聖者はいまだ愛を知らず

主は人をその姿と同じくしてお作りになられた。人は智を手にし今に至るまで、その智から片時も手を離すことはなかった。
たとえどんな絶望に打ちひしがれたとしても、智と人とは切り離せない関係にいた。
だからこそ人は文字を書き、絵を描き、残し、伝え、少しでも自分を後世に残そうとした。その残滓の中を生きているようなものだ。
そしてその残滓にこそ智は宿っているのだ。

右近は考える。
人は、智の代わりに愛というものを手放してしまったのではないのかと。
人を慈しむ心はどのような時、どのような場でも存在する。しかしそれは本当に愛と呼べるものなのだろうか。どのような者も等しくお作りになられた神の意志を、人は踏みにじる以外していないのではないだろうか。
人の心とは変わるものだ。人の考えも変わるものだ。右近は人の考えを変えさせることばかりしてきた。新しい思想を拒む人に寄り添い、話を聞き、時には涙を流すことさえあった。
そういったうつろいやすい人の心にあるものを、はたして簡単に愛などと言っても善いのであろうか。
やはり、主を愛し、隣人を愛するということは、はなから人間にはできない芸当なのではないのであろうか。

右近は、苦しみを背負うことに何の疑いも持たなかった。むしろ喜んで背負ったところもあった。それは純然たる光の国への渇望ゆえだった。即ち自らの、そして周りのかけがえのない大切な人々の救いへの一歩としてしかみていなかった。
しかし愛とは。右近にはわからない。
自分のそれと、宣教師たちや、家族や、友人らの言うそれとが一致しているのかがわからない。
右近にはわからない。愛なるものはどのようなもので、どのような形をしていて、どのような手触りで、どのような匂いなのかを。
だからこそ、自分に向けられたそれがどのようなものなのかがわからなかった。肉親や妻のいっそ義務的なそれとは違う、異質なものを。
そう、それは異質なものだった。少なくとも、右近の中では。

忠三郎が自分のことを好きだという。
彼がやっとの思いで右近に伝えた言葉は、簡素でありふれたものだったが、何やら特別な響きを持って右近に聞こえた。
それは二人きりの茶の席でのことであった。主人として右近を迎え入れた忠三郎が、無礼を承知でと前置きした上で突然話し始めたのである。
外は先ほどまで穏やかな陽気だったと思うが、少し風が吹いてきたようだ。雲が湧き狭い茶室に這入りこむ陽射しはすっかり隠されてしまった。それはまるで二人の間に起きた心模様の変化のようであった。
「……あなたの気持ちはわかりました」
確かに特別な響きだけは感じた。
しかし、それに応える言葉を右近は持っていない。曖昧に微笑んで、それだけ。それだけで今できる精いっぱいであった。
彼は自分という存在に何を望んでいるのだろう。彼には一体自分がどのように見えて、その上で何を期待しているのだろう。
今までこのようなことがまるでなかったわけではない。しかしその度々に、右近は疑問の目を持って接してきた。
相手の気持ちを全て汲み取るのは不可能だ。そんなことができるのは天におられる主たる神だけであろう。しかし、ある程度は慮ることはできる。それでも右近にはわからなかった。
だからそれはいけないことだと思いつつ、疑いの目をこっそりと向けてしまうのだ。
「…その」
顔を真っ赤にし、言ってしまった言葉に今更詰まる忠三郎は、確かに右近から見て可愛らしいとは思う。
向けられた好意が嘘偽りのないものだということは、十分わかっていた。こんな冗談を、こんな場面で言うほど彼は悪趣味ではない。
それはきっと純粋なものなのだろう。右近が思っている以上に。
この男のことを、もしかしたら好いているのかもしれないとすら錯覚してしまうかもしれない。でもそれ以上はないのだ。それは錯覚以外の何物でもない。
忠三郎が何を言っているかはわかる。それが理解できない右近ではなかった。だが、それは右近の知識や想像の域から外の…もっと自由な草原のようなところに駆け出すことはなかった。想像の中の愛と、目の前にいる忠三郎の苦しそうな姿とは、どこか噛みあわないものがあった。そこまで苦しむことが何故あるのだろうか。それは苦しいものなのだろうか。
「…しかし、私は何を持ってあなたの気持ちに応えましょう。私とあなたはあくまで同じ志を持った友であって…」
紡いだ言葉は自分でも笑ってしまうほどありきたりなものであった。こんな安い言葉で諦めるようならば、そもそも忠三郎はこのような告白をすることすらしなかっただろう。
そんな言葉を聞いた彼は悲しそうな表情をした。まるで捨てられた子供のような目をしていた。その表情はのちに右近の心にひどく引っかかるようになるのだが、その時は特に何も感じなかった。ただ、忠三郎を救わなければならないという一心だった。それは自分の気持ちや考えよりも大事なことであった。
今は彼が苦しみの中にいることしかわからない。ただ、ここで右近が彼を受け入れたとしても、それは紛い物の幸せに過ぎないことだけはわかる。こんな自分とそんながらくたのような愛を誓って見せたところで、後になって絶対に後悔する。絶対に。
だからこそここで目を覚まさせてやらねばとも思った。
もちろん、同時に右近の中にある愛という見知らぬ感覚についての拒否感も少なからずあったが、それよりも目の前の忠三郎を説得しなければならないと思ったのだった。

