捕まえた虫を綺麗に分解することが好きだった。幼いころの話だ。今はもうしない。
蝶々、カミキリムシ、名前も知らない虫…なんでもバラバラにした。手先が器用だったから、無駄に潰した虫は一匹もいなかったと記憶している。彼らは細部の一部一部すら美しかった。
何の意図はなしに指についた蝶の鱗粉を舐めて見たら、思ったような味はしなかった。舐めた後になって毒だったらどうしようと子供心に心配したのは、今となればいい思い出だ。結局あれは毒ではなかった。毒にも薬にもならない、やたらてらてらとした粉は、仄かに陽の当たる場所の匂いがした。
右近の背中には羽を毟られたような傷がある。
若い頃についた刀傷だという。抉られた肉は全能だという彼の神ですら治せなかったと見える。痛々しく醜いはずなのに、どこか美しく見えて、それが与一郎を苛立たせた。こんなものが美しいはずがないのだ。こんな男が美しいはずがないのだ。
右近は与一郎が惚れた男が心酔した男だった。きっとこの傷すら彼は愛したのだろう。愛したがゆえに、最期までそれを胸に秘めたまま、彼岸へと旅立った。いや、彼らの言葉を借りるのならば、天の国か。彼は知らないままだった。最期まで。何も。
だからこそ見て見たかった。忠三郎が見ることのできなかった景色がどのようなものなのか。
与一郎はそれらを見下ろしてふとそんなことを考えていた。
羽を捥がれてもがく右近を見下ろして。
—–
助けてほしい、と最初に言葉にしたのは間違いなく与一郎だった。
「人を愛するということが私には難しいのです」
与一郎の言葉に右近はわずかに瞳を揺らしたのがわかった。やはりここが右近の秘部か、と確信を持ちながら、それを気取られないようにあくまでも哀れな男を演じる。
昔から何かを演じるのは得意だった。能だけではない、動物の毛皮を被るように与一郎には思い描いた人物を演じることができると自負している。
そして実際にそれを可能にする洞察力も持ちわせていた。今右近が自分に望んでいるもの…彼が意識しないうちに自分に求めているもの…は、か弱い年下の男だ。普段絶対に見せない弱みを見せることで、彼の中の信心と、少しはあるであろう支配欲求をくすぐるのだ。
目を臥せて情けない自分を見せる。内心は笑いをこらえることで必死だ。それを気取られないように唇を歪め、自嘲気味に笑う。
「右近殿にもわかっていただけないことだとは重々承知の上です。私は誰も愛さない。いや、愛せないのです」
右近の視線が何かを計るように与一郎を包む。それはとても気持ちの良いものだった。
もっと、もっとこっちに近付いてこい、とまるで漁師か何かのように与一郎は与一郎で計っていた。その距離を。
「それは本当ですか」
「ここで嘘をつくような男に見えますか、私が」
質問には質問で返す。あくまで相手に主導権を握らせるように見せかけるのだ。実際の主導権を渡すつもりなど毛頭ない。
右近が言葉を選んでいるのがわかる。それをまるで断罪される罪人のようにみつめた。今のところは完璧だ。
「…越中殿がそのような方ではないことは、よく存じております、しかし」
「珠のことですか。あれは……いや、あれも、私と同類でした」
死人に口などない。なんとでも言える。それに…彼女は、最初から自分を愛してなどいなかった。自分に写る歪んだ彼女自身を無邪気に愛していたのだ。子を産み育てていても、いつまでたっても乙女のような女だった。そんな彼女を愛でることが何よりもの楽しみだった。今となっては誰にも言えない。特にこの場では億尾にも出せないたった一つの真実だ。
「同類…なぜそのようなことを」
「哀れな女でした。愛を知らず、それでいて誰よりも愛を求める女でした。あの心は何よりも飢えていた…私も、同じです。愛せぬくせに、愛を求めた。その結果、私は…彼女を生きたまま殺してしまったのです」
