彼は愛していると言った。
それに本当の意味で応えることは右近にはできない。
しかし彼の好意を無下にしたくなかった。
何ができると言うのだろう。
この手で。
この手でいったい何ができるというのだろう。
こんな汚れた手で。
人として生きて行く上でいくつかの顔を用意しなければならないのはある程度は仕方のないことなのだろう。右近はそれをあまり良しとはしないが、少なからず諦めているところもある。仕様のないことなのだと、これも人の道に背負った業なのだと、諦めてしまったところがある。
…これは本当に諦めてもいいことなのだろうか?
右近は昨晩与一郎と会った。今夜は忠三郎と一緒だ。
そして同じことをした。二人は右近を同じように組み敷き、唇を奪い、体を重ねた。それはそれぞれ全くもって同じようでいて、全く違うものだった。少なくとも右近にとってはそうだ。
どうしてこんなことになったのだろう。
右近が本当のことを告げなかったばかりに、取り返しのつかないことになってしまっている気がする。
全てが終わったあとの忠三郎は常として右近に甘える節がある。いつも笑顔でいる彼だが、彼には彼で背負うものがあるのは右近も十分知っている。こんな世の中だ。潰されそうになる重圧に負けそうな時だってあるだろう。そんな彼が唯一右近にだけはこうして弱みを見せるのだ。それが何よりも愛おしい。本当の意味でそうすることは右近には到底できないが、この手で守りたい。この世に打ち寄せる全ての波から、この愛しい魂を守ってやりたい。その結果どんなに右近が傷ついても構わない。心の底からそう思うのだった。
「愛しています…」
なにも知らない忠三郎が、座る右近の膝にすがりつき呟いている。なにも知らない。そう、忠三郎はなにも知らないのだ。右近の裏切りを、その罪を。いや、忠三郎だけではない。誰にも言えない。言えるはずのない右近の秘密を。なにも知らない忠三郎は無邪気にも右近に愛の言葉をかけ続ける。
「心の底から、あなたを…」
忠三郎の言葉が、愛を囁くそれよりももっと薄暗い…呪いの言葉のように右近には聞こえた。お前を許さない、とも聞こえた。彼がそんなことを言うはずはないから、全て右近の思い込みだ。わかっているはずなのに胸が詰まる。許されることではない。最早裏切りなどという簡単な言葉ではない、それ以上のことを、している。
いまここで全てを告げたら、忠三郎はなんと言うだろう、なんと反応するだろう。その深い深い海のような眼差しは、きっと涙に濡れてしまうだろう。右近には…できない。膝に頭を乗せ、右近の腰に腕を回し、幼子のように甘える忠三郎を…悲しみの底に突き落とすなんて。その手を下すことだけがどうしてもできない。実際はもっと酷いことをしていると言うのに。真実を告げることだけがどうしてもできなかった。
「愛しています…愛しています…」
忠三郎は泣いているようだ。泣きながら、懸命に愛を紡ぐ。そこにある愛はまやかしなのに。忠三郎は気がついているのだろうか。右近は忠三郎を受け入れただけだ。応えていない。その言葉に応えていない。応えていないのに。
彼は右近に何を望んでいるのだろう。穏やかないつもの顔だろうか。それとも違うものなのだろうか。本当の顔なんて見せられない。年下の与一郎に抱かれ泣き叫ぶ本当の右近の醜い顔など、見せられよう筈がない!
