これさえ終われば解放される。
目を閉じ声を殺して、右近はただひたすらに与一郎から与えられる恥辱に耐えていた。
いつか終わる、いつか与一郎は飽きるのだ。この体に、この行為に。聡い彼のことだから、これが不毛なものであると自分で気が付くはずだ。そもそも何故こんな事を飽きもせず繰り返しているのか、右近には理解ができなかった。それでも、右近は与一郎を信じるより他は無かった。きっと気が付く、きっと終わりはやってくる。それまでただひたすら待つしかない。ここで逃げ出せば与一郎も右近も永劫救われなどしないのだから。
…自分はいい、救いなど今更いらない。この体はすでに神の御許になど行けはしない。しかし、与一郎はどうなる?彼はこんな行為に溺れるほどの男ではなかったはずだ。言葉に可愛げはないが、それは上辺だけで、実は誰よりも繊細で傷つきやすい男だということを右近は知っている。そう、彼は誰よりも救われねばならない男だ。少なくとも右近の考えではそうだったはずだ。だというのに、何故だ、何故こんなことを。
思考が出口を探して巡り巡るが、出口など本当は無いのかもしれない。彷徨うそれは右近を更なる迷宮言うに誘う。それでも、信じなければ、見捨てず手を差し伸べ続けなければ。使命感にも似た感覚が、与えられるおぞましい感覚とせめぎあうのだ。
与一郎は右近を呼び出すと、当たり前のようにその体に触れ、なぞり、押し倒した。彼が女を抱くさまを見たことはないし見たくもないが、きっとこんな風に親しげに、当たり前だというように抱くのだろう。
なにより右近が忘れたかった数ヶ月前の記憶だったそれを、与一郎はほんの一瞬で容易く引きずり出してきた。呼び出す際に与一郎は、件のことは誰にも口外しない、とつけ添えていた。それを見た瞬間、右近は縛り付けられたような感覚に襲われたのだった。たったそれだけ、と言われるだろう。たったそれだけ、それだけが、右近の潔白でなければならないという一種の脅迫めいた自覚をぐらぐらと揺らしてしまう。しがみつくのがやっとだ。動こうなんて、ましてや逃げようだなんて、思いつくことさえ困難だった。
従順に与一郎の前に姿を見せ、俯く右近を与一郎はこれ以上なく歓迎した。上等な酒を飲ませると親しげに語らった。それに答える右近の表情は、不自然ではなかっただろうか。そして与一郎は当然のように人払いをすると、この体に簡単に手を伸ばしてきた。
脚を持ち上げられ、香油を塗り込められた後ろに侵入され、激しく腰を打ち付けられ…右近はただ歯を噛み声を耐えることしかできなかった。はしたない自分の痴態を責める事も許されなかった。痛みと、受け入れがたい快楽が右近の体を、心を支配した。唇を噛みうめき声を上げることでしか右近にその思想を表現する方法は与えられなかった。
「せっかく綺麗な声をされているのに」
与一郎はいたって残念そうにそう呟くと、右近の喉元をその美しい指で優しくなぞる。
体が、勝手に震える。涙が出そうなくらいに…吐き気すら催す感覚だった。そんな右近の反応のどこが面白いのか与一郎は何度も右近の喉元を指で押したり、噛み付いたりしてきた。恐ろしいことに抵抗すればするほど与一郎は快楽を覚えるようで、行為はさらに過激になっていく。
「ん、んっ……」
無理やりに唇を重ねられ、抗おうともがくと与一郎は右近の腕を押さえつける。その力は抵抗を愉しむように緩く、振り払えそうな力加減なのが右近を余計に焦らせた。
何度か、その侵入してくる舌に噛みついてやろうかとさえ思ったが、右近の中の良心がそれを拒む。与一郎を傷つけたくない。どんなことをされていても、それだけは変わらなかった。それが与一郎の苛立ちを煽るだけだということを右近はまだ知らない。
上手く息が継げず、解放されてしばらくは荒い呼吸を繰り返していた。それを見て与一郎は声を上げて笑う。
「…流石右近殿は高潔ゆえ、口吸いにも慣れておられぬようで」
その目は明確に侮蔑の色を浮かべていた。思わず睨むと目を細めて髪を乱暴に撫でてくる。これ以上なく不快だ。頭を揺すってなんとか手から逃れるが、行き場をなくした与一郎の指は何を思ったか右近の首を掴んだ。思わず否定の声が漏れ出る。
「っ……離しなさい」
