初めてそれを聞いたのは、久しぶりに二人で酒を飲み交わしていた時であった。その日は月の見えない夜で、隠し事を暴露するのにある意味ではうってつけだったのかもしれない。
それに加えたいそう酔っていたのか、与一郎の親友は少々据わった目でとんでもない告白をした。そこには何の脈絡もなかったと記憶している。あまりにも突然のことであった。今までに聞いたこともないくらいの情けない声であったのは、よく覚えている。
「…与一郎、どうやら俺は、俺は…ある人に惚れているらしい…お前も知っている人だ。どうすればいいのかわからないんだ…俺はどうすればいい?なぁ…」
今思えば、同じことを言いかえしてやればよかったかもしれない。ただその時は、どこぞの姫君に、それも与一郎が知っているというのだから、道ならぬ恋をしているのではという疑いもあった。奥方のほかに側室を持たないことを信条としていた彼が、妻に申し訳ないと半べそをかきながら何度も漏らしていたからだ。
だから与一郎には一瞬の動揺があったものの、あくまでも馴染み深い親友の顔をして話を聞いてやったのだ。わざわざ人払いまでして、誰にも聞かれぬよう配慮もした。完璧な対応だったと自分でも思う。
その結果はどうだ。
よりによってこの男は兄弟弟子の右近に惚れているというではないか。確かにそう知って思い返せば、心当たりはいくらでもでてきた。合点がいったところも多い。いや、腹が立つほど合点がいった。
右近の一見すると穏やかで神秘的な雰囲気に呑まれるのは容易に想像できる。だが右近は見た目通りの男ではない。驚くほど神経質で、思いのほか感情的だ。それは、忠三郎もよく知っているはずだ。いや、もうそれすらまともに見えないほど籠絡されているのか。考えたくはないが。
そこまで考えて、落胆と情けなさと怒りと…嫉妬が、与一郎を支配した。その間も忠三郎は何かを言っていたようだが、まるで与一郎の頭には入ってこなかった。
こちらは初めて会った頃から…もう十年近くも忠三郎に仄かな思いを寄せているというのに。忠三郎本人どころか、どんなに親しい仲であっても誰にも言わず、一人で悩んできていたというのに。その報いがこの有様であるというのか。忠三郎や右近の信じる神がもしいるのならば、すぐにでも腰の刀を抜いて切り伏せたって許されるだろう。なんという趣味の悪い神だ。絶対に口には出さないがそこまで考えた。
それでもそんな想いを億尾にも出すまいと心がけながら、目の前で項垂れる忠三郎を前に、酔い覚ましの白湯を口に運びながら笑うしかできなかった。その姿は我ながらひどく滑稽だっただろう。
「…何故よりによって私に言うんです、あなたは」
「すまん…」
すまん、と何度も口にし涙を浮かべる忠三郎を前に、心がひどくざわついた。身を乗り出し手を伸ばせば十二分に届く距離で、彼は今にも子供のように泣き出しそうだった。あまりにも純粋すぎる。純粋で、見た目よりも脆く危うい。まっすぐ生きようとするばかりで目の前の石にも気がつかず、無邪気に歩を進めてしまう彼を、何歩も後ろから見てきて何度冷や冷やさせられただろう。
それでも惚れた弱みか与一郎には彼を否定することができなかった。これまでずっとそうしてきていた。与一郎にとって忠三郎とは、数少ない理解者であり、頼もしい兄貴分であり、肩を並べて歩ける戦友であった。
そんな彼のこのような姿を見たくなかったという気持ちと、自分にだけ見せた秘密の共有という甘美な響きと、事実を告げられた純粋な嫉妬とが、与一郎に一気に降りかかったのだ。
それでも与一郎には、忠三郎を見ていて腹の立つ思いを隠すことができなかった。
「あなたはどうなりたいんです」
忠三郎を冷たく突き放すことに躊躇はなかった。どうにもならない気持ちをどうにかして欲しいのはこっちの方だ。彼の返しは非常に歯切れの悪いものだった。それまでに聞いたことのないほどの。
