出立の日 会田ルリのそれまでとこれから

会田ルリは困っていた。困ると言うほどの事ではないと自分でも思う。しかし困っていた。思い返せば今までの人生の殆どは何か知らかで困っていたと思う。もうすぐ古希だというのに恥ずかしいものだが、うっすらとした困りごとはいつまでもルリに降りかかった。
そもそものきっかけは、何の気はなしに受けた健康診断でうっかり肺に影が見つかったがばかりに、なずな総合病院に検査入院することが決まったことだ。
会田ルリは困っていたし、憂鬱だった。なずな総合病院は隣町の比較的新しい病院なので、そこに問題も不安もない。しかしあの病院には会いたいけれども会いたくない人がいる。別の病院をと思ったが、県を跨いだ大きな病院しか空いていないと聞いて諦めた。ルリを案じてわざわざ近くに住んでいる息子夫婦にこれ以上迷惑はかけられない。ルリの個人的な困りごとはあっさり流れてなかったことになった。
とりあえずルリは目の前のことを片付けようと思った。ちょっとした現実逃避だ。まずは近所の町医者に診断報告書を持って行くことにした。ようやく冬が終わり、陽射しに暖かみが感じられるようになった頃。ルリの家から徒歩十五分圏内にある末内科医院は患者もまばらで、平和そのものだった。受付スタッフに用事を伝えると、すぐに診察室に通してもらえた。
窓からは柔らかな日差しがルリの一抹の不安と懸念を笑っている。確かに笑ってしまうような理由ではあるのだが、それが明るければ明るいほど、ルリはより一層眩しくて困ってしまう。
末内科医院はルリのかかりつけの町医者である。そして院長の末高良医師はルリの幼なじみでもある。少し口は悪いが、なんでも相談できる良いかかりつけ医だ。
「病院から連絡はもらったよ。で、入院はいつなの?」
「それが来週の月曜日からで……もう、急なことでびっくりしちゃって……」
「そうかい……まあ、こればかりは早く精密検査をすることに越したことはないからなぁ」
末医師は仰々しく眼鏡をかけ直すと、ルリが持ってきた報告書を見ながら唸った。目鼻立ちの神経質そうなところは昔からだ。昔のS市は今以上に田舎だったが、その中でも珍しい都会的な彼の風貌に、憧れをもって接する女子が多かったとルリは記憶している。
「それにしても相変わらず向こうの医者ってのはみんな雑な字だな。読むのに苦労するんだ。こっちはもう七〇近いっていうのに……」
そう言えば末医師は書道も嗜んでいた。それに剣道も。医師一家に生まれ育ち、文武両道で顔もいいとなれば、そりゃあモテるというものだ。実際彼はこの医院を継ぐまで東京で暮らし、そこで知り合った綺麗な女性を妻としていた。過去形なのは、彼女はこの田舎でも都会でもない中途半端なS市の暮らしに耐えられなかったようで、結婚して一〇年もたずに東京に戻ってしまったからだ。
そう言う噂はすぐに広まる。それでも末医師はこの市に留まり続けて診療を続けている。彼がどう思っているかは聞いたことがない。
「君の旦那さんのときもそうだったよ。僕はどうも病院に勤務している医者ってのは苦手だね」
「そう……もう一〇年も経つのによく覚えているわね」
「……忘れんよ、忘れられないね」
一〇年前に他界したルリの夫・和孝は、末医師と親しかった。よく休日になるとゴルフに行っていたのが懐かしい。互いに数少ない友人だったのではないだろうか。もう一〇年、まだ一〇年というべきか。なんとなく遠い目をしてしまう。
「いつも飲んでいる薬とか、塗り薬ってどうすればいいのかしら」
ルリの言葉に末医師はこちらに視線を投げる。やはり年は取ったな、と思う。それはルリもそうなのだが。
「ああ、そうだね。あとでまた病院に電話するよ。ついでにこの報告書を書いた医師にもちょっと文句を言ってやろうと思う」
多分だが、彼は本当に文句を言うのだろう。そういう人間だ。そうしてルリは家に帰ることになった。陽射しはいまもまだ眩しい。困った。とりあえず今日はカレーにでもしようか。

