あれはまだ互いに若い頃だった。忠秋と信綱は揃って家光に呼び出された。夜半も夜半だ、きっと……そう言うこともあるかもしれない、と互いに耳を打ったのを覚えている。
年は少しだけ離れていたが、二人とも幼い頃から家光の側で働いていた。だから知っている。この目の強く若い主君がどのようなものを好むかを。
「伊豆、お前には軟が足りない」
突然そう言われ、二人は必死に考えた。それは何を示しているのか、それに対する答えは何か。今思えばそんなものを考えている場合ではなかった。家光が提示した模範解答はとてもではないが理解に時間がかかった。忠秋は思わず顔を上げてしまった。
「つまり……私が伊豆を抱けと?」
「無論だ。今晩にも閨を共にしろ」
反論は許されなかった。幼い頃から病弱で人の心を読みすぎるきらいのあるこの天下人は、時折こうして目をぎらつかせる。井戸の底をふと覗いたときのような薄寒さが、いま正しく忠秋の心を支配していた。
ちらりと信綱を見る。彼は何事もなかったような顔で、御意と小さく口にした。
待ってくれと言いたくなったが、拒否できるものでもない。あれよあれよと言う間に二人きりにされ、気まずい空気が流れる。一方でそれを気まずく思っていたのは忠秋だけだったようで、信綱は特別変わった様子なく、淡々と帯を解く。人の気配がなくなったことを確認した忠秋は、そんな彼の手を止めて押し殺した声で信綱に耳打ちした。
「一体、伊豆殿はどうしてそう普通でいられるんだ? 大変なことだぞ、これは」
「仕事だからだ、お前は仕事を投げ出すのか?」
表情一つ変えずそう言う信綱に、それこそ軟が足りないことだと叱りたくもなったが、そんな忠秋の思惑を無視してどんどんと晒されていく信綱の素肌が忠秋の心をざらりと撫でる。
彼の肌を見たことがないわけではない。だがそれは子供の頃の話だ。確かにその頃から忠秋はこの歳上の痩せぎすな男にほのかな想いを寄せていたが、それはこんな事務的に繋がりたいものではなく、むしろ一生胸に留めておくべきものだと諦めていたのに。
この降って湧いたような事態は、子どもの頃の自分ならば素直に喜べただろうか。いや、きっと喜べないだろう。今もそうだ。ならば今も忠秋は子供だというのだろうか。
「まだ脱いでいないのか、ぐずぐずするな」
信綱はそう言って忠秋の帯に手をかけようとするので、もう一度訊ねる。
「本当に私でいいのか、伊豆殿はあまりにも自分を大切にしなさすぎる。そういうところが軟のないというのだ」
「それはお前の考えだろう、上様の考えではない」
むしろこれは自分が抱かれるのではないか、と勘違いするほどの信綱の押しの強さに面食らう。彼のこういうところは魅力である一方で、確かに少し変えた方がいい面だ。こんな形で実るべきではないのだが、家光の命である手前何もできなかったとは到底言えない。
仕方がない……自分にできる精一杯をしよう。そこまで考えて忠秋は信綱を徐に抱きしめた。確かにそれが何を意味するかの説明は一切信綱にはしなかった。そう言われてしまえば確かに忠秋の落ち度かもしれない。しかしそれを加味したとしても、抱きしめられた彼の反応は予想の上をいくものだった。
「は?」
「……え?」
抱くのだから、もちろんこういうことをするだろうと思っていたが、信綱は明らかに不服そうに忠秋を押しのけようとする。その指先の強さが悲しい。
「そう言うものは要らん。さっさと済ませろ」
その言葉のあまりの冷たさに、忠秋はつい声を荒げ眉根を寄せてしまう。
「済ませろ、って……簡単に言うけれど、そんなに軽いものではないだろう。お前こそ上様の考えをまるでわかっていないじゃないか」
「ならばどうすればいい。お前は詳しいだろう」
詳しくはないと声を大にして言いたかった。
確かに男と関係したことはあるが、別に嗜みとしてのものだ。それをそういう風に言われるのは心外だ。特に信綱にだけは言われたくない。
一方でそう言うことを言ってくる以上、彼にそういう経験がないことはわかった。いや、そうかもしれないとは思っていたが……想定外の事態に忠秋が困りかねていると、信綱が忠秋の帯を掴んだ。いやに脱がし慣れている。
待て待てともつれているうちに、互いに妙に服の乱れた状態で倒れ込んでしまった。こんなつもりではなかったが、信綱を押し倒す形になったことに思わず顔を上げた。
