青空に星いっぱい【小ネタ詰め合わせ】

彼のことを詳しく知る者は少ない。武蔵国のさる寺の住職になるまでの経歴はおそらく本人しか知らないのではないだろうか。それをあまり詮索するのも野暮ではあるし、寺に入るということはそういうことだ。
だから家康の側にいる彼の声を聞いた時の忠興の反応は、周りからしたら異様に見えたのかもしれない。
「なにか」
天海と名乗る僧侶はそう言葉を置く。そこに訝しみはなく、ただ柔らかな声だった。それはむしろ忠興のよく知る声であった。
顔の多くを隠したその僧侶の様子は確かに不思議ではあったが、声を聴いた瞬間に忠興が肩を震わせその方向を凝視したのは、その場にいた皆の好奇の波を一瞬だけ荒らした。
「いえ、失礼……」
目線を逸らし俯く忠興に、周りの人間はなんの疑いも持たなかった。まあ、そう言うこともあるだろう。他人の空似ということもある。いろいろな事情だってあるのだし、人というものは、自分の影よりも外のことなんか何も知らないのだ。
だから誰も気が付かなかった。この二人の歪な運命の交差など。
「どういうつもりでお前はここにいるんだ」
忠興は、しばらくしてから家康の使者としてやってきた天海と二人きりになる機会があった。ここ、というのが細川邸のことではないことは言わなくてもわかるだろう。それに十分に怒気を込めたつもりだった。しかし、それを聞いても彼は平然としているどころか笑いさえした。
「二人きりだからと言って、随分と脇の甘い……昔からそうでした。貴方は一度癇癪を起すと周りが見えなくなる」
一度引いて呼吸を整えなされ、とまるで本物の僧侶のような……いや、その言い方も可笑しいのではあるが……言いぶりだ。腹も立つと言うものだ。
「ふざけるな、手を変え品を変え俺の目の前に現れやがって、今度は何が目的だ」
「いえ? 他意はありませんが……まあ、婿殿が心配ではあるので」
そう言う天海の正体など、もう知りたくもないし認めたくもないのだが、事実としてそこに転がっている以上どうにもならない。そういえば忠興の意思なんて最初からどこにもなかった。慈悲深い目をしたこの義父は、この体を何度も弄んだが、そこに忠興の意思があったことなんて一度もなかった。
「お前は俺のことが心配になったら増えるのか?」
「まあ、それなりに」
支離滅裂な会話だ。支離滅裂なはずなのに理路整然とした口ぶりで話すものだから厄介なことこの上ない。昔からそうだ。いや、彼がまだ本来の姿だった頃、生前と言ったほうがいいのだろうか、その頃はまだここまでではなかった気がする。それも随分昔の話になってしまったが……昔と言えば、彼は姿かたちを変えて忠興の弟を惑わせたことがあった。
「このことは他に誰が知っている?」
忠興の質問に天海はなんのことやらと笑いながら、すっと忠興の側に寄る。思わず身を引くと、くつくつと喉を鳴らして笑いながら忠興の左耳それから頬、そして顎に触れた。
「それを知ったところでどうにもならないのは婿殿が一番よく知っているくせに。それとも……ここ暫く触れ合ってないうちに忘れてしまいましたかな? 話し言葉と呼吸の継ぎ方だけで私を思い出す程度には敏感なのでしょうが、少々忘れっぽいところがよくないところですな」
「やめろ、その姿で俺に触れるな」
天海の手を払いのけようとするが存外に強い。普段の姿ならばいいのかと言われれば答えに窮するものの、少なくとも彼の今の姿で抱かれたくはない。そう思うのだが、いつもの甘苦い営みが脳裏を掠めてしまう。ひゅっと息を吸った忠興の様子に何かを察した天海はからりと笑って離れた。
「期待させてしまって申し訳がないですが、今日は仕事ですから」
「誰が期待したって?」
「婿殿はすぐ気持ちの好いことを欲しがってしまうので困ったものですねぇ」
うんうんと頷くその頭をどれだけ引っ叩きたかったか知れないが、仕事なのだと言われたことで安堵したのも確かだ。大げさにため息をつくと、背筋を正し天海に向き直る。
「……それで、要件とは」
「いや、大したことではないのですがねぇ……茶花についての相談で、どうしても秀忠様が越中殿の意見を聞きたいと」
「ほう?」
「茶花に女郎花を使いたいそうなのですがね」
「女郎花を……秀忠様が本当にそう言ったのか?」
「ええ」
天海が頷くのを忠興は訝しんで睨んだ。
女郎花は姿かたちこそ美しいが匂いが強すぎる。ましてや茶花なんて匂いが籠ってしまい、席そのものを独占してしまう。茶を嗜む秀忠がそれを知らないはずがない。そもそも天海は家康の使者としてここに来たのだ。だとすれば、考えられる理由は一つしかない。
「……なるほど……少なくともあのお二方はお前の正体を知っていると言うわけだな」
「おお、その心は如何様なものでしょう」
「馬鹿を言え、お前だってわかっているだろうが……」
忠興がかつて珠子に送った歌、もとを正せば忠興が得意とする能の演目である女郎花という言葉をわざわざ天海に託したのならば、秀忠であろうと家康であろうとそれはただの通告でしかない。おそらく彼らとしてもこの目の前でニコニコしている義父を悪く扱うつもりはないという洒落た報せにすぎないのだろうが、だとしてもそれを素知らぬ顔をして持ってきた天海に文句はある。
「……俺は頼風じゃない。万が一そうであったとして、お前が俺の女郎花を手折るというのならばここでお前を斬る、それが答えだ」
「成程、女郎花はやめておきましょうか……しかし、皆さん勘違いなさるんですよねえ」
「なにがだ」
天海は嬉しそうに一瞬天井に視線を投げ、それからゆっくり降りてくるように忠興の顔を見つめた。そうして一番忠興が嫌がる言葉を平然と言うのだ。こんな具合に。
「むしろ私は守人側ですから。誰かが貴方を手折ると言うのならば、どのような手を使っても諦めさせます。例え貴方が手折られるのを望んでもね」
「……帰れ、今すぐ」
「ええ、そうします」
そう言って天海はあっさりと帰っていった。思った以上に引きが早い。仕事だと言うと目の色を変える人間ではあったが……全く、困ったものだと思って奥の間に戻った忠興は、更に困ったものを目にすることになる。
「帰れと言ったはずだが?」
「帰りましたよ、天海殿は」
忠興にしか見えないことをいいことに、光秀……もうこうなったら彼も何か別の名前で呼びたいものだが……が、ここにいるのはさも当然と言う顔で座っていた。どういうことだかは全く分からないが、うまいこと転がされている気がする。妙な術を発展させたとでも言うのだろうか。ああ、何も考えたくない。
「もう知らん、俺は寝るぞ」
「では私もご一緒しましょう! ああ、やはりこの体の方が馴染みますなあ……婿殿の身体に合うと言うか……婿殿もそう思いませんか?」
「帰れ」
ぺたぺたと体を触ってくる義父をそう言って押しのける。家の者にどう見えているのか詳しいことは知らないが、上手いように隠れているらしい。全く面倒くさい。本当に。いっそ大騒ぎにでもなればいいのだ。
「それが帰る場所がないものですから……お守りしますよ」
「お前の守りなぞいらん」
まあ先ほどの姿よりはましだと自分に言い聞かせながら、忠興は何とはなく頷いた。納得はできないが、次から次に出てくる最悪な選択肢を選ばなかっただけましだと思うしかない。それすらもしかしたらこの義父に握られているのかもしれないが。それに不平を言うのは、もはや空の色にケチをつけるようなものだろう。