だからそこに表情はないのだ。何も語らず、忠三郎の頭を撫でる。自然と溢れる涙を、留めることはできなかった。
忠三郎はその時、右近の涙に気がつかなかった。撫でるその手を心地よく受け入れつつ、涙をにじませながら右近の膝に頰を寄せてその温かさを感じていた。安心する。右近と体を重ねた時から思っていたことだ。まるで母の胎内に戻ったような、そんな充足感があった。愛している、という言葉が胸から滲み出て溢れ出しそうだ。このままでいられたら…いや、それは傲慢だ。今まさに幸せを噛み締めているのだから、これから先も、なんて考えてはいけないのだ。明日になれば終わってしまう。それでいい。それだけで十分だ。そんなことを考えていた。
右近の異変に気が付いたのは、だから随分経ってからのことだった。忠三郎の頭を撫でる手がふと止まったと思っていたら、頭にぽたり、と何かを感じた。それに気がつき顔を上げる。右近のまなこからは、涙がはらはらと流れていた。嗚咽も漏らさず、ただ、透き通る温かな水が右近の滑らかで肌理の整った頰を伝っていた。それを見た忠三郎は思わず体勢の崩れたままに右近の体を抱きしめる。
細い体は、焼け落ちた木のように今にも崩れ落ちそうだった。儚い、なんてそんな言葉で飾れるものではない。抱きとめるだけで精一杯だった。なぜ右近が泣くのか、忠三郎には分からなかった。その涙の真意は深い深い闇の中だ。意味なんて今思えばなかったのかもしれない。だけれども、そこに意味を感じてしまう。どうしてもいらぬ意味を覚えてしまう。愛を、彼の愛を、本当の愛を、どうしても手に入れたい。忠三郎の邪な思いがその身を満たし、都合のいい考えが忠三郎の心を満たしてしまう。そしてそれを自分自身で裏付けるように、自分にとって都合のいい言葉を並べてしまうのだ。
「高山殿…わたしは、あなたを」
愛の言葉はあっけなく遮られた。右近の言葉によって…それはあっという間だった。
「もう、やめてください」
思わず忠三郎は右近を見たが、右近の表情からはなにも見えなかった。右近はただ、なにも見せず、涙だけを流していた。胸が震えるのが自分でもわかる。その姿はいっそ恐ろしいほどに美しかった。
「私はあなたを…」
「…高山殿」
言葉をさらに遮り、胸元に飛び込む。結果的に押し倒すような格好になったが、構わず右近の体に身を委ねる。その先の言葉なんて必要ない。はだけたそこには先ほどまでの幸せな交わりのあとが少しだけ残っていた。幸せなはずなのに。右近はどうしてこんなに悲しそうなのだろう。
いや、わかっている。忠三郎にだって流石にわかる。これは赦されないことなのだ。右近はきっとそれを嘆いているのだ。どんなに愛を叫んだところで、駄々をこねたとしても、この関係は到底赦されるものではない。誰からも、神にさえ、いや、神だからこそ。右近の胸に頰を寄せ、その熱を感じる。これだけ愛しているのに、そして右近も自分を愛しているだろうなのに、ここには確かに熱があるのに、どうしてこんなにも寂しさを感じなければならないのだろう。そこにある寂しさが正しさならば、正しさとはいったい何を救うというのだろう。
右近は……忠三郎に押し倒されてそのまま、天井を眺めていた。そこに意図はなかった。そこに天井があったからただ見ていたに過ぎない。忠三郎はまた泣いているようだ。手が右近の思想に反して再び優しく忠三郎の頭を撫でる。彼がなにを思って泣いているのかは、右近にはわからない。右近の裏切りを、本能的に察しているとでも言うのか。まさか、と思う一方で、そうであったとしたらという恐怖に近い感情を葬ることがどうしてもできない。
「このまま二人で居られればいいのに」
忠三郎がぽつりと呟く。小さな声だ。きっと、ぽろりと溢れでた本心なのだろう。
「どうして二人でいることが罪なのでしょう、こんなに幸せなのに…こんなに愛しいのに…」
続ける忠三郎の言葉を聞いて、右近はどこか安心してしまう。そうか、そういうことで泣いているのだ、彼は。なんと愛おしいのだろう。背中に手を回し右近から抱きしめると、感極まったのか忠三郎はまたも嗚咽を漏らした。忠三郎の広い背中が、今はとても小さく、幼く見えた。