末高良はS市でも有名な医者一家の長男だ。上に姉が五人いて、やっと生まれた長男だったという。姉たちに囲まれて生活していたからか女慣れしていた。そういうこともあって、いつまでも男慣れせず引っ込み思案だったルリにも自然体で話しかけてくる数少ない家族以外の男性だった。
スーパーで食材を眺めながらルリはふと思い出した。ルリたちが中学生の頃に、既に東京の高校に行くことが決まっていた高良とこんな話をしたことだった。
「僕なんかよりも君みたいなひとこそ東京に行くべきだと思うがね」
「どうして?」
「僕は嫌々東京に行くのさ。それが修行だからね。君のような子が都会に出ることで、どうなっていくのかをちょっと見てみたいな」
それになんて返事したかは覚えていない。ぼんやり思っていたのは、彼の少しだけ横柄な態度に惹かれる女の子たちの気持ちはさっぱりわからないと言うことだった。
ルリはそのころ、恋をしていた。誰にも言えなかった恋だ。半世紀以上前、ルリがまだ旧姓の嶋田ルリと名乗っていたころの話。
ルリが恋していたのは、隣のクラスの片山万里子という女子生徒だった。溌溂とした太陽のような女性だった。特別優等生でもなければ不良でもなかったけれど、クラスでも目立つ方の女子生徒だった。その笑顔は誰にも平等に降り注ぐ初夏の陽射しのようだった。そんな彼女の笑顔を独り占めしたいと思うようになったのはいつからだっただろう。そんな彼女の笑顔に若干の後ろめたさを感じるようになった頃だろうか。
彼女の髪型をまた印象深く覚えている。少し茶色がかった髪を後ろで綺麗にまとめたポニーテールが、どこか彼女らしかった。ルリは万里子と中学二年生のころに少しだけ親しくなり、それから一緒に昼食をとったりしていた。1960年代の話だ。世間が高度経済成長に沸き、オリンピックだ、ビートルズ来日だと、とにかくなにもかも大騒ぎする時代だった。
万里子には芳川静子という幼馴染がいた。名前の通り物静かな女子生徒で万里子とはタイプが違っていたが、それが逆によかったのだろうか、クラスは違ったがいつも一緒にいた。
ルリは静子に明らかに嫉妬していた……と思う。明確にそれが嫉妬だったと気がついたのは後になってからなのだが、万里子の隣で笑っている静子になれたらどれだけ幸せか日々夢想していた。結局万里子とはそこまで仲良くなれずに、中学校を卒業した。
卒業式の日のことはよく覚えている。帰り道に、空き地で万里子と静子が一緒にいるのを見たのだ。二人は焚火をしていた。小さな焚火の前で、卒業証書を握り、泣きながら笑っている二人を見て思ったのだ。この二人の間には到底入れないし、入ったらいけないのだ……と。静子の進路は知らないが、万里子は地元を離れるらしいと風の噂に聞いた。だから、きっと最後の思い出作りだったのだろう。
それからルリは高校に進学し、なにごともなく短大を卒業する。しばらく事務員として仕事をしていたが、お見合いで和孝と結婚した。特に感情はなかった。周りも結婚しているし、親の勤め先の伝手だと言うからルリに断る選択肢はなかったと今なら思う。
結婚してから六年で長男である達夫を産んだ。それなりに生活してきた。そう思っていた。夫の和孝は寡黙だがルリに依存も干渉もするタイプではなかったし、息子の達夫もやんちゃだったが優しく育った。周りからは見習いたい家族だとよく言われた。ルリはそう言われるたびに、どこか心の奥をきりきりと爪で引っ掻かれるような気がした。だがそれはなかったことにしていたし、いまさら言ってもどうにもならないと諦めていた。そうして達夫が大学を卒業し、気が付いたらとっくに五十路を越えていた。
自分の人生とは何だったのだろうと思い悩む暇を、運命は待ってくれなかった。達夫が独立して仕事が軌道に乗るのを見届けるように和孝は膵臓がんであっという間にこの世を去ってしまった。還暦を目前に、ルリは独り身になってしまったのだ。
ざらざらと流れてくる記憶はすべてどこか手触りの悪いものだったが、むしろそれが味というものだろうか。思うようにならないのが人生とは言うが、思うことすらなかったのかもしれない。