これは…本当の事だ。嘘には本当のことを混ぜなければならない。
与一郎は珠子を生きたまま殺した。殺したくて殺したわけではもちろんない。弁解を始めれば長くなる。
しかし結果だけ見れば、彼女の心は与一郎の知らない、手の届かないところに行ってしまった。半分は与一郎自身のせいで、もう半分は、この男のせいで。
「…そんなことは…」
「あなたが一番よくご存知のことでしょう、あれが私と別れたがっていたことくらい。私の耳にも入ってたくらいです。それが許されなかったことも」
これも真実だ。悲しいことに、彼女は伴天連どもにそれを話していたそうだ。人の恥部をはじらいもなく。いったいどれだけの信頼を置いていたというのだろう。与一郎にはわからない。わからないことだらけだ。
勘付かれぬようにしながら視線を鋭くする。自分よりも白い眉間がひくひくと震えていた。図星だろう。それだけはわかる。
「…越中殿に嘘はつけません。ええ、知っていました。結果は…あの通りです。」
「そうですね、死ぬまであれは私の妻だった。それだけのことです。愛していようがいまいが、その事実は変わらない…冷たい男でしょう。だれよりも情が抜け落ちているのです、私という男は」
「そんなことはありません」
右近の頰が、仄かに気色ばんだのを与一郎は見逃さなかった。
「あなたは誰よりも繊細な人、それだけです。自分に情がないだなんて、そんなことを…言うものではありません」
年上らしく説教か、と知られぬようにため息をつく。まあ、右近は与一郎の一回り近く年上だ。ある程度は予想がついた。そんなもの今更怖くはない。なぜなら、右近は知らないのだ。その身に降りかかる愛という毒薬がどれだけ苦しいものかを。
「愛とは、なんだと思いますか」
核心に触れる。右近は答えに窮したようであった。そうであろう。わからないのであろう。その身がどれだけの愛に塗れて生きて来たかを、その愛がどれだけ忠三郎を苦しめたかを!
一方的なものだということは与一郎が一番知っている。どうせ忠三郎のことだ、何も言わずに逝ったのであろう。最期まで忠三郎は右近にとって可愛い盟友とやらであったに違いない。
右近がその愛を万が一でも受け入れれば、どれだけ与一郎は報われたか知らない。
しかし右近はそれをしなかった。忠三郎が望まなかったのは誰よりもわかる。与一郎には全て手に取るようにわかるのだ。自分がそうであったから。
だから、これはただの見当違いな意趣返しであるのだ。それも与一郎が一番よくわかっている。こんな茶番、本当は打たなくてもよかったのだ。それでも与一郎はそうまでして、確かめたかったことがあった。
「愛とは、普遍的なものです。誰にも代え難い感情です。神が与えた、たった一つの、人間への贈り物です」
右近は落ち着き払って答える。しかし彼は…与一郎の見立てが正しければ、愛そのものを疑っている。さらに推測するならば、愛そのものを感じたことすらないのではないのだろうか。
だからこそ、忠三郎のあれだけわかりやすい行動にもなんの反応もしなかったのだ。その毒に気がつきもしなかった。救おうとしなかった。
そしてそれらの見立ては、今までの右近の目の配り、唇の動かし方、咄嗟の肩の揺れが正しいと与一郎に知らせていた。
思った通りだ。この男の、こと愛に関わる言葉には厚みがない。人間の生臭い息遣いが感じられない。信仰についてはひどく人間らしい反応をする右近だが、愛については何一つ説得力のない言葉を吐き散らす。小娘の夢物語を聞かされている気持になって笑いと怒りが込み上げてくる。
「そうでしょうか、愛とは、わたしはただの病にしか思えない。愛とは、人を焦がすほど、憎いと思うほどのものと言われています。右近殿、あなたはおわかりでしょう、私が受けて来たそれらを…おわかりになりますか」