「いや、すまん」
「……しないのか」
信綱の表情はあくまでいつもの固いものだったが、その指は今度こそ忠秋の裾を掴んで離さない。それこそが答えのようなものなのだろうか。それが勘違いだと言われるとそれは恥ずかしいので言わないが、じっとその指を見てしまう。
「したい……私は、伊豆殿をずっと想っていた」
「……戯れを言うな、そういう冗談は今必要ない。するのか、しないのか。はっきりと言え」
思い切った告白はそうして流されてしまった。思わず信綱を見てしまうが、彼は彼でこちらを何とも言えない目で見ていた。それがもどかしくて、それ以上に愛おしくて、思わずその頬に唇を寄せてしまう。
何年好きだというのだ。どれだけその表情に振り回されてきたと思うのだ。それをわかっているのだろうか、いやわかっていないだろう。それを伝えるために唇に触れる。薄い唇は少し開いて、忠秋を受け入れたが……あまりに深い口づけになる前に、彼は嫌がりぷいと横を向いた。
「それは必要あるのか」
そういう彼の横顔は、少し赤らんでいた。おや、もしかしたら忠秋の気持ちも伝わっているのだろうか。そう思い頬を唇でちゅっと撫でるように吸う。乾いた頬は、存外に熱を持って忠秋の唇を受け入れた。
「必要あります、したい、伊豆殿……」
転がされているのは自分だとわかっている。こうして結ばれたいと思ったこともない。しかし信綱本人もする気があるというならば話は別だ。信綱の首筋を舐めると、その体はひくりと跳ねた。色の白いその肌が、子供のころは黒々と焼けていたのを忠秋は知っている。誰よりも外で遊ぶのを好んでいた少年だったことを話には聞いている。その若々しく健康なはずの身体を撫でる。何度も確かめ合うように肌に触れた。
信綱の体は思ったよりも早く高い湿度に包まれ、忠秋の指先に素直に震えた。仰け反る薄い体はとても艶めかしいとは言えなかったが、見てしまった以上記憶に焼き付くような独特のいやらしさをもって忠秋の目を楽しませた。
「ん、ん……お前が、わからない……」
そう言って信綱は忠秋の愛撫に身を震わせる。わからなくていいと思う。ただ、今は忠秋のための信綱でいてほしい。あんまりにも情緒のない夜になったが、せめて信綱に嫌な思いはさせたくなかった。肌が湿らないことを不安に思ったが、吐息に少しばかり色が付くのをいいことにいくつか弄った。
「ん……あ……っ」
信綱の色のない唇から小さく声が漏れるのがどれだけ救いだろうか。彼の肌に唇を落とし、そこを朱に染めるのがどれだけ忠秋の背徳心を煽るというのか。細い体は思ったよりも素直に刺激に反応する。彼が何も見なくてもいいように、そっと瞼に唇を寄せた。
実際その日は、交わるに至らなかった。信綱本人はそれを少し不満そうな目をした。しかし、それは忠秋たっての希望でもあった。その指を撫でながらこう言った。
「ここから先は次にしましょう。上様には、次の約束ができたと申し上げればいいと思います。その方が喜ばれます」
普段は主に信綱が提言をする側だ。しかし今日ばかりは忠秋が先に提案した。信綱は多少乱れた自らの肌をじっと見て、よくわからないという顔をしながらこう言った。
「俺にはわからないが、その方がいいならそうしよう」
それらを報告すると、家光は機嫌よく笑うだけだった。
それから暫く経ったある晩のことだ。
奥の間から聞こえるかすかな鼻唄が、死にゆく夜を彩っている。機嫌の良さそうな家光の鼻歌を、正盛は彼の腕の中で聴いていた。当たり前にあるこの居場所は、当たり前に手にしたものではない。たまに思い出すのだ……死んだ父のことを。あれはまさしく正盛がこの手で殺したのだと思う。あの時、きっと自分も同じように死ぬのだろうと悟った。
正盛は少し身じろぎをし、家光を見上げる。彼は……外の方だろうか。どこかをなんらかの意図をもって見ているようだが、それが何かはわからない。彼の全てを正盛が知ることはないが、逆はけしてありえない。だからこう訊ねるのだ。
「何か良いことがあったのでしょうか」
家光はちらりとこちらに視線を寄こす。その目は幼い頃のそれに似ていた気がした。どこか飢えたような眼差し、常に獲物を追い求めるそれは、にい、と笑った。
「迷っている蝶がいたのを花に止めてやっただけだ。お世辞にも美しい花ではないが、野の花の強さは蝶を守るのに十分だろう」
了