首筋に素手で触られるのは何よりも右近の嫌悪感を引き出すものだった。古傷もそうだが、右近の常に清浄でなければならない病のような概念が、その指を否定する。何よりも首筋を掴まれて嬉しい人間などいるはずがないではないか。掴むそれは命そのものだ。弄ぶなどしてはならないに決まっている。右近の正義が、何よりも声高にそれを叫んでいた。しかし与一郎は気が付かない。まるで初めて動物を捕まえた子供のようだ。それはあまりにも幼く、あまりにも残酷な瞳だった。
「嫌です」
「なにを……」
問うと、与一郎は唇の端を美しく持ち上げて笑った。
「こうするんです」
そう言うと、なんの躊躇もなく彼はぎりぎりと容赦なく右近の首を絞め上げた。まったく突然のことだったから、抵抗もなにもできなかった。息ができずばたばたと手足を動かし抗うが、与一郎の細身の体のどこにそんな力があるのかというほど、どうしても解けることはできなかった。そうでなくてもこちらは息が吸えず力が出ない。何度も与一郎の胸を叩いたが、そんなもの蚊に刺されるような程度のものだろう。それどころか与一郎はそのか弱い抵抗に興奮したのだろうか、あろうことか腰を押し進めてきた。息ができないところに声まで詰まり、右近は本気で死を覚悟した。
ああ、こんなところで死ぬのだろうか…神にも見放される死に方だ。男との情事の最中に殺されるなんて…。寒くなってきた。体に血が巡らないとこうも寒いのか。そういえば昔、この首の刀傷がついたあのときも、ひどく寒く感じたものだった…あのころ感じたあの寒々しさを、また感じることになろうとは。
意識が落ちる、と思った瞬間のことだった。与一郎は見計らったようにその手を離した。右近はその手から辛うじて逃れると体を脱力させて目を剥き、何度も呼吸を繰り返した。何度も何度も何度も、馬鹿のように呼吸した。そうすることで漸く世界に色が着きはじめる。一瞬冷えかけた体に血が巡るのを感じ、妙に体が熱い。なにより頭がくらくらとして、余計な言葉など紡ぐ余裕なんてそこにはなかった。動けないことをいいことに、与一郎は右近の肌を好きに弄び出す。不快だ。不快で仕方ない。何もかもが。
「苦しかったですか」
「……」
与一郎の指がそろりと接合部をなぞる。まだ息は整わない。身を捩るが逃げることは到底できなかった。
「首を絞めると後ろも随分締まるようで。食いちぎられるかと思いましたよ」
「……っ!」
卑猥な煽りに対し自分の状況も省みずに睨め付けるが、与一郎は意に返さない。妙にへらへらとしているのが不気味だ。殺し殺されるかのやりとりを先ほど仕掛けてきた人間とは到底思えない。恐怖心というものを右近はこれまで与一郎に抱いたことは少なかったが、今まさにその恐怖心が右近を支配する。
与一郎はにやりと笑って右近の手をとると、妙なことを言い始めた。
「でも、俺はもっと苦しいんですよ」
…それはどういうことだ。と聞き返す前に、先回りするように与一郎は答える。
「こういうことです」
そう言うや否や、与一郎は自らの首にその手を這わさせる。何故か、振り払うことはできなかった。そこに確実にあった恐怖心がそうさせたのかもしれない。わからない。
「絞めていいですよ」
与一郎は真顔でそう言うと目を閉じた。
「俺の首を絞めろと言っているんです。何なら殺したって構いません…右近殿、あなたになら、俺は殺されたって構わないと、そう思っているんですよ…」
その声は存外に低く、右近の背中が群れ成すのが自分でもわかった。言われるがままにじわりじわりと力を入れるが…できない、できない。首を絞めることなんて、できるはずが無い。相手は与一郎なのだ。大切な友なのだ…弟のような存在なのだ。こんなことをしているのはきっといっときの気の迷いか何かで、本当の彼の姿を右近は知っている。それは細やかで神経質だが、確かに血の通う優しい男の姿だ。そんな彼の首をどうして絞めることができよう。ましてや殺すなど。できようはずがないのだ。それがたとえ本人の望むことでも。
「…そんなことできるわけありません…何故、何故こんなことを…」
「何故?愚問ですね」
与一郎は眼を開く。寒々しい、氷のような眼だった。今までこんな与一郎の眼差しを見たことがあっただろうか。それはどこか物憂げで、寂しそうでもあった。なぜそんな顔をするのかわからなかった。理解が、理解ができない。何故そんな顔をするのか。
