わかちあうべきもの

どうしてこうなったのだろうか。
初めは忠三郎が茶入の仕覆について相談があるとやってきたのが始まりだ。それについてはむしろ良いことだった。紐がどうだ、布がどうだと話すのは発見の連続であり、それでいて自らの審美眼を最大まで伸ばすことができるものの一つだ。
結局二つ候補ができそうなのでどちらも作ることにした。それまではよかった。
「織部殿が話していた南蛮の染料は手に入らなさそうだな」
忠三郎がそう言って惜しむ声を漏らした時、与一郎は背にひやりと冷たいものを感じた。そしてそれらは種火となって、じわじわと心を焦がしていく。
世は、大きく変わりつつある。与一郎もその渦中にいるのだがそれでも感じるのだ。日々変わる光景は、まだ各地で頻発している戦を大きくする。信長が死に、義父の明智光秀も死んだ。そこからあまりにも早い。
彼らの代わりに権力を手に入れた秀吉は、耶蘇の教えを禁じた。切支丹が増えていくにしたがって、それを良く思わない寺や神社が多かったことも手伝って、今目の前でうなっているこの男、忠三郎も棄教を迫られた。心の底ではまだ偉大なる主とその息子の救済を信じてはいるそうだが、形だけとはいえ教えを棄てたと周りから思われたのならば、信仰しているなどとは到底言えない。そうだ、忠三郎は棄てたのだ。教えも、愛する男の身柄も。
その男、高山右近は秀吉の禁教令に対し、身分と財産をすべて返上し行方をくらませた。右近は教えを棄てなかったのだ。身分のないものから奪えるものなど少ない。秀吉は右近を高く評価していただけに、追い詰めて死なれたくもないのだろう。だから捜索もそこまで苛烈ではなかった。右近が小豆島にいるらしいという話は仲間内で知っている。
忠三郎はどう思っているのだろうか。
与一郎は知っている。忠三郎が右近に惚れこみ、なんだかんだと懇ろになっていたということを。知りたくはなかった。それは与一郎の信条だとか、友人同士の色恋だからとかそう言ったことを理由にしない。忠三郎に愛されない自分の身の上に、更にそんな事実を突きつけてほしくなかっただけだ。
しかも忠三郎は右近と引き離されても対外的には明るく振舞い、その心のうちは与一郎にすら吐露しないときた。彼が何を考えているのかがわからないのも、腹立たしい。忠三郎のくせにとわけのわからない八つ当たりさえ出てくる。
また時機も悪く、最近与一郎の妻珠子が受洗した。よりにもよってこの時勢に、しかもこちらになにひとつ相談もせず彼女ひとりで決めてしまった。そうしたことをすべて含めて、与一郎は苛立っていたし、どこかでそれを右近のせいにしていた。全く関係がないことだというのに。だが関係すると言いたい気になってしまったので、ついこう口走ってしまう。
「右近殿がいてくださったら、なんとかなったかもしれませんね」
聞き出してやろうなんて気持ちはあまりない。これ以上知りたくないが、かといって知らぬふりをすることで、自分の中であらぬ妄想が膨らむのが嫌なだけだ。事実ではないことまで疑い、気が狂いそうになるほど心に寒風が吹き荒ぶ。あの感覚が嫌でたまらない、ただそれだけのことでしかない。
「実は」
忠三郎の言葉は、だから何でもよいわけではないのだ。実は、から始まる言葉でいま与一郎が望むものはなに一つとしてない。
「右近殿とやりとりをしている。いや、厳密には弟君とのものだが……近く他の地に移るらしい」
小豆島から離れて、どこへ行くというのだろうか。流石にそこまでは忠三郎も掴んでいないそうだ。しかし、彼が言いたいのはどうもそのことだけではないらしい。
「いったい何を企んでいらっしゃるのか」
煽るようにそう言うと、忠三郎は人払いを……とだけ口にした。どうせこのまま酒まで飲んで帰るつもりだろう。酒と肴だけを持ってこさせて、周りの人間を下がらせた。
「いや、大きな話でもないし、企みというほどのものではないんだ。しかし今はできるだけ伏せておきたい」
忠三郎がこういうことを言うということは、大きい話だし企みなのだろう。この男の素直さに過去の自分は大層惹かれていたし、今も少し心を揺れ動かされる。どういうことかと訊ねると、忠三郎は先ほどの仕覆の……布の見本をいくつか眺めながらこんなことを言い始めた。