結局カレーを作る気力もないことに気が付いたので、総菜を適当に放り込んで家に帰った。昔なら絶対に考えられないことだが、いまルリは一人なのだから、何をしてもいいのだ。この生活にも慣れた。一人でいることは、苦痛ではない。
家に帰り、窓辺にある和孝の遺影に手を合わせる。写真が全くなかったので、結局社員旅行の集合写真を切り抜いたものだ。至極つまらなさそうな顔をしている。旅行を好かない人だったから、きっと苦痛だったのだろう。
食事を済ませて、いつものルーティン通りドラマを見てその日は寝た。今期はありきたりな恋愛ドラマばかりだ。

和孝がこの世を去るまでの二ヵ月間は忘れられないと思う。何せ夫婦そろって健康だけが取り柄のような状態だったから、慣れない病院での生活には四苦八苦した。ルリは毎日病院に通い和孝を見舞った。病院がルリの生活の中心になっていった。非日常が日常になり、ルリは自分の人生を省みることすら逆転的に非日常になったのだ。
そんなときだった。ルリは一人の女性看護師と出会う。それはまさにそれまでの日常を取り戻すような出会いだった。困りっぱなしで決着をつけていなかったことがすべて、ルリの人生として降りかかったといっていい。
あれは四月の上旬だった。和孝が入院して一か月ほどたったころで、外は桜が咲いていたと思う。なにせ桜などにも目もくれず一生懸命生きていた。来年の桜は二人で見られないかもしれない……なんて独白が入るのは、小説やドラマや映画だけの話だ。実際はそんな余裕なんてどこにもなかった。
「牧原アヤです、新人ですがよろしくお願いします」
……ルリはアヤを見た瞬間、思わず叫びそうになった。アヤはまるで万里子の生き写しのような、快活そうな茶色の髪をポニーテールにした女性だったのだ。何よりずっと忘れていた、万里子の声そのものだった。思わずぽかんとアヤの顔を見てしまったものだ。
「え……ええ、よろしくお願いします」
「すみません、私、変な顔していましたか」
アヤが不安げにそう言う。確かに少し緊張しているようだった。和孝も怪訝な顔してルリを見るので、慌てて否定し手を振った。
「いえいえ、ごめんなさい、知り合いに似ていたものだからびっくりしてしまって……夫のこと、よろしくお願いします」
知り合い、とルリは心の中で繰り返す。知り合い以上のなにものでもないのだが、実際口にすると、瘡蓋をはがされるような痛みが襲う。知り合い以上になりたかったが、それももう叶わない。万里子だってもう還暦前のおばさんになっているだろうし、きっとルリのことなんて忘れている。
そう、忘れているのだ。当然、ルリだって忘れていなければならない。だが、ルリは普通のおばさんになったこの年になってなお、心のどこかで万里子という思い出を片時も離すことがなかったのだ。今は隣に和孝がいるのに。
ルリのそんなうっすらとした悲しみをよそに、その言葉に安心したのかアヤはにこりと笑う。
「この春に看護学校を出たばかりなので、むしろ教えていただくことが多いかと思います。こちらこそよろしくお願いします」
還暦を前にして、ルリはアヤに心を奪われてしまったのだ。このときアヤは三十八歳だった。
なずな総合病院には敷地内に売店代わりのコンビニと、コの字型の建物にぐるりと囲まれた中庭がある比較的新しい病院だ。
もともとこの場所は別の病院があった。ルリはそこの産科で達夫を産んだのだが、当時は野戦病院のような古くて暗い病院で、生まれたばかりの達夫を抱えてびくびく怯えていた苦い思い出がある。薄緑色の壁に安い蛍光灯がちらちらしているのがえも言えず怖かった。なんとなくその記憶が強くて、小児検診はそれこそ小児科もやっている末高良医師の医院に行っていたほどだ。あまり評判も良くなく、気が付いたら更地になっていた。そしてなずな総合病院として生まれ変わっていた。
だが先述の通りルリも和孝も、そして達夫も病院というものに縁遠かったため、この新しく生まれた病院というものの世話になることはなかったのだ。