涙を呑むように俯く。これも、本物の与一郎の感情だった。どれだけ忠三郎を思っただろう。どれだけいとしく、いっそ憎く、それでも離れられずにいただろう。
俯きながら目を光らせる。右近の手がすぐそばまで来ている。救おうとする手が。
右近は確かに与一郎を救おうとした。身を乗り出し与一郎の手を掴もうとした。それがどれだけ危険な海かも知っていたはずだった。
そんな右近の腕を掴み、体を無理矢理に捻じ伏せるのは、それこそ赤子の手をひねるよりも簡単なことであった。
まるで毒薬で満たされた海にふたり落ちるように。
どうしても大事な話だと言うので、与一郎の言われるままに通された部屋は随分と狭くて薄暗かった。
その時点で何かを察するべきだったのかもしれない。それでも、もし何かに勘付いたところで、右近に回避することが果たしてできたかというと、難しいことだった。
助けてほしい、などと言われたら、手を伸ばさずにはいられない。そういう生き方をしてきたのだ。今まで何十年も。
その幾十年をひっくり返されたような気分だった。しかし、いつかこんな日が来るのではないだろうかと、右近はどこかで思っていた。それがこんな形でやってくるとは流石に思わなかったが。
どうしてこのようなことをするのだろう、悲しみと困惑とが、裏切られた怒りを置いて来てしまった。
与一郎の形の良い唇が、歯が、右近の傷痕を舐め、そして噛んだ。食い破られる、と、咄嗟に弾き飛ばそうと全力を込めたが、どうしても振り払えなかった。わずかな抵抗に首元に顔を埋めたままの与一郎が笑ったのを確かに感じた。
「助けてはくださらないのですか」
「なんのことです…越中殿、あなたは…どうしてしまったのです、あなたはこんなことをする人間ではありません」
「それはどうでしょう、私のことを全て知ってるような顔をするのはもうおやめになったらどうです?」
与一郎が何を言ってるのかがわからない。この男は何をしているのだろう。それなりに年をとった…醜い自分の体をどうして蹂躙しようとしているのだろう。
それを思うと余計に気味が悪かった。
装いを崩され肌に直に手を突っ込まれる。与一郎の手があまりにも冷え切っていて思わず息を呑んだ。本当にこの男は身も心も冷え切った哀れな男なのではないかとすら思ってしまうくらいだった。しかしそうなると今彼が起こそうとしている行為は…いや考えてる場合ではない。どうにかしなければ。与一郎を止めなければ、今すぐ。
「…やめなさい」
押さえつけられた腕をなんとか持ち上げて与一郎を押し退けようとする。
抵抗は無駄に終わったが。一度頭に上った血が引いてきて少し周りが見えてきた。与一郎は何かに急かされているようだ。それが何なのかは皆目見当がつかないが、説得の余地はあるかもしれない。
「いまやめれば、全て聞かなかったことにします。…与一郎」
そう呼んだのは…もしかしたら初めてかもしれない。少しずつ言葉を紡ぐ。与一郎の手は止まらないが、気にしてはならない。この先の事なんてないのだ。流石にそこまでは与一郎もしてこないだろう。この時は本当にそう思っていた。
「あなたの苦しみはよくわかりました。ですが、それとこれとは話が別です。…自分がなにをしているのか、わからないあなたではないはずです」
その言葉に与一郎が頭を持ち上げ、右近の至近距離で目を合わせてきた。話をする余地はあるらしい、と一瞬右近は安堵したが、その目を見てその考えを即座に撤回した。右近を見下ろす与一郎の目は、右近の知っている彼の目ではなかった。獣の目とも違う、獣より恐ろしく禽よりも無垢な、それでいて何ものも映すことを拒んだような…そんな目をしていた。そしてそれは思わず息を呑むほど、凛として美しかった。
「…そう言えば、やめてもらえると思いましたか?残念ですが、もう引き返せません」