「右近殿を、当家で預かりたいと思っている。既に前田様には相談していることだ」
「は」
何を言っているんだと思ったが、いや、これはこれで彼の筋なのだろう。
右近はもう世間的には、物言える立場ではない。彼を庇護することで忠三郎が受ける痛手は未知数ではあるが、蒲生家でのみ収まっているのであればうるさいことも言われないだろう。
しかし、今回の禁教そのものの経緯を考えるとやはり無理筋なのではないか。
「伊勢はどうするつもりです」
忠三郎の領地である松坂は伊勢神宮から六里と離れていない。馬を飛ばせば一日足らずだ。向こうが切支丹を警戒するのは当然だろう。切支丹は……いや、右近には、それだけの影響力がある。だからこそ、国替えでもない限り蒲生家に彼を留めるのは難しいのではないだろうか。そういう話をした。したと思う。
気が付けば酒はすっかりなくなっていた。朔の夜が、秘密を漏らすなとばかりに徒に闇をばら撒いているが、そんな大袈裟な話ですらないだろう。無理な話に無理と言っただけだ。なんの感情もない。呆れくらいだろうか。
忠三郎はそこまでして右近という男が欲しいのだ。いや、きっと右近という導き手をなくしたいま、彼は惑っているのだろう。もういい年をしているが忠三郎は子どもなのだ。そうでなければ、右近との仲について揶揄いながら訊ねた時に、それまで与一郎が一度も見たことがないくらいの純朴な反応などけしてするものか。
「お前に怒られると思っていたのに」
忠三郎が、どこか遠くを見るような顔でそんなことを言う。きっと与一郎がもっと自分の無茶な計画に激怒すると思っていたのだろう。そうなれたらよかったと思っているのだから、わざわざ言う必要などないと言おうとしたが、思い直した。
言ったところで自分が惨めになるだけだ。与一郎が忠三郎の雑然とした仕草に対して声を荒げることはしょっちゅうだが、それは与一郎の気性がそうさせるのであって、彼への思慕がそうさせるわけではない。だから今、忠三郎の右近への純粋すぎて痛々しい想いを見せつけられて、最初に出てくるのは到底報われることのない自分のこの思慕なのだ。声を荒げようなど、どうして思えるだろう。
「お前が怒らないなら、やめた方がいいのかもしれない」
そんなことを気楽そうに言う忠三郎は、本当は何もかも知っているのではないかとすら疑ったが、それも詮索するのも無駄な話だ。
「では当家で引き取りましょうか」
「馬鹿言え、畿内に近すぎる」
「それくらいの無茶ですよ。珠子もそちらの仲間になったので俺としてはそれでも構いませんけど」
「……奥方殿が?」
これ以上話すつもりはないと眉根を寄せ、べ、と舌を出す。子どもには子どもの背丈で話すのが一番なのだ。大人ぶる方がどうかしている。
「お前も苦労しているな」
わかったような顔をしている忠三郎が、どうやら右近と彼に従い潜伏している者たちを迎えるために準備をしているという話は、この日以降何度か聞いた。
きっと忠三郎は本気だろう。彼は無茶をする人間だが、目の前の利益に飛びつくだけの愚か者ではない。愛する人を守るために手段を選ばない勇敢さだと言ってやった方がいいのだろう。気に食わないが。
与一郎も、出来る限り右近の支援をしていた。それは右近を心配するだけが理由ではなかった。珠子と顔を合わせると空気が重くなるばかりで、しかしこちらとしても特に何も思わないわけではないという主張のためでもあった。しかしそれがどのような効果があったかを知らないし、右近にも利益が本当にあったかを知らない。なにせ詳しいやりとりはできなかったから、翌年右近が戻ってくるときも与一郎がその一報を知ったころ既に彼は前田家に送られていたくらいだった。
結局、利家が忠三郎を諫め、その上で前田家で右近を預かる旨を秀吉と交渉したのだという。上には上がいると思うが、忠三郎が慕う前田殿ともなれば、無茶をするのも仕事のうちだろうか。とにかく忠三郎の願いが叶えられることはなかったのだ。
与一郎がどれだけ安堵したのか、渦中の二人は知る由もない。
それから暫くして、三人で会うことになった。仕覆の話も出てそれなりに盛り上がったが、忠三郎の興味はもうよそに移ったのか、すぐにまた別の話になった。