それから何度か言葉をかけた。お互いの立場の事が中心であった。できるだけ冷静に話したつもりだったが、少し語気が荒くなったかもしれない。それくらい右近も必死だった。忠三郎がそうであったように。
「私は、貴方には相応しくありません…貴方の思っているような人間では、私は決してありません」
最後にそう言い置くと、唇を噛んだ忠三郎がきっと真顔になったのがわかる。右近がひそかに恐れている、深い海のような瞳が右近を映した。しかし怯んではならない。忠三郎があくまでも立ち向かうというのなら、こちらもその腹づもりだ。
「それでも、それでも私はあなたを愛しています」

一方で忠三郎も、一度歩みを進めてしまった以上、簡単に引き下がるわけにはいかなかった。それでもその中にまるで悩みがなかったと言えば嘘になる。頭の中ではかつて与一郎が言っていた、右近とどうなりたいのか…という言葉がぐるぐると回っていた。まるでひと匙の毒のようにそれは彼の耳から後頭部にかけてを熱くした。泣けたらもっと楽だったかもしれないが、ここで泣いたら後で必ず後悔しそうな気がして、涙だけは必死に耐えた。
外の景色はだいぶ変わっていったようだ。風が強く、狭い室内はどんどん暗くなる。それは暗澹たる忠三郎の気持ちを代弁するようであった。一体全体、自分がこの話を切り出したときからどれだけの時間が経過したことだろう。一瞬のような、何年も経ったようなそんな気がしていた。
「…どうしてそのようなことを言うのです。私を困らせないでください」
眉尻を下げて俯く右近に動揺しなかったわけではない。むしろその仕草の美しさに溜息すら出そうであった。彼の美しさだけに心を奪われたわけでは決してない。ないが、魂の美しさはその造形にも宿るのだろうとそう確信した。
美しい魂。美しい心。そんな彼を忠三郎はどうしたいのだろう。今までの関係を壊してまで、この噎せ返る程の美しさをその手の中に収めてしまいたいという気持ちがないわけではない。全て自分のものにしてしまいたいとすら思う。それが正しいことではないことは、よくわかっていたが、どうしても伝えなければならない理由が忠三郎にはあった。
「私が、これからもあなたと歩みたいからです…もう自分に嘘をつくのは嫌です…勝手だと怒ってください、どうか私を叱ってください。だから…そんな悲しそうな顔はしないでください………私は、あなたと、共に…」
彼は右近の言葉にも引き下がるようには見えなかった。もうすでに涙目ではあったが–右近は初めて忠三郎が泣くのを見た–一つずつ言葉を選びながら、ゆっくりではあったがその言葉には意志があり、それらをひしひしと感じさせた。
共に歩みたい。それは右近も同じ気持ちだ。忠三郎の潤んだ目を見て、優しく声をかける。
「こうなってしまったのは、私にも責任があります…飛騨殿の思いを踏みにじっていたのならば、それは謝らなければなりません」
「右近殿が謝ることなど…」
「いえ、わたしも…貴方に、いえ、私以外の全て…主様にも隠していたことがあります……」
きっと忠三郎は、今もてるすべてを使って、今までの本心を吐露してくれたにちがいない。共に歩むため、共にわかち合うため。
ではこちらも本心で応えよう、言ってしまおう。長年抱えていたこの違和感を。
忠三郎には辛い事実かもしれないが、そこまで言わないとこの先二人の関係に疵がつきそうだ。それだけは避けたかった。右近も忠三郎と共に歩みたい、それだけなのだ。どうして同じことを考えていると言うのに、ここまで差が出てしまうのだろう。そこに至るまでに生じた愛というものが、どれだけ忠三郎を思い悩ませたかを右近は未だに測りかねていた。
「それは一体…」
「率直に言うと、私は……人を、愛せません」
突然の告白に、目の前の忠三郎は目を見開いたまま、信じられないという顔をしている。当たり前だろう。これだけ愛を、調和を、秩序を語っていたこの口が、それを否定するような言葉を吐き出したのだから無理もない。
「そんな……嘘です。では」
「嘘ではありません。愛せないというよりは、愛を受け入れることが、できないのです。私は人を愛したことがありません」
「ご、ご家族はどうなのです…」
忠三郎が明らかに動揺しているのがわかった。その瞳を揺らしているのが自分だと思うと、右近は申し訳なさで胸が苦しくなった。本当は、嘘だと言いたかった。たちの悪い冗談だと言ってしまえれば、いっときは楽になるだろう。しかし説明しなければならない、これからの為に。
「家族を愛することは別です。それは私にとって義務です。それに情がまるでないわけではないのです。私にとって…貴方のような…そうでない人からの好意的な思いは……わからないことだらけなのです…笑ってください。」
「笑いません…絶対に笑いません……その、私は…」
忠三郎の言葉はそこで止まってしまった。愛を知らない彼に、いや、愛を疑う彼に忠三郎は何も伝えることはできなかった。その事実は忠三郎のどんな想いにも勝つことはないだろう。
同時に右近がわからなくなった。彼の切れ長の眼は一体この世界をどのように見ているのだろう。
しかし一方で、右近の告白によって、彼の想いが揺らぐことは決してなかった。むしろ、そんな右近を救いたいとすら思ってしまった。思いは消えるどころか、意地のようないらない感情を孕んで大きくなるばかりで、忠三郎にとってそれまで完璧なところにいたはずの右近が、急に愛という果てのない断崖に立たされた華奢な少女のようにすら思えてしまった。
どうにかしてもその腕を掴み、こちら側に引き寄せたい。その願いが愛を知らぬ…いや、恋も愛をも持たぬ右近にとってどれだけの苦痛であるかは、それらを当たり前に所有する忠三郎には知る由もないことであった。