与一郎は再び右近を組み伏せると、首筋への執拗な愛撫をしてきた。まるで獣が獲物をしとめる時のような、猛々しく荒っぽい、それなのにどこか甘だるさのあるそれに右近は次第に飲み込まれそうになる。
体感したことのない感覚に、右近の感覚は支配されていた。もう見るものも嗅ぐものも触るものも、本当にその通りなのかわからなかった。
ただ、口から洩れそうになる得体の知れない声を抑えながら、縋るように言葉を発することしかできなかった。
「……一つ教えてください。なぜこのようなことを…?」
自分でも何故聞いたのかわからない。聞いてもどうにもなることではないのは分かっている。それでも、真実を知りたいという気持ちが、右近にそんな言葉を紡がせた。
「…なぜ、ですか」
高笑いするほどではなかったが、ここで与一郎は初めて本当に笑った。何も知らず組み伏せられる右近を嘲笑った。罠にかかった彼の愚かさを、みじめさを。心から笑った。
彼がどれだけ真実を求めようとも、本当にあったことは右近にはけして通じまい。わからないのだろう、この男には。ある意味で一生言葉が通じないのかもしれない。
それでもなにも教えないというのは酷だろうか。その感情に仏心と名付けるのは違う気がしたが、それに近いものを与えることにした。
「あなたのことを、愛していた男がいたからですよ」
—-
揺らめく灯りとりの炎の影が、右近の露わになった背中を冷たく焦がしている。
右近は既に抵抗を諦めたのか、伏せたままだ。ただ、声を殺しているのであろう、行き場を失った吐息が背中を押して面白いように蠢いていた。
実際に目の前で見た右近の背中は、悍ましいほどに美しかった。年を経て弛緩した皮も、彼の傷を引き立たせる要素にしかならない。
与一郎は右近を貫いたまま、彼の生白い背中にそっと手を伸ばした。
右近が息を吸ったのを確認して、徐に爪を立てる。
「…っ!」
声にならない叫びが、与一郎をいっときの悦に浸らせた。漸く手に入れた。やっと見下ろせた。彼の体を、彼の傷を。与一郎からすべてを奪った、憎い魂そのものを!
笑いが止まらない。くつくつと喉で笑う。それを不気味に思ったのか、右近の肩がひくりと揺れた。それも可笑しくて仕方がない。
ぐちゃり、と音を立ててさらに腰を押し進める。先ほどから右近の秘部から血が滴り、床と与一郎自身を汚しているのがふと気に食わなくなり、もう一度背中に爪を立てた。
「…もう、やめ…っ…」
漏れ出でそうになる甘い声を押し殺しているのか、右近の声がいつもより高い。
それも与一郎をただただ煽るだけになっているということを右近は知らない。
そう、知らない。右近は何も知らないのだ。与一郎は右近を犯しながらその事実をまた嗤った。そして苛立った。無知とは其れ即ち罪である。この体はどれだけ忠三郎を悲しませ、嘆かせ、絶望に打ちのめしたのだろう。そしてそれに引きずられるように、与一郎もまた絶望したのだ。
「与一郎…!」
懇願するように名を呼ばれ、ふっと我に返る。与一郎の爪が右近の背中の皮膚をえぐり、そこには血が滲んでいた。指先に着いた血を舐めた。口を切った時と同じ味だった。どんな人間であっても血の味は変わらないのか。
「痛かったですか」
応えはなかった。どうせ聞いても今更どうにもしてやるつもりはない。
傷は大したものではなかったが、血はしばらく止まらないだろう。傷口から溢れた血を掬い取り背中に塗りたくった。白い肌理の整った肌に血が滲むのが愉しくて仕方がなかった。
もし忠三郎なら彼をどう抱いただろう。
ここにいたることのできなかった忠三郎ならば、どれだけ大事に、どれだけ真摯に、彼の体を労わり恐る恐る抱いただろう。ふとそう思って、体を屈め右近の体をそっと抱きしめてみた。細い体は思った以上に簡単に抱きとめることができた。あっけないほどだった。
