例え 赦されなくても

人は罪により生まれ、罪により生き、罪とともに死んでいく。
良き行いをすれば天の国に迎え入れられ、悪い行いをすれば地獄が待っているという。
子どもの頃から繰り返し聞かされた言葉だ。単純なようでいてその言葉は非常に奥深い。もちろん子どもの頃はそこまで深いことを考える余裕なんて持ち合わせていなかった。しかし意味がわからなくとも、何度も言葉を口にするうちに次第に身をもってわかるもので、心身の成長と共に右近のこれまでの道筋には、少なからず罪という言葉がどうしてもつきまとった。
では、罪とはなんであるのか。
生まれおちることが罪であるならば、何故生まれてきたのか。贖罪のためか、生きているだけで罪というのであれば、生き続けるごとに罪というのは上塗りされてゆくものではないのか。問うても出ない答に若さ故から苛立つこともあった。この話をすると多くの人間からは何故かしら驚かれる。いったい自分という人間は、傍からどのような人間に見えているというのであろうか。

右近の罪は明らかなものだった。
年不相応に赤くひび割れた指は、水に手をつけるだけで聞こえない悲鳴をあげるようになった。それでも水から指を離すことはできなかった。その姿は誰でも一瞬は目を背けるだろう。その傷は戦傷でもなければ労働によってついた誇り高い傷でもない。水から指を離せなくなるが故の皸だ。自分ではそれをみじめだと思うし、不必要に時間や労力を浪費しているようにしか見えない。しかし、どうしてもこれをしないと心が休まらなかった。
別に特段綺麗好きというわけではない。思えばこれも、人に打ち明けると非常に驚かれることであった。右近としては”不浄”でなければなんでもよかったのだ。まめに掃除をするのは、自分の手の届く範囲になんらかの不都合で”不浄”ができてしまう事態を恐れたものだからだ。この感覚は誰からも完全には理解されなかった。世間一般で言う汚いものと、右近の感じうる不浄は必ずも一致しないからだ。多くの人間は繊細ゆえの執心と決め付けたが、必ずしもそうではないと右近は思う。不浄の概念を説明するのは難しい。そもそも、もし右近が不浄と一度思ってしまったら、彼自身はその”不浄”なものに触れることすらできない。それは得体の知れない化け物のようなもので、右近の神経を逆なでするのだ。それだけ不浄の前に彼は幼子のようになすすべもなくか弱かった。
そのか弱さを隠すためにも、右近は常に自らとそれを取り巻くすべてを清めなければならない強い使命感にかられていた。あまりの潔癖ぶりにからかわれたこともある。色眼鏡で見られることはほぼ常だ。早い時点で右近は諦めの眼差しを投げることしかできなかった。
…不浄ならば、不浄なりに生きていけばいい。人として生きる以上、不浄から逃げることはできないのだから。しかしそれすらできないどころか、まだ自分のどこかに残っているだろう美しい清浄な部分を探し出すため、右近は何度も身を清めようとした。それでどれだけ自分の近しい者たちの胸を苦しめたか、想像に難くはない。
清濁併せ持つという言葉は今更教えられるまでもない。最大の理解者である実父ですら使った言葉だ。嗜めるつもりで使ったのだろうが、自分がやっていることがどれだけ無駄なことであるかは右近が一番わかっていた。無駄だと分かっているからこそ、苦痛は消えない。それでも右近の心を慰めるにはどうしても必要なものであった。

もう一つの罪は、他でもない忠三郎の事だ。
あの若い忠三郎が自分に好意を寄せていることは、わりと早くから気がついていたと思う。下手をしたら忠三郎自身がその想いに気がつく前から、右近の方が先に気がついていたかもしれない。
ある頃を境に彼は右近の目を見なくなった。あれだけ澄んだ目で覗き込んできては、右近の心情すら読み取られているような気すらして内心恐ろしさを感じていたのが、向こうから逸らすようになった。最初は何か怒らせるようなことをしてしまったのかと心配したが、会えば向こうから無邪気に歩み寄ってくるのでその差を不思議に思っていた。
忠三郎のそういった態度が、何か並々ならぬものであるということに気がついたのは、前田家に身を寄せることが決まり久しぶりに会うことになった時だっただろうか。顔を赤くし、そう暑くもないのにしきりに汗をぬぐい、こちらの様子を伺っては何かを言おうとしていた。勿論目は合わせてくれなかったが、そのくせこちらの意識しないところではずっとその視線を感じていた。顔を上げるとその視線は逃げてしまうので、少し可笑しさや可愛らしさすら感じたのを覚えている。
思えば不思議なことに、そういった忠三郎の視線を不快には一度も思わなかった。普段の右近ならば、きっと厭なことだと切り捨てていただろう。それなのに、むしろ、心地よさすら感じた。
右近は確かに、忠三郎を愛していたのだと思う。

その頃から、右近は新たに罪を作った。忠三郎に対して何も知らないふり、気がつかないふりをした。ふりをするということは、嘘をつくということだ。嘘は罪だ。それでも、ずっと嘘をついてきた。笑顔で何も知らない顔をしていた。
理由は簡単だ。怖くなったのだ。忠三郎の想いにも、自分が口に出さずとも抱くことになってしまった思いにも。まるで右近の思う”不浄”のように、手を伸ばすどころか、それらを見つめることすら、できなくなってしまったのだ。
真面目な忠三郎の事だ、きっと右近の知らぬところで密かに悩んだに違いない。しかし、その想いに答えらるほど、右近は清浄でも無邪気でもなかった。
もし、忠三郎が自分に想いを吐露してくれる日がくるとしてもそれは変わらない。万が一にでも彼の想いを受け入れたとしても、彼に自らの罪を任せるような真似などできることはなかった。彼には彼の罪がある。そもそも、そんなことをしたって何の解決にはなりはしない。無駄なことなのだ。右近が水に手を浸さないと気が済まないのと、まったくもって同じことだ。
もとより赦してもらおうなどという浅はかな願いは持っていない。持とうと思うことすら愚かだ。罪なくして人が生きることはない。無垢な寝顔を見せる乳飲児ですら、その罪からは逃げられないのだから。もしも赦されることがあるのなら、それはこの命が尽きた時だ。その時まで彼を付き合わせようという思いがすでに思い上がりだ。

忠三郎はそれから数年もしないうちに病に倒れ、なす術もなくこの世を去った。彼が旅立った明け方の空は、きっと死ぬまで忘れることはないだろう。冬の終わりに煌めく鮮やかな朝焼けは、どこか忠三郎の眼差しを思わせた。一生忘れる事はないが、もう一生見る事はないあの眼差しを、懐かしむ間もなく時は流れた。そして、最後まで彼の本当の気持ちを知ることはなかった。
結局のところ、右近は死の淵に立った彼を前にして、見送ることしかできなかった。それができただけでも十分なのかもしれない。しかし、もしもう少しだけ、時が遺されていたのならば、何年も押し留めてきた想いを彼に伝えればよかったのではないかと確かに思ったのだ。
例えそれがゆるされることのない罪深い未来であったとしても。