…ああ、なんてことを…右近もまた、別の意味で涙を落とした。後悔なんて軽々しいものではない、ひたすら神に、忠三郎に、そして与一郎に…祈るしかなかった。右近が耐えればそれで済む話でもないというのに。何に耐え忍んでいると言うのだろうか。
忠三郎がなおも囁く。
「何があってもあなたを愛します。死ぬまで…いえ、死んでも…あなたがいないのならば、ぱらいそに行けなくてもいい…」
「そのようなこと、言うものではありません…」
普段ならば厳しく言うであろうそれは、いつもとは違う、どこか心の抜けたものとなった。忠三郎は涙を手で拭うと、またきつく右近の体を抱きしめた。ああ、本当に何も知らないのだ…彼は、何一つ真実を知らない。右近の涙の意味すら、彼にはわからない。わからない彼に対して右近のした仕打ちは、到底赦されるべきではない。生来右近は隠し事が嫌いだ。その隠し事の中でも一番ひどい隠し事を、いままさにしていると思うと、やはり涙が止まらなくなる。涙に濡れ、たとえ赦されなくとも詫びたくなるのだ。右近が忠三郎に如何に見合わないか説明しなければならない気持ちになる。でもそれはしてはならない。それをしてしまったら、忠三郎が真実に辿り着いてしまったら…右近はそれが、何よりも怖かった。
何も知らない夜が明ける。夜が明けたら、また別れという朝がやってくるというのに。彼はそれを知らない。
その頃与一郎は一人揺らめく灯を眺めていた。
昨夜…与一郎は右近の体を抱いた。何度目かは覚えていない。最早それが当たり前になっているから、右近もなにも言わないし与一郎もかける言葉なんて持っていない。情事なんて高尚なものではない。もはや獣の交尾に近いものだった。出会ってしまったから、互いにするのだ。それが何も産まなくても。
忠三郎から右近についての相談を受けなくなってもう半年ほど経つ。最初はとうとう諦めたのかと期待したものだったが、淡い期待は微笑み語らう二人の姿によりあっけなく崩された。与一郎の再三の忠告を無視して、忠三郎は右近と心も体も通わせることに成功したらしい。少なくとも忠三郎はそう思っているだろう。
…右近の体を知ったのは、それよりも前の話だ。
初めは好奇心だった。男の体に興味はなかったが、忠三郎が惚れ込んだ男の本当の姿を見て見たかったのが最初だったと記憶している。嫌がる右近を押さえつけ、半ば縛り上げるようにして犯した。悲鳴をあげ、抵抗し、すすり泣く右近は確かに美しかった。そして与一郎の好奇心は次第に幼い八つ当たりに変貌していき、遂に与一郎にも理解できない不可思議な感情に辿り着いた。与一郎から忠三郎を奪ったそのしなやかな細身が心底憎たらしかったが、一方で与一郎は戯れに右近に愛を囁いた。右近はそれを認めることは一切なかったし、そんなものを与一郎は望んでいなかったにも関わらずだ。
そこにあるのはただの戯れだった。もしも右近が…嘘でも、与一郎に傾けば、忠三郎から右近を取り上げることができれば、という気持ちが無いわけではないのだが、互いに本気にしてはならない無言の圧力がそこにはあった。
そういうこともあり、忠三郎と右近の仲がただならぬものとなってからも、与一郎と右近の関係は続いている。未だに。
今夜、忠三郎と右近が共にいるという話も、昨晩右近の口から聞き出したことだ。右近は直接忠三郎の名を出さなかったが、与一郎には痛いほどわかった。同時に抑えきれない悋気が心を蝕む。だからそれを聞いた与一郎は右近を抱き潰すように抱いたのだ。忠三郎がどんなに優しくその身に触れても癒されることのないように、けして忘れさせないように、持てるだけの全てを注いで右近の体を蝕んだつもりでいる。本当のところ右近がどれだけ与一郎によって苦しんでいるかは知らない。嫌な顔はするが、彼の知らない、感覚として到達することのないところでは、与一郎の行為を悦んでいるのかもしれない。いや、彼はけして軽い男ではないから、そんなことはないか…しかしそうであったとしても、最早与一郎には関係のないことだ。