はあ、とため息をつく。こんなはずではなかったと思ってしまえば、全てがこんなはずではなかったことだ。病気のことも、夫婦関係のことも……結婚したことも。なんとなく万里子の顔が浮かんだ。ああ、あの頃に帰りたい……なんだか急にどうでもよくなってしまった。帰りのバスと逆方向のバスに乗って街の方に出てしまおうか。もういっそ、新幹線や飛行機にでも乗って、ここではないどこかに旅立ってしまおうか。そういえば、今まで生きてきて飛行機に乗ったことがなかった。でも、飛行機に乗ってどこに行くと言うのだろう。間近に迫る夫の死を前に、自らの人生も儚く思ってしまう。そんなときだった。
「ルリさん」
中庭のベンチに座って遠い目をしていたルリに声をかけたのは、私服姿のアヤだった。白いシャツにデニムパンツ、黒い薄手のカーディガンを羽織った飾り気のない装いが、かえって彼女の魅力を増している気がした。
あ、変なところを見られた。そう思ってルリは顔を強張らせる。本当にアヤの声は万里子に似ていると思う。この懐かしい暖かな声を聴くと、胸の奥が騒めくのだ。
「ま、牧原さん」
「名前、覚えてくださったんですね、嬉しいです」
アヤはそう言ってルリの隣に座った。少し、ドキドキする。いやいや何を考えているのだ。そう思うが、思えば思うほど変に意識してしまっていけない。そんなルリの心境を知らず、夕方五時のチャイムが鳴る。日が伸びてだいぶこの時間になっても明るくなってきた。何か話さなければ。そう思って出てきた言葉は呆れるほど凡庸なそれだった。
「お仕事終わりですか?」
「そうなんです、勤務初日なのでちょっとくたびれちゃいました」
素直にそう言える彼女は、きっといい看護師になるのだろうなと直感的に思った。あまり看護師との触れ合いはないのだが、なんとなく、だ。
「でも皆さんがとても優しいのでほっとしました。私、一般職からの転職組なので、年齢とか……その、気になっちゃって。でも気にしていたのは私だけだったみたいです」
そう笑うアヤがまぶしい。そういえばルリは短大を卒業した後に数年だけ一般企業で事務員をしていたが、結婚してからはずっと専業主婦だった。時折、近所の付き合いで掃除などのボランティアをすることはあったが、引っ込み思案で友人の少ないルリはあまり馴染めないでいる。
アヤもいろいろあってこの仕事を選んだのだろうが、溌溂と働く姿はそんなルリとは真逆だ。
「私も牧原さんみたいな看護師さんがいてくださってほっとしています……夫も私も、病院知らずだったもので……」
「そうなんですね……きっと和孝さんも元気になりますよ。今は頑張りすぎない感じでやっていけたらと思っています。ルリさんが倒れたら大変ですから」
白衣の天使という言葉をあまり実感したことはなかったが、ルリは本当にこの時アヤが天使に見えたのだ。夫のことだけでなく、自分の心配までしてくれるなんて、素晴らしい人だと思った。そんな人を、かつての初恋の人に似ていると言う理由でなんとなく親近感を覚えていたのが少し恥ずかしくなってくる。
「あ、バスが来た。ルリさん、駅前まで行きます?」
「いえ、私は反対方面なんです」
「わかりました。では私はここで!声かけちゃってごめんなさい、また明日!」
「はい、また明日」
アヤはベンチから中庭前のバス停に走っていく。その後ろ姿を眺めながら、ルリはなんとなく胸が締め付けられるような気がした。夕方のほの暗さに染まっていく空の下、少し生温い風に晒されルリだけがバスを待っている。かつての初恋の相手と、これから恋人になる相手、二人の女性の出会いをルリは深層心理でなんとなく察していたのかもしれないが、この時はまだ、なにも知らないただの初老の女性だった。
駅前とは反対方向の……住宅街へ向かうバスがやってきたので、ルリは立ち上がる。バスのライトに照らされ、ルリはふとこう呟いた。
「私、牧原さんに名前を教えたかしら?」
和孝が亡くなる二週間前の話だ。

……アヤはルリに声をかけたことを、その二週間後に後悔することになる。四月下旬の夜半、和孝の容態が急変した。ちょうどその日は入職して二回目の当直だった。慣れない業務の中で、アヤは先輩看護師について回るのでやっとだった。