もうどのような刺激にも悲鳴しか出ないのだろう。右近は息を大きく吐き、身をよじりながら抵抗したが構わなかった。胸に手を這わせ、力を込め体を引き寄せると右近の体温を感じた。先ほどの血でも思ったが、作り物のようなこんな男でも血を通わせ熱を帯びているのだと今更ながら少し動揺する。
それを気取られないように、嫌がる右近の耳許に口を寄せ、そっと耳朶を噛んでみた。
「ひっ…」
今までになく声をあげ、与一郎自身を締め付けた。それが痛快でならなかった。そうか、耳か、と与一郎は面白がって耳ばかりを刺激してやった。耳朶を舐めてみたり、耳の裏に息を吹きかけてみたり、思いつく限りのことを思うがままにしてみた。いちいち反応を示すのが可愛らしくすら見える。
右近の感覚が耳に向いている隙を突くように、下腹部にも手を伸ばす。
「あ、ぁ…っ」
それに気がついた右近が慌ててその手を払いのけようともがくが、力無い腕に与一郎を阻むことはできなかった。
一度声を漏らしてしまったことで、とうとう我慢ができなくなったのか、泣き声のようなか細い声が突くたびに漏れいでるようになったらしい。年の割に可愛く鳴くものだ、そう思ってさらに腰を深く打ち据える。
そういえば、昔忠三郎に右近のどこが気に入ってしまったのかを聞いたことがあった。忠三郎は散々躊躇った上で、恥ずかしそうに、最初に気になったのは声だ、と答えていた。
声。右近の声は確かによく通り、張りがあり美しい。年を取ってもそれは変わらなかったし、こんな状況になっても変わらない。憎たらしいほどに。貫かれうめく声すら人を惹きつけるのか。そうであるならば、喉が潰れるほど鳴かせてしまおうか。
下腹部を壊れ物のように優しくなぞり、掴み、扱いてやる。右近は首を振って与えられる快感から逃れようとしているようだが無駄な抵抗だ。このまま溺れてしまえ。一方的な愛撫に溶かされてしまえばいい。信仰の空に飛ぶ美しい蝶が冷たい地を這うとき、何を見るのか見ものだ。
羽なんかとっくに喪ってしまっていたくせに。もう二度と飛べないくせに。
それからずっと与一郎は、恋人にするそれのように優しく右近を扱った。艶のある髪を撫で、形よい耳に浮ついた睦言を吹き込み、そっと目を塞いでやったりもした。
右近はそれら全てを否定してきた。それでも繰り返した。まるで利かん坊に無償の愛を示す母親のように。
与一郎が飽きるまで、そんな虚無とも言える行為は続いた。
逃げるように右近が与一郎の元から去ったのは、夜が白みかけた頃であった。
—-
何度もなんども体を洗った。
体を拭こうとする世話好きの小姓の手を払いのけ、自分で洗った。その姿はどうみても異常だっただろうが、気にしている暇すらなかった。
髪から落ちる水滴が右近の肢体を這うたびに、体の芯から震えが襲った。意識すると息が上がる。自然と目が見開くのがわかった。それがすべての視線を感知するためなのか、すべての事柄から目を背けるためなのかはわからなかった。
…戻るまでの道中、誰からも悟られはしなかっただろうか?
唇を噛み締め一つ一つ思い出す。が、その一つ一つさえも、小さな疑念を振り落とすことができないばかりか、より大きな疑いの塊となって右近を黙って脅迫する。
そしてなにより、それらよりも前の…悍ましく、そして、噎せ返る程の甘ったるさを帯びた暗がりでのことが鮮明に脳裏に焼きつき、更にその体の汚れを落とそうと必死になる他はなかったのだ。
なんども冷えた体に水をかける。胸元にいやらしく遺るそれらの痕跡を、なんとしてでも落としたかったが、痛痛しく赤い情事の痕は無情にも水ではその存在を際立たせるだけで、なんの解決にも至らなかった。むしろ、背中につけられた傷に水が沁みて痛みと苛立ちと絶望は余計に増すばかりだった。
悍ましい…悍ましい、悍ましい、悍ましい、悍ましい!