あの右近が何を思って忠三郎を受け入れたかは知らない。そこにある感情を与一郎は知りたくない。だけれども、一つ言えることがあるとすれば、右近は確実に変わった。柔和な表情をよくするようになったし、物腰もより一層柔らかくなった。本当に若かった頃の彼を与一郎はそこまで知らないが、彼の昔話を鵜呑みにするならば考えられないほどに変わったと言える。そしてその聖母のような眼差しの先には必ずと言っていいほど忠三郎がいた。その忠三郎も確実に変化した。棘が抜けたとは言わないが、照れ臭そうに笑うようになった。それまでしなかったようなこともするようになった。変わったのだ。二人は。何一つ変わっていないのは…与一郎だけだ。同じところで同じことをしている。何をしていても誰といてもそれは変わらない。苛立ちが止むことがないのは当然だった。意味がないとわかりながらも比較してしまう。不毛だと自分が一番わかっているはずなのに、やめることができない。
「もう休む…疲れた」
外で畏る何も知らない青年たちに言いつけると、与一郎は立ち上がった。すべてを知る夜が明け、何も知らない朝がやってくる。
彼は愛していると言った。
それが本当のことなのかは右近には疑わしい。
しかし彼の行為に逆らうことはできなかった。
なにを求めているのだろう。
この手を。
この手をとって彼はなにがしたいんだろう。
こんな汚れた手で。
右近はその夜も忠三郎と会う約束をしていた。忠三郎に会いたい一方で、会うのを躊躇うこの感情にとうとうこの日がやってくるまでにどうしても名前がつけられなかった。
会って何をするかは右近が一番よく知っている。そしてそれを受け入れているのも事実だ。右近にだって人並みの愛情くらいはある。忠三郎のことが愛しいし、彼の望むことならなんでもしてやりたい。彼を愛したい。心の底の深いところから。
それなのに、今は与一郎といる。本当は心底断りたかったが、与一郎の機嫌を下手に損ねるようなことがなぜかできなかった。与一郎は右近を後ろから抱き締めると、一分の隙もない右近の装いをいやらしく乱し始めた。
「こんな、まだ日も落ちていないのに」
右近の諌める声は与一郎を悦ばせるだけの無意味なものだったようだ。
「夜ならばいくらでも構わないということでしょうか?」
心底楽しそうに与一郎は右近の体に触れてくる。右近はもはや抵抗しなかった。声は流石に漏らすまいと努力したが、その手は与一郎の手を振り払うことはしなかった。
兎に角、一刻も早く与一郎を満足させてこの場から離れたい。もうそういう思いしかなかったのだ。そこに右近の意思はない。
「心配しなくとも、この後の用事には差し支えないようにしますよ。彼のところには綺麗な体のまま返して差し上げます」
与一郎はすべて知っているようだ。なぜ、与一郎は知っているのだろう。一言も忠三郎との関係を零さなかったというのに。
「しかしそう素直で従順だと、追い詰めたくなってしまう」
与一郎は右近の唇を舐めると、に、と笑う。
ああ、嫌だ…与一郎とだけは、こんなことになりたくなかったのに。年下の、可愛い友人だった。右近の話を面白がってくれたし、また彼の話す話も面白かった。皮肉屋で少し物事を斜に構えて見ているようなところもあったけれども、彼の根幹にあるのは驚くほどのまっすぐさだった。彼との話題は尽きることが無かったし、その時間は右近を楽しませたものだった。どうしてそれがこんな関係になってしまったのだろう。
右近の首を曲げさせ、与一郎は責めるように口づけをする。慣れきってしまった行為だ。与一郎は口吸いが好きなのかことあるごとに唇を重ねてくる。彼が何を期待しているかもわからない。右近を抱くことで、彼が得られるものが、右近には到底理解できないものだった。
すべてが終わった後、彼はこんなことをつぶやいた。
「彼の方が羨ましい」
与一郎は名前を出さずにいまここにいない忠三郎に声をかけている。わかるのだ。右近には。ただそれが何故なのかはわからない。
「あなたの愛を一身に受けられる彼が、俺にはどうしても羨ましい」
右近はこの言葉を嘘だと思ったが、そこに理由が見つけられなかった。実際与一郎は戯れでこんな見え透いた嘘をついた訳では無い。忠三郎が羨ましいのでは無い。本当に羨ましいのは右近の方だ。忠三郎に愛され、慈しみを受ける右近が、どうしても与一郎には羨ましくて仕方がない。しかしそれを手に入れることだけが与一郎にはどうしてもできなかった。だからこんなことを言い始めたのである。こんな不毛な愛の囁きを。