震える指でカルテの電話番号をなぞりルリと彼女の長男に連絡をしたが、何を話したかは覚えていない。和孝をICUに移送したあとの病室で、アヤはルリの小さな背中に何も言うことができなかった。
回復が見込めない患者の家族に、元気になるなんて簡単に言ってはいけない。そう看護学校で教わったはずなのに、初日でそれを破ってしまった。それの報いのようにいまルリは肩を落としている。一生懸命言葉を探した。だが沈黙は容赦なくアヤを責めた。
アヤにとって会田夫妻は入職日に最初に挨拶をした患者とその家族だ。静かだが仲睦まじそうにしている二人は微笑ましかった。ナースステーションでカルテや情報書の見方を教わっている時に、和孝の詳しい病状を知った。あんなに穏やかな二人がこんな運命を背負うなんて、きっと思ってもいなかっただろう。カルテには家族の歴史も詰まっている。もちろんルリの名前も書いてあった。
なんとなく覚えていたのだ。患者を贔屓してはいけないとわかっていたが、簡単な名前だったし、どうしても脳裏に焼き付いてしまったのだ。まあ、それだけの理由ではないのだが。
……ICUから出てきた担当医がルリと長男の達夫に状況の説明をしている。先輩看護師に連れられてアヤはナースステーションに戻った。珍しくナースコールも鳴らず、目の前の病室のいつも騒いでしまう患者も寝入っているようだった。まるで何かを察しているようだ。
「当直二度目で急変は早い方ですよ」
小柄でくりくりした目の先輩看護師、清水知紗はそう言って労うようにアヤにコーヒーを渡した。彼女はアヤより年下だが、看護師歴十年以上の大先輩だ。確かこの病院ができた時に新卒で入ったと言っていた。可愛らしい見た目とは裏腹に陰では鬼軍曹と呼ばれているらしいが、まだアヤはその所以を知らない。
「でも牧原さんが早めに経験できてよかったです。こういうのって、実習とは全然違いますから」
「そうですね……」
なんとなくぼうっとしてしまう。いかんいかん、そう思って頭をふるっていると、知紗は笑って立ち上がる。
「私、巡視に行ってきます。後でこういう時の記録の書き方を教えますから、まあ休んでいてください」
「……はい……」
普段なら、自分が巡視をすると言うのだろう。でも、立ち上がれなかった。知紗がナースステーションから出ていくのを見送って、アヤは視線を床に落とす。
なんだか、思っていた世界と同じような、違うような、そんな気がする。思い切って飛び出すように会社を辞めて、看護学校に入って、就職活動をして、気が付いたらここにいる。あっという間だった。確かに自分の意思で選び取ったはずの人生だ。順風満帆とは言わないかもしれないがこうして先輩や患者に恵まれている。充実した日々だろう……傍から見れば。だがその実感がない。というか、それがわかるまでに達していないと思う。
はあ、とため息をついた。ただがむしゃらに頑張れば、報われると思っていた。もちろんそんな甘い世界ではないと頭ではわかっていたが、心のどこかで期待していたのかもしれない。そのがむしゃらさがなければ、この年になって全く畑違いの仕事をするために看護学校に入り直すこともなかったのだ。否定はしたくない。患者に寄り添い、看護を通して彼ら彼女らの人生を見た。入職してまだ一か月もたっていないが、まるで人生を何度もやり直したような気分だ。会社員時代の新人とはまた違う世界観の違いに眩暈がしそうになる。
『きっとアヤちゃんはいろんな人を助けられるよ』
何故か看護学校時代にフラれた恋人のことを思い出す。何がいけないのかわからないが、それからアヤは恋人がいない。
「あの……」
聞き覚えのある小さな声がして、アヤははっと顔を上げる。
「あ、会田さん」
「お仕事中ごめんなさい、主人も少し落ち着いたみたいなのですが……長男は明日も仕事だから帰したんですけど、私はちょっと心配なのでここにいてもいいでしょうか」
「ええ、もちろんです……そういえば、談話室にそういうときのための……」