「あなたに思い知らせたいからですよ。俺からは逃げられないということを」
絞めることはできない。でも、この行為からは逃げ出したい。逃げられない、と傚うように唇を動かす。
…もしも、ここで与一郎の首を本気で絞めることができたら…与一郎が万が一死んでしまったら?死ぬまではいかなくとも、与一郎の手から逃れることがもしできたら?…それでも駄目だ。彼の言う通り、与一郎から本当の意味で逃げ切ることなどできない。この行為そのものが、右近を縛り付ける。逃げ場などどこにもないのだ。逃げようと考えることすら許されてなどいない。指が右近の意思とは関係なく震え空を掴む。
その震えを感じたのだろう、与一郎は舌打ちをし、その手を離すと小さく吐き捨てた。
「聖者気取りが」
そしてもう一度右近の首に指を絡ませる。
「ここまで言ってるのにわかってくださらないなんて酷い人ですね」
「いや、いや…与一郎…!」
「俺の首を絞めなかったのがあんたの答えなら、俺の答えはこうです」
ぐ、とその指先に力が入った。再び呼吸を奪われうめき声にもならない声が上がる。
「ひぐ…っ…」
「死ねばいいのに」
抜き身の刀のように鋭利で冷ややかな声が右近の耳に否応無く響く。このまま殺すのではないだろうか。与一郎ならば本気で絞め殺してしまうのではないだろうか。殺したとして、亡骸になった自分を彼はどうするというのだろう。それは…恐ろしい情景だった。そして、実に悲しい情景だった。抵抗が弱る。そんな悲しい友の姿を、見たくはない。しかし一方で、これがその友の望むものなのだとしたら、右近には何ができよう。その身を捧げることで彼がなんらかの望みを得るのであれば、右近にできることとは、いったい何なのであろう。
右近の考えを見透かしたのかはわからなかったが、与一郎は笑って指を離した。
「でも殺しません。このまま生きる方があなたにとって苦しいはずだから」
その言葉は荒い呼吸を繰り返す右近の耳には半分も届いていなかった。
それからも不毛な行為は幾度と無く続いた。ああ、もうなにもかもを手放すことができたら、どれだけ楽になれるだろう。この快楽がよいものと思えたら、どれだけ楽になれるのだろう。それでもそれだけはできなかったし、赦すことができなかった。それが最後に残った右近の精神的な砦だった。これを赦してしまえば、右近はもう右近ではいられない。唯一つ守ってきていた魂の清浄が喪われてしまえば、右近はその形を留めることさえできなくなるだろう。
与一郎はそんな意思をあざ笑うように右近の太腿の裏をするりと撫で上げる。ぞわりと身を震わせ、はしたない声が出てしまうのを必死に堪えて、泣きながら抱かれるしかないのだ。今となってはそれしか右近に残された選択肢はない。与一郎の細く長い指は無情にも右近の下腹部をするりと撫でると、右近自身を掴み、急に力強く扱き始めた。
「いや…っあ、あ…」
耐えきれず溢れる自分の声が嫌いだ。恥じらいのない情けない声…綺麗な声だなんて嘘だ。反響する声はみな、右近の嫌な声だった。
「ここは嫌がっていないようですが…むしろ悦んでいらっしゃる…そんなに締め付けなくても俺は逃げませんよ?」
与一郎が嬉しそうに手首を上下させる。煽る下劣な言葉に耳を塞ぎたくなるが、そんなことをしたら余計喜ばせるだけだ。与一郎から目をそらし唇を噛むと、彼はそんな右近の耳元に唇を寄せてきた。追い込まれるような感覚に眩暈がする。
「…愛しています」
右近はこのまやかしの睦言が嫌いだ。なぜそんなことが言えるのか、理解に苦しむ。心の中では欠片もそんなことを思ってはいないだろうに、与一郎はまるで心からの想い人のように振る舞うのだ。それは右近の少なからず存在する憎悪に似た感情を煽るには十分すぎる言動だった。思わず小さな声で反論する。
「嘘…を…」
「嘘ではありません」
右近の肢体を与一郎は楽しそうに見下ろして答える。その視線が不快だ。舐め回すような、目だけで犯されるような、いやらしくおぞましい視線。
「俺は…あなたの体を心から愛しています。毎日抱きたいほどに」
その言葉に自然と震えたのがわかった。何故このようなことを言えるのだろう。なんて悍ましいことを言うのだろう!