「しかし女郎花の話は笑えんぞ、俺の虫の居所が悪かったらどうするつもりだったんだ?」
「まあその時は……あの子は私の娘でもあるので、その方向からうまく婿殿を誘導して、こう……」
「こう、じゃない。なんだその手は、俺をどうするつもりだ」
「聞きたいですか?」
「いや、いい」


 

天海と鉢あった後日のことだった。
江戸城に暇乞いの挨拶に登城した忠興は出来るだけ誰とも目を合わさないようにしていた。忠興の後ろには嬉しそうに歩いている男がいる。彼が誰かは言うまでもない。この本当に心の底から困った義父は、何を思ったか屋敷から江戸城に着いてきた。どうやら忠興以外にはその姿は見えないらしい。大声で怒鳴るわけにもいかないので、小声で何度かふざけるなと毒づいたが、聞こえていないのか聞く気がないのか、むしろ煽るように楽しそうに忠興の周りをきょろきょろと動き回っている。
「いやぁ普段は僧形なもので、こうして来たことがなくて……こんなところがあるんだなぁ。あっ浅野但馬殿だ、ねえ婿殿、挨拶した方がいいんじゃないですか」
「うるさいぞ」
誰にも聞かれないように気をつけていたはずだ。それなりにこなしていたはずだ。そんな忠興をじっと見ていた男がいた。
「なんでうるさくしちゃだめなんですか、あっなんなら天海も出しますか?いつか婿殿を挟みたいと思ってたんですよ」
「お前……」
「越中殿」
怒りをあらわにしかけたところに、声をかけてきたのは永井尚政だった。鼻梁涼しげな優男で最初はいけすかないと思っていたが、話してみると織部門下だっただけあり、数寄のわかる男だった。植物に詳しいのでよく茶花の相談をしているくらいだ。
「ああ、信濃殿……」
「どうかされましたか、何か気にされてるようですが」
「いえ……」
そうしているやり取りの間にも自由な義父は尚政と忠興の間を行ったり来たりしたりしている。勘弁してほしいくらいなのだが、尚政に気取られたくなくて何も見えないふりをしていた。
「そうだ、以前お話にあった椿について……あっここじゃなんなので、こちらで」
そう言って、少し人から離れたところに忠興を誘導した。気の利く男だとしか思わなかった。尚政は辺りをチラと見る。そして小さい声でこう言った。
「あの、後ろにいる綺麗な人、誰です?」