「俺は…傍に居られれば…」
「傍に?」
それ以降も忠三郎は何かを言いたそうに口を動かしたが、言葉にはならなかったようだ。それを見て今度は心から笑った。本当に純粋な男だ。悲しくなるほど。
「それならばもうすでに叶っているではありませんか。これ以上何を望むんです?」
最近、どちらかに会おうとすると必ずもうどちらかがそばにいた。それだけ忠三郎と右近は距離が近い。
忠三郎は押し黙ってしまった。まさか、これから先のことだとかそんなことを抜かしてくれるなよ、と願いながら与一郎はまた白湯を口に運んだ。限界があるならとっくに超えている。もう何も聞きたくなかった。
「…そう、そうなのだが…この気持ちを抱いたまま、何も知らない顔をしてそばにいるのも…」
一瞬、心を見透かされたのかと思った。それくらい、今の与一郎自身の思いを代弁しているようなものだった。忠三郎の大きな瞳は、それができると言われたらそうなのかと納得してしまうほど、深く広くものを見る眼光をたたえていた。思い悩む今でさえもそれは変わらない。与一郎が惚れた眼差しのままだ。人の後ろめたさを増長させる、美しく怖ろしい眼。
気取られないように歯を軋ませる。そもそも忠三郎がこの気持ちに気がついているわけがない。気がついていてどうしてこんな相談を持ちかけるというのだ。
「告げる勇気がないのなら、そのまま諦めるのが宜しいでしょう。今日聞いたことはすべて忘れて差し上げますよ」
嘘だ。忘れるなんて、できるわけがない。過去を消すことなど不可能だ。知ってしまったことをなかったことにするなど、できるはずがない。
「諦め、か…」
忠三郎はふと悲しげに目を伏せた。そうだ、そのまま諦めてしまえばいい。更に言葉を続ける。気持ちとは裏腹に舌が回った。当たり前だ。いつもそうやって自分に言い聞かせているのだから。
「もしたとえ、告げたところで何になるんです?私も伴天連衆と話したことくらいはありますが…彼らの教えでは、そもそもこういったことすら赦されないんでしょう?右近殿に何を期待しているんです、あなたは」
「…わかっている」
「何をわかっているのですか」
ついつい語気が強くなる。どんどん忠三郎に対して苛立ちが募る。もういっそ嫌悪感にも近い。あまりにも急すぎて、感情が暴れているのが自分自身でもわかった。
その後、似たようなやりとりを繰り返した。互いに酔いは完全に醒めていたはずだが、傍から見れば酔っぱらいの押し問答に見えただろう。堂々巡りという言葉がここまでしっくりくる状況はなかった。
しばらくして、とうとう忠三郎が折れた。というより与一郎が折ったといった方が正しいか。
そして忠三郎は何度も、もう諦める、すまなかったと言って帰っていった。帰路につく悲しげな背中を見送りつつ、与一郎は白みかけた空をにらむ。朝は嫌いだ。
少しでも休もうと床についたが、まるで眠れる気がしない。頭の中は忠三郎の事や自分のことで溢れそうだった。
忠三郎の抱く想いに嫌悪感を覚えたのは、与一郎の抱くそれと全く変わらないからだ。見ていて腹がたつのは、忠三郎の躊躇が与一郎のそれと全く同じだからだ。同じ想いは、しかしけして向き合うことはない。
なんという茶番だ!
その日ほど与一郎は自分を、自分を取り巻く全てを、何もかもを呪ったことはなかった。普段吐く皮肉など可愛らしいものだ。もっと残酷で無邪気な言葉で、与一郎は自分を傷つけた。
忠三郎はきっと諦められないのだろう。どれだけ合理的な理由を提示しても、どれだけ感情に訴えても。それは与一郎とて同じだ。同じだからこそ、その諦めの悪さをよくわかっている。わずかな希望にもすがろうとする、したたかな弱さを。
あべこべな因果にため息をついて、与一郎はつかの間の眠りについた。