与一郎が腰を押し進める。彼もまた絶頂が近いのだろう、叩きつける痛みと、前を刺激される快楽とで意識が飛びそうだ。彼は右近が意識を失ったらどうするだろう…?そう思うと、歯を食いしばり懸命に耐えるしかなかった。
「あ、あ…やめ…」
もはや声で抵抗するしかできない。唇から漏れる自分の甘い声に吐き気がしそうだ。与一郎の凶悪に長いそれが右近の後孔を容赦なく責め立てる。絶頂に達しそうなその時、与一郎の指はぎゅっと右近自身を締め上げた。達することができず思わず悲鳴をあげてしまう。
「いや…っ」
それは咄嗟の言葉だった。右近の意思に従ったそれではない。しかし与一郎はその隙を見逃さなかった。きつく右近を締め上げながら、与一郎は右近の耳元で囁く。侮蔑の言葉を。
「…何が嫌だったんですか?右近殿…?」
意地悪くせせら笑う与一郎を睨むが、与えられた快楽とそれを塞がれたもどかしさでもう自分がどんな顔をしてるのかもわからない。意味もない、言葉にもならない声を吐かろうじて吐き出すことしかできなかった。
「あ…あ…」
「教えてくださいませんか?」
与一郎がさらに顔を近づけてくる。まるで頬ずりをしてくる子どものように懐っこい。しかし裏腹にその右手は相変わらず右近を締め上げて離さない。行き場のない苦しさで息が詰まりそうになる。気がつくと自分でも呆れるほどの情けない声で懇願していた。
「もう、やめてください……」
「答えになってませんね。でもその顔は好きですよ」
与一郎はそう言って右近の頰に口づけを落とすと、縛めていた手を緩め優しく扱いた。
「ひ、あ、あ……っ」
体を震わせ快楽から必死に逃げようとする右近を見て与一郎はふと笑った。その笑みを右近は知らない。
…深く眉根を寄せて、歯を食いしばる。快楽を前にすると途端に苦悶の表情を見せるこの男が与一郎には不思議で仕方がない。
なぜこれを佳いものだと受け入れることができないのだろう。頑なにこの手を拒む彼は、その身にふりかかる快楽を享受したことが一度もないのではないだろうかとさえ思う。事実、そんなことはないのであろうし、あるはずがない。
そのくせに彼は拒む、そして、見ないふりをする。与一郎には腹立たしいことだ。だからこの手で植えつけてやりたいのだ。二度と消えないそれを。彼の体にも心にも、いや、もっと深いところにある魂そのものにも。与一郎という影を落としてやりたい。独占欲ではない、支配欲ともまた違う、一生消えない何かを右近に与えたい。それが与一郎の復讐であり、一種の情け心でもあった。
激しく扱くと、悲鳴のような呻き声を上げて、右近は呆気なく吐精した。嫌がる右近を押さえつけ、絶頂に達する彼の顔をよく見てやったが、しかし達した瞬間すら彼の清純さは消えることが無く、与一郎の中で怒りは増すばかりであった。息を整え、右近は体を震わせている。生白いその体が蠢いている。与一郎の手によってだ。少しだけ溜飲が降りるような、そんな気がする。
そして快楽を吐き出すために仰け反りむき出しになった右近の首筋には未だに与一郎の細い指の跡が残っていた。激しすぎる情交の痕、残滓。右近が消したい。無かったことにしたい彼の本当の姿。…それに右近はいまだに気がついていない。
そう思うと急に今まで醒めていた情欲を掻き立てられ、与一郎は右近の胸元に再び口付けた。作り物のような白い肌、その美しい皮膚に覆われた本当の顔は、どんな表情をしているのだろう。叶うのならばこの手で引き剥がして問いかけたい。お前はどんな思いで忠三郎を籠絡させたのかと。あの愛しい背中はもう与一郎に振り向くことなど一生ない。もう彼はお前しか見ていない。しかしお前はそれに気がついていないのだと、それがどれだけ与一郎を苦しめたかすら知らないのだと、叫びたかった。しかし与一郎は言わない。けしてその本当のことを言わない。理由を教えてしまっては、納得されてしまっては、与一郎の溜飲が完全に下りることはないのだから。だからこうしてただ理不尽に痛めつけることで、右近の中でなぞを残すことでしか、与一郎に残された道は無かった。それだけだ。何も生まない空虚な行為はこれからも続くのだろう。いつまで続くかはわからない。与一郎の気が晴れるまでだろうか。そんな日が、来るのだろうか。右近の肌を撫ぜながら思う、右近の抵抗はもはや弱弱しい。それでも抵抗してくる彼をせせら笑いながらまたしても辱めるのだ。何度も何度も。いつか終わりがくるその日まで。
…翌日、陽も高く上がった頃、与一郎は漸く目覚めた。
身を起こし息を吐き、腕を見ると右近の抵抗の跡が僅かに赤く残っていた。あと数刻もすれば完全に消えるだろうその痕を指でなぞり意味も無く笑う。
右近の首筋にもきっと似たようなものが残っているのだろう。そしてやはりそれは今日の月を待たずして消えるのだ。あるいはもうそこには何もないのかもしれない。ただひたすらに生白い皮膚が広がっているのだろう。いつもと同じように、変わらず。何も知らない表情をして。
それを思うだけで声を出して笑いたくなる。その内にある表情を、与一郎だけが知っているのだから。