一方で右近は、言葉を失った忠三郎がそのような決意をしているとはつゆにも思っていなかった。
そしてきっと自分に失望しているのだろうとほぼ確信していた。それまで語っていたこととをむざむざ打ち壊すようなことをしてしまったのだ。嘘なんて可愛らしいものではない。ひどい欺きだ。自分がもしここまで欺かれたら、もしかしたら相手を許すことを諦めてしまったかもしれない。
忠三郎が自分に寄せているその好意そのものに寄っかかってしまったのではないか、そう思うと、あれだけ決意をして語り出したにも関わらず、急に恐怖のようなものまで湧き出してしまった。
「すみません、ただ、知っていて欲しいのです、わたしも貴方と一緒に歩みたい。もちろん、友としてですが…」
自分でも情けないと思う。こんなことを言ったところで、許されようだなんて思わない。それでも、彼が愛した、いや愛そうとした人間はこんな人間なのだということは、どうしても知っていて欲しかったのだ。
忠三郎は長く真顔で沈黙を守っていたが、友、という言葉にぴくりと眉を動かした。しばらく逡巡したようだが、やがて目を伏せて零すように
「友として、それでも構いません…」
と、一言呟いた。
そこにはどれだけの諦めがあっただろう。彼の望むものは何ひとつ与えられなかった。けれども、彼はそれでも右近という人間を求めているのだ。それが友人として明らかに違う方向を向いているとしても。
右近は忠三郎の眼差しを追うことしかできなかった。求められることが、それに応えられないことがこんなに辛いことなどと、考えたこともなかった。

二人は気まずいまま散会し、気まずいまま右近は帰路に着いた。
今更になって忠三郎の悲しそうな顔が浮かんでは消えたが、今となってはどうすることもできない。全てを救おうなどという考えは、理想を掲げながらも誰よりも現実主義な右近には言葉にすら出すのも憚るものだった。
とはいえ、忠三郎のために何もできないわけではないし、何もしないつもりは毛頭ない。しかし右近のできうることなど、忠三郎の思いを前にしてしまえばまるで年端もいかぬ子どものように、もじもじと視線を落とすことしかできないのであった。

外はすっかり陽も落ちた。一雨来るかと思われたが、雨が降るほどの雲でもなかったらしい。風は相変わらず強く吹いている。右近はそこに自分の気持ちを置き換えた。余計な考えを風が吹き飛ばす様を脳裏に描き、ひとつ呼吸をおいた。
どう諭しても、忠三郎の気持ちは変わらないのだろう。しかしそれは右近も同じことだ。
次に会うのは確かに心苦しい。だがその時は、以前と変わらず友として振る舞おうと、そう心に決めた。それしか右近にできうることはないのだ。そしてそれが右近の一番の望みであるのだ。

同じ頃、忠三郎も右近を想い、また違う方面で右近を救い出そうと考えを巡らせていた。
いつかこの想いに右近が気がつき、わかってもらえる日が来るのかもしれないという淡すぎる期待のようなものをそっと心に忍ばせることにしたのだ。
しかし、その期待と右近の想いが交差することはそれ以降一度もなかった。
彼らは最後まで友ではあった。だがそれ以上の道をたどることはなかったのだ。

それが彼らにとって不幸だったのか、幸いであったのかは誰も知らない。