そこでアヤは言い淀んでしまった。ルリの肩が震えている。きっと不安で押しつぶされそうなのだろう。あの若い息子は帰ってしまったと言うし、こういうときに彼女を一人にしていいものだろうか。誰か一人を特別扱いしてはならないと教わってはいる。でもこの場面は……。
「牧原さん?」
「……いえ、ここにいましょう。椅子ありますからこっちへどうぞ」
そう言ってアヤはナースステーションのカウンター横にある扉を開いて、入るようにルリを促した。
「え、でも……」
「大丈夫です。だって、談話室だと一人になっちゃうじゃないですか。私でよければお話聞きます」
そう言うと、ルリは心底ほっとしたような顔をして、アヤの隣に座った。夜勤者用のコーヒーをマグカップに注いで渡す。今はそれしかできない。本当ならばもっといい方法があるのだろう。しかし今のアヤにはこれしかできない。カップを手にしたルリはしばらく黙っていた。アヤも、なんとなくそれを見守っていた。還暦前だと言うのにルリは若い。本人がそれに気が付いているかは別として、まるで少女のような顔をするときがある。先ほどもそうだった。なんだか年上に見えない。守らなければと思わせる何かがある。
ナースステーションの置時計が午前一時を告げる。ルリが少しずつ話し始めたのは、夫婦の思い出話だった。
「……主人とはお見合いでした。二回目の顔合わせではもう結婚の話が出てきたので、あまり互いのことを知らないで結婚したんです。ああ、でも今もそうかもしれないわ……私、あの人のこと何も知らない……」
ルリはどこか遠い顔をして、か細い声でこう言う。
「そのせいか……悲しくないんです……私って、非情なんでしょうか」
そんなこと、ないですよ。
アヤはもちろんそう言うつもりだった。だが、言葉が出てこなかった。非情なはずがないのだ。彼女の話ぶりを伺うにそこには確かに愛情があったはずだ。暗い病院の明るいナースステーションで、二人は黙ってしまった。ひとたび気まずい空気が流れると、それらは無邪気にナースステーションを走り回る。
それをかき消すように向こうから足音が聞こえてきて……振り返るとそこには知紗が目を丸めて立っていた。
「あれ、会田さん?……牧原さん、これはどういうことです?」
「え、いや、その……談話室だと会田さん一人になっちゃうし……」
「どんな理由があっても、個人情報もあるんですから患者さんの家族とはいえステーションに入れてはだめですよ」
理路整然と話す知紗は、間違ってはいないのだろう。彼女は正しい。でも、ルリを一人にできなかったのは事実だ。
「……はい」
そう言って頭を下げていると、知紗はその低くなったアヤの耳元に小声でこう言った。
「でも今回は特別です。むしろよく引き止めてくれました」
「え?」
どうしてか、と問おうとしたその時、内線が入った。

それからルリはなずな総合病院に行っていない。いや、行ってはいるのだが、アヤに会っていない。和孝の通夜・告別式は折しも雨の中だったということは覚えている。斎場の葉桜が濡れていた。喪主はルリがつとめたが、達夫がルリを気遣って相当頑張ってくれた。
告別式の後にお礼の品をもって、達夫と二人でなずな総合病院に行った。心づけは受け取れないと最初は断られたが、達夫がどうしてもと頭を下げて、やっと受け取ってくれたと後で聞いた。その場にいたはずなのだがよく覚えていない。
はっと気が付いたら、家に一人だった。誰もいない二階建て3LDKの戸建ては、ルリにはあまりにも広かった。そうか、一人なのか。そう思ってリビングの窓を開ける。
外は雨上がりの空が広がり、新緑の匂いがした。かなしい気持ちがそこに確かにあるはずなのに、なんでそれ以上に、アヤに会えなかったことを残念に思っているのだろう。どうして寂しい筈なのに、心のどこかでほっとしているのだろう。
そうしてルリは一人で生活を始めた。思えば初めての一人暮らしだ。何時に起きてもいいし、何を食べてもいいし、何なら食べなくてもいい。洗濯物も最低限、三日に一度まとめて洗うだけになった。ああ、自由だ。このころ自分が老眼だと気が付いたので、遠近両用の眼鏡と手元のものを見るための眼鏡型ルーペを買った。そして若いころに買ってそのままにしていた本などを読むようになったので、あまり寂しいとは思わなかったのはそう言うところにも理由があるのかもしれない。
