馬鹿みたいな日常が戻ってきた。
フォルトゥナに戻ってきてネロが最初にやったことは、あの詩集を部屋の棚の中に大切にしまうことだった。できるだけ手前の、それでいて見えないところにしまった。本当ならば紙でも巻いて見えないようにすればいいのだが、そこまでする気にはとてもなれなかった。
これまで謎に包まれていた自らのルーツの破片が刺さって苦しい。なぜか元どおりになった腕がなにかを言いたげだ。だがそれを全て理解するにはネロはまだ若すぎるのかもしれない。
それくらい、説明のし難い日々だった。
それから…熱い紅茶を飲みながらキリエと少し話した。これまでのこと、今起きていること、これからのこと…未来なんてわからないけれど、きっとそれは今よりは穏やかなものだろう。
キリエは頷き、ネロの言葉を一つも否定しなかった。彼女の優しさで、どれだけ救われたか知らない。彼女は最後に笑って、こう言った。
「いつか皆さんとお茶でも飲みながらこうして話してみたいわ」
総てを知っているわけではないが、受け入れられる彼女はどれだけ強いというのだろう。
そうしていつも通り食事をとって、いつものようにシャワーを浴びた。
その晩ネロは自室のベッドに身を沈め、ひとときの安らぎを感じた。そしていつの間にか、泥のように眠ってしまっていた。
…
夢の中でネロは古びた図書館にいた。実在するのかわからない、輪郭の曖昧な図書館だった。人気のないそこで、所在なさげに棚を見やるが、本のタイトルは全て擦れていて読み解くことはできなかった。
そして気がついた。誰かがネロを呼んでいる。
顔を上げて声のする方を見るが、棚に阻まれて姿を見つけることはできない。
その声の懐かしさに、ネロは本棚の森をかき分けて、奥の方へ奥の方へ走ったのだ。
一番奥の…本が積まれたその広間に、彼はいた。
「V」
「ああ、来てくれたか」
見慣れた彼は、不敵な笑みを浮かべている。ネロを呼んでいたのは紛れもなくVだった。
なぜだろう、言いたいことがたくさんあるはずなのになにも言えない。
その顔に言いたいことは確かもっとあったはずなのに、その感情が今ひとつネロに味方してくれないのだ。
「お前でよかった」
Vは積まれた本の合間に座り、読むことなくその紙をペラペラとめくっている。
どういうことだろう。お前でよかったという言葉に安心してしまうネロがいる。
相変わらず言葉に詰まるネロに、お構いなしにVは続ける。
「俺はいつもここでお前を見守っている。必要ないかも知らんが、それで良い。お前に俺は必要ないが、俺にはお前が必要だからな」
「V、お前…」
「たまには手入れをしろよ、埃まみれはかなわん」
そう言ってVは立ち上がると、ネロの頬にその赤い唇を寄せた。
急に視界が白み、ネロの視界がまるで空を飛んでいるように旋回していく…。
…
目覚めたネロは思わず飛び起きて、詩集を探してしまった。
無くなっていたらどうしようと、内心焦ったのは事実だった。
詩集は確かに存在した。まるでネロを見守るように、そこにあった。
夢だ。都合の良い夢に過ぎない。わかっている。
愛するには遅過ぎた。きっとそれは恋だった。目覚めてそれが儚い恋と知ったところで、現実なんか変わるはずもない。
知っているのに、今更なにを望むというのだろうか。
「だせえな、俺」
今度こそ詩集を本棚の奥にしまうと、ネロは朝陽を一瞥して再びベッドに戻るのであった。