を真っ赤にして何か言いたそうにしていたが、やはり何も言わなかった。耐え切れず唇を重ねると、おずおずと尚政の袖を掴む。忠勝はそう言う子供だった。
それからどれだけ経ったろうか。尚政と忠勝はそれぞれ出世した。尚政の方が先に老中となった。別に自分が特別優れているとは思わない。ただ仕事が苦痛だと思ったことは特段なかった。その後尚政は関西に移動し、忠勝も台頭した。
互いにもういい年になったが、今もみずみずしく尚政は忠勝に惚れている。あれの一回だけで関係することはなかったが、それでもまだ惚れている。どうしようもなく。だから忠勝を呼んで、共に寝ようとしたのだ。昔のように。そこには確かに尚政の下心はあった。しかし、それを越えるほど、昔のように無邪気に過ごしたいと思う気持ちもあった。
「し、信濃、どうして」
忠勝を寝かせてその横に寝ると、彼は明らかに狼狽していた。尚政はずっと待っていて、忠勝は逃げなかった。だから同意だと思ってその指をさすると、怯むように肩を震わせぷいと顔を逸らす。年齢を重ねても本当に可愛らしい。もともと赤ら顔だが、それだけではないくらい見ていればわかる。
「どうしてと言われてもな……いや、積もる話もあるだろう。しばらく会えなかったんだから」
「だからと言って一緒に寝る必要はあるのか……?」
「あるだろう、お前は働きすぎだ。確かに俺と会ってはいるが、ちゃんと話していないだろう。だから寝ながら聞くんだ。昔みたいに」
尚政はそう言って忠勝に腕を伸ばし抱きしめた。少しだけ話をするつもりだったが、互いに互いの記憶をなぞっては、その時の感情を確かめ合う時間になった。
そして夜も更けた頃。永井家の小姓が夜を徹して灯りを持って座っていたところに、忠勝がのそりと顔を出した。
「もう寝なさい」
「いえ、お休み中はこうするよう仰せつかりましたので」
ただ頭を垂れる小姓に、忠勝は笑ってこう言った。
「信濃はもう寝た。私ももう寝るから、お前も寝るといい」
そのときの忠勝の言葉だけは後世に残ったが、その時二人がどのような話をしたかは誰も知らない。
了