しばらくして、達夫が家にやってきた。一頻り一人暮らしのルリを心配してくるので、あなたの仕事はどうなのとたまには母親らしいことを言ってみたりした。県内の大学卒業後、東京の出版社で働いているこの一人息子が心配ではないわけではない。反抗期だってちゃんとあったし、和孝やルリと衝突することもあった。だがそれも、今の関係性を作るうえで必要だったのだといまさら思う。
ルリに代わって皿を洗う達夫が、何かを言いたげだ。昔からそうだ。彼がルリの家事という仕事場に上がり込んでくるときは、いつも何か大切なことを言いたい時なのだ。例えば小学生の時。あのときは百点満点中で五点のテスト結果を告げるときだったっけ。あとは中学生の時。あのときは学校に行きたくないと言っていた。一週間休ませたら何事もなく登校を再開したが、一瞬ヒヤリとしたのを覚えている。
ルリがそんなことを考えつつ、ああ、息子は大きくなったんだなと少し感慨にふけっていた時に、達夫はやっと口を開いた。
「……母さんに紹介したい人がいるんだ。来週末、連れてきてもいいかな」
なんとなくそんな気はしていた。というか、たぶんこの年あいで言ってくることと言ったらそれくらいだろう。そうか、大きくなっていたとは思ったがそんなに大きくなっていたのか。
「ええ、連れていらっしゃい」
よく考えたらもう達夫もいい年齢だ。なんだかんだ文句を言いながらも働いているし、病気をしているわけでもない。今どきの婚期というものはわからないが、十分に可能性はあるだろう。というか自分が今の達夫の年齢だった時はもう子どもを産んでいたのだから何も可笑しくはない。
どんな女性を連れてくるのかしら。こういう時に母としてどんな格好をすればいいのかしら。ああ、こういう時に年の近い似た境遇の友人がいればいいんだろうけれど……と少しだけ自分の友人を作る才能のなさにため息が出たが、週末になってその考えはまったく違っていたことをルリは思い知った。
「こんにちはルリさん、エマ・バルケネンデといいます」
達夫が連れてきたのは、背が高く目鼻立ちのはっきりとした金髪のオランダ人女性だった。聞けば翻訳の仕事をしているとかで、ネットで知り合ったのだと言う。
時代が変わっているとはうっすらテレビで見た気がしたが、まさか自分の息子でそれを体感するとは思わなかった。とっくにグローバルな世界とやらは来ているのだろう。こればっかりは友人がいても想定できなかったな、と思ったものだ。
エマはルリを前に臆せず、かといってずけずけと入ってくることなく接してくれた。ルリも最初だけは多少驚いたが、エマの人柄の良さに次第に表情を綻ばせた。
喪中ということもあり、二人の結婚は翌年になった。オランダからエマの親族を迎え入れて、結婚式は東京のホテルで挙げた。新居はルリの住むS市に越すことになった。気を遣わなくていいとルリは言ったのだが、私にとっての日本のお母さんはルリしかいないから、とエマに言われて今に至る。日本のお母さんという言葉が少しうれしかった。娘が欲しいと思ったことはそこまでなかったが、この関係なら娘がいてもいいなと思ったのだ。
ちょくちょくエマはルリの家に遊びに来た。彼女はルリの知らないことをさりげなく教えてくれる。嫌味ったらしくないから不思議だ。エマの無邪気な笑顔の賜物だろうか。なんとなく、達夫がエマに惚れた理由もわかった気がする。ルリですら少しドキドキするのだから。
それにしてもエマは達夫のどこを気に入ったと言うのだろう。エマより年齢も下だし、身長だって低い。顔も……和孝に似て四角い顔で、目の小さなところなんかは母親としてはちょっとかわいいと思うのだが、他人の女性が恋愛対象に選ぶかと言ったら微妙だ。それはその年のクリスマスに明らかになった。
あのクリスマスは楽しかった。エマと達夫の新居に招待され、少し贅沢なパーティをした。オランダ料理をはじめて教えてもらい、ルリが日本風にアレンジしたものは会田家の鉄板レシピとなった。新居のキッチンはアイランド式のシステムキッチンだ。ちょっとうらやましい。