「俺には向けては下さらないですから」
「…与一郎殿は、愛を望んでいるのですか。私の愛を」
着衣を整え、右近もつぶやくように答える。その目は疑いを滲ませていた。
「…どうでしょうね。俺は何が欲しいんでしょうか。あなたにはわかるかと思いますが」
嘘。わかって欲しくなどない。少なくとも右近にだけは。この劣情を右近は否定するだろう。忠三郎の思いを受け入れた今、彼にこれを拒絶する筋合いなどはない。しかし彼は拒むだろう。右近もまた、忠三郎を愛しているだろうから。
「わかりません」
そういうと右近は立ち上がる。もう用は済んだのだ、という顔をして、足早に去っていった。忠三郎に会いに行くのだ。与一郎はその後姿を見て、意味も無く舌打ちをした。これからのことを想像したくもない。だが、事実は変わらない。右近はこれから忠三郎と会う事実。ああ、今すぐ右近を呼び止めて、振り返った彼を何らかの形で拘束できたら、そのまま閉じ込めておければ。どれだけよかっただろうと与一郎は思っていた。そこにある激しい嫉妬を、右近は知らないし、知ることは今後一切ない。少なくとも与一郎の標した道筋には。
「一刻も早くお会いしたかった…」
忠三郎は右近に会うなりそう言ってきた。まるで生き別れの親に再び会ったように、涙を滲ませて右近の体を掻き抱いた。
ああ、あれから体を清めてすらいないのに。右近は忠三郎の腕の中で目を逸らす。清めるその間も惜しんでやってきたのは間違いだったと今更後悔する。ふとした匂いで悟られてしまったらどうしようと心配で仕方がない。忠三郎の体は熱く、右近の冷えた体を確実に温めている。心地のよいもののはずなのに、どこか居心地が悪い。早く終わって欲しいとも思うし、終わらなければいいのにとも思う。矛盾した願望はどちらも右近にはどこか似合わない。
再び装いを崩され、口づけをして、ことに及んだ。なんという不毛…そう思ったが、もう遅い。ここまできたら忠三郎のやりたいようにしてやるのだ。それが右近にできる最後の優しさとやらなのだ。忠三郎はいつもどおりどこまでも優しく右近に触れた。先ほどまでの激しい行為とは打って変わった、優しすぎるといっても過言ではないそれは、おぞましくも少し物足りなさ、もどかしさを感じてしまう。
何度もなんども忠三郎は右近に精を叩きつけたし、右近も応えるように吐き出した。そこにあるものが何なのかは、とうとう右近にはわからなかった。ただ、目に見えた色の違う罪悪感が、ごろごろと右近の心を転がりまわりひたすらに傷つける。こんなはずではなかった、と後悔したところで今更遅い。右近の目に浮かんだ涙が何を意味するかは、誰にもわからない。
忠三郎は右近を抱き締めると、そのまま眠ってしまったようだった。ああ、体を清めたい。場違いな考えが右近を覆う。忠三郎の幸せそうな寝息が、右近の心をちくりちくりと刺す。この安らかな時間を守りたい。しかし、それに対するこの罪における罰が、代償だというのなら、世界はなんて救いのない器なのだろう。
朝が来る。悲しみに包まれた朝が、涙を落とす夜を薙ぎ払いあざ笑う。
…いつかこんな日々にも終わりは来るのだろうか。ぼんやりと右近は考えていた。
五年だ。五年経った。
恐ろしいことに相変わらず関係は続いている。互いに、知りながら、知らないふりをしながら、知っているふりをしながら。
あれから互いの立場がめまぐるしく変わってしまい、もう簡単には会えなくなったが、たまに会うとこうして二人でいる。状況はほぼなにも変わっていない。
確実に歳をとった自分の体を、忠三郎は慈しむように撫でて唇を寄せる。もはやそこに正しさなんて大それたものはない。そこには愛のようなものが漂っているだけだった。忠三郎がどう思っているかはともかく、右近にとってはそうだ。
忠三郎は…心底右近が愛おしいというように振舞う。目が合えば年齢を重ねた目元が何の疑問も無く笑いかけてくる。それがたまらなく右近の罪悪感を煽るのだ。