多くの言葉が右近の脳裏を埋め尽くし、それらに引きずられまいと、流れる水の音に紛れて幾たびもつぶやいたが、どうにもままならない。
短い言葉で小姓を呼びつけ、その体を見られないよう必死に身をよじり、水を落とし体を拭いて新しく用意させた衣服に身を包んだ。
あれだけ水をかぶったにも関わらず、小指の爪ほど清まった気がしない。それよりも肌と布が擦れるたびにぞわぞわと背筋が凍るのを覚えた。
周りのもの…家族にさえ、酔いがまわったのか気持ちがすぐれぬという非常に安っぽい嘘を吐き、またその嘘にも嫌悪を覚えながら、右近はまだ太陽が昇り切らないというのに一度睡眠をとった。
幸いなことに、右近のただならぬ様子を見た周りのものたちは、その嘘を疑うこともなかったようだ。日頃から敬虔深く生きていると、こうも信用を得てしまうものなのか。身の裂けるような思いと、自嘲する思いとが右近の思考を支配し、振り切るように無理やり目を閉じた。
目が覚めたのは陽が少し傾き始めた頃であった。悪夢を見てもいいと思って目を閉じたものの、無情なことになんの夢も右近を現実から引き離してはくれなかった。
ふと目に入った外の世界は何も変わらない。右近の身に降りかかった猛毒などお構いなしといった具合で、陽光が軽やかに踊っている。無慈悲にも、無情にも。
もしも自分が昨晩舌を噛み切って死んでいたとしても、この空は変わらなかったのだろうか。
目が覚めて思い出したことがあった。与一郎が行為に及ぶ直前に発した一言。
―――あなたのことを、愛していた男がいた。
小さく口に浮かべ、その言葉を反芻する。右近のことを、愛していた男がいた?自分を愛していた…?誰のことだ。まるで思い当たる節がない。与一郎はいったい誰の、何のことを言っていたのだろう。
思案を巡らせるが答えは出ないばかりか、考えれば考えるほど宵の出来事が脳裏をよぎり、次第に吐き気を催した。
動揺する自分を落ち着かせるために大きなため息をつき、周りに人目がないのを確認すると、着衣を少し寛げ自分の体を確認する。胸元、脇腹、内腿…目を覆いたくなるほどに痕跡は遺っていて、昨晩の出来事が現実のものだと改めて訴えかけるのを見て絶句した。
そして微睡みにつくまでは気にしていなかったが、腰や背中、膝に鈍く痛みが走る。あられもない姿で彼の男を受け入らされ、揺さぶられた結果だとどうしても認めたくはなかったのだが、体は先程からぎしぎしと悲鳴をあげ続けている。
この一夜を忘れるなと言いたげに。
…右近の体を一度貪り、辱めた与一郎の、長くてしなやかな指は、途中から何を思ったか優しいものに変わった。
それまでの荒々しさは一体どこに行ったのかといっそ不安になる程、与一郎は右近の体を愛撫し、慰めはじめたのだ。下腹部をゆるゆると撫でるその指に、恥ずかしさともどかしさを感じて身を捩ったが、どうしてもその手からは逃げられなかった。
喉を鳴らし笑う与一郎に見下ろされ、右近は魂の奥まで暴露された屈辱と羞恥に悶えるしかなかった。
恐ろしいことに、それを受け入れてしまった自分が、ここにいる。
自分が望んでいた、求めていた、そんなことはあるはずない。絶対にありえない。
しかし、だとしたら何故逃げなかった?
いくら与一郎が助けを求めていたと‐‐‐今思えばあれは全て狂言だったのだが‐‐‐そうだとしても、右近には逃げるだけの選択肢が与えられていたはずだった。
…ありえない、そんなこと、あり得るはずはない。昨晩は確かに酒も呑まされた。少しおかしくなっていただけだ。あくまでも、一時的なものなのだ。自分自身に対する言い訳を何度もなんども呟く。また息が上がってきた。少し熱があるのかもしれない。水を浴びすぎたのか…いや、今更もうどうにもならない。
…喉が渇いた。
きつく装いを正すと水を飲みに部屋を出た。
何事もなかったように。
しかし、次第に消えゆく痕と裏腹に、右近の心に残ったしこりは消えることがなかった。
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