「愛しています」
忠三郎は変わらず右近に愛を囁く。その愛が、なにを奪いなにを与えてくれるかなどわからない。
「…はい」
右近も、忠三郎を愛している。五年の月日はそれを間違いなく証明した。だが、知られてはならない秘密を抱えたまま、忠三郎を素直に愛せるほど、右近は暗愚になれなかった。悲しく寂しいが、これが現実なのだ。
「…愛しています」
忠三郎は右近に愛を確かめない。ただ、愛している、と自分の想いを伝えてくるだけだ。きっと忠三郎にも考えがあってそうしているのだろう。その優しさが、今となってはひどく右近の良心をいたぶるものだということを、忠三郎は知らない。
それからさらに三年後、忠三郎は病にかかりあっけなくこの世を去った。右近が伏見の屋敷に着いた頃にはすでに人事不省に陥っており、そこに最後の別れだとか言葉だとかは最早なかった。あの日々は忠三郎の死をもって簡単に終わってしまった。
右近は彼の魂が救われるように必死に祈りを捧げ、結果的には看取った形にはなった。これでよかったのかは今もわかっていない。一生わからないのだとも思う。
彼が息を引き取り、諸々の手配をして、屋敷を出た頃にはもう朝になっていた。
あれだけのことがあったのに、朝は当然という顔でやってきた。それらを眺めながら、かつて二人で迎えたいくつかの朝を、右近は思い出していた。別れの寂しさに二人静かに泣いた日もあった。ただ言葉無く、抱き締めあった日もあった。あの時の気持ちにもう戻れることはないのだけれど、確かにあれは愛しさを孕んでいたと思う。いや、孕んでいたことにしておいて欲しい。確かになにも創ることはない日々だった。そこにあったのはまやかしの幸せだけだったと人は言うだろう。右近だってそう思う。裏切りを重ねた日々だった。愛しさを感じるたびに、全ての方向からの後ろめたさに震えていた。それは忠三郎にもそうだった。それでも、確かに幸せだったと右近は思っていたかった。忠三郎が幸せそうにしていたから、理由はただそれだけだ。
ああ、いつか、与一郎と何事もなく普通に、昔の話がしたい。そこにあった些細な思いで話などで、そんなこともあったと笑いながら過ごしたい。そう思いながら…それでもまた、相手である忠三郎が死してもなお、裏切りの日々は続くのである。ささやかな願いはけして叶わない。与一郎と右近の間には、もう元には戻らないねじれた何かが浮いているだけだ。けして解けない。右近が願ったところで。もしかしたら、与一郎が願ったとしても解けることはないのであろうか。
また与一郎から誘いの文が来た。拒む選択肢は右近にはない。またこの老いた肌を晒し、体を開くのだ。変わらない事実。変わらない関係。
しかしもう二度と忠三郎に抱かれないこの体を、与一郎は確かに慈しんだ。思いで話の代わりとでも言いたげに、望んでいるものはそれではないのに。しかし右近の体は右近の思想を越えてしまう。罪深い体の温度は高まっていく。それは望んだものではなかったはずだったのに。
「あなたに愛されたあの人は幸せでしたね」
与一郎の言葉が右近を確実に追い詰める。もうやめてほしいと心から望んでも、叶うことなどはないから、もう右近は何も望まなくなっていた。
それが与一郎には気に食わないのか、彼は更に言葉を続ける。
「結局あの人は何も知らずにいたのだから、いいではありませんか。これからは俺があなたを満足させてあげます」
そういうと、頬に触れ右近の唇をそっと舐める。昔ならば身震いとともに突き飛ばすくらいはやっていただろうが、どうしてもそんな力が出ない。もう誰に触れられてもなんとも思わないのではないだろうかとすら思う。若いころはあんなに嫌だった筈なのに。そこにあるのは確かに諦めだった。
諦め。そう、何も望まない。何も期待しない。自分は裏切り者なのだ。罰されるべき存在なのだ。右近の心に溢れ出る思いは留まること知らず、その身と心に影を落としていく。夜明け前の空よりも暗いそれは、もはや消えることなど一生ない。
これ以上なく愛していた。神への裏切り。
愛していたのに、与一郎と寝た。忠三郎への裏切り。
二つの裏切りを犯した右近を赦すものは、もう完全になくなったのである。