「エマさんは達夫のどこがよかったの?」
思い切って聞いてみた。エマはニッコリ笑ってこう返した。
「達夫さんはね、わからないことをわからないって言ってくれるし、それにわからないことでも嫌な顔しないの。本当にすごい人。世界で一番尊敬してます!」
あら、なんだか嬉しい。勿論、それは達夫が自ら得た人徳なのだが、それを摘まずにいられた自分も褒められた気がした。よく和孝が達夫に、世の中のすべてを自分の先生と思いなさいと……そう言っていたのを思い出す。黙って聞いていた達夫が恥ずかしそうにしている。いい話を聞いたお返しに、ルリは時間がなくても簡単に作れるレシピをいくつかエマに渡した。
「ママ、あのね……」
だからだろうか、エマが妊娠した時にその話を誰よりも先に知ったのはルリだった。達夫に連絡し、大事な話があると言って呼び出したルリ宅で、何かやらかしたのかと不安げな顔でやってきた達夫の顔は今でも忘れられない。
「てっきり最近仕事が忙しいから、離婚を切り出されるのかと思った……」
「そんな話だったらママの家でわざわざ言わないでしょ」
翌年、エマは女の子を出産した。茉莉と名付けられた初孫の名に何も思わないわけではなかったが、祖母としての第一歩を穏やかに進めることができた。それから年を重ね、温かな関係は壊れることなかった。それはルリが何も言わなかったからだと思う。
しかしそうして守ってきたそんな仲だからだろうか。いや、達夫の仕事の都合もあるからではあるのだが、なずな総合病院に入院が決まったときも、達夫より先にエマに相談した。ただ、アヤのことはどうしても言えなかった。
ルリはあの溌溂とした表情も、暖かなところの匂いのするような声も一秒すら忘れられなかった。万里子との思い出と沿うように、それらは淡くなっていった。会いたくない気持ちは会いたい気持ちを少しだけ凪いでいく。会えなかったらそれはそれで悲しいが、それによってほっとしてしまう自分も想像できてしまって嫌だ。
しかし、よく考えたら十年もたっているのだから……あまりこういうことを考えてはいけないのだろうけれど、アヤだって辞めているかもしれない。それにあの病院にいたところで、ルリの事なんて忘れているにちがいない。それはそれで悲しいが……まあ、考えていても仕方がないのだ。入院準備に身が入らないのは、病気だけでは言い訳ができなかった。いっそこれは治らない病気で……和孝のようにあっという間に……と思わないこともない。息子家族の顔が浮かび、そんなことを考えてはいけないと思うのだが、ルリの想像は増していった。

入院当日、達夫の代わりにエマがルリを病院に車で送ってくれた。車内ではエマが最近追っかけをしていると言う男性アーティストの歌声が流れている。
「大丈夫、ママは運がいい人だから」
「……運、いいかしら……」
運が良かったと思ったことはあまりないかもしれない。まあ、不便なく生活できていることは運が良いのだろうけれど、あまり幸運だとは思ったことが無かった。
「バッチリ強運!」
楽しそうにそう言えるエマが素直に眩しい。まさか達夫が国際結婚するなんて思ってもみなかったが、エマのこういうところがいいのだろう。男の子は母親に似た人を好きになると言うが、我が家ではそうではなかったと言うだけの事だ。引け目を感じる理由にはならないはずだし、喜ばしい事ではあるのだが、どこか自分の若いころと照らし合わせてしまう。
「そういえば、ママにスマートフォンを買ったって達夫さんが言ってましたけど、なにかいい物見つかりました?」
「ああ……そういえば、これ、病院で使えるのかしら」
そういってルリは鞄から小さい箱を取り出す。便利だとは知っていたが、いまいち何が便利なのかよくわからず乗り換えに至らなかったルリだったが、この度ついにスマートフォンデビューを果たした。なんとなく取っつきづらくて箱に入れっぱなしのまま持ち歩いている。
どれがいいかなんてわからないから、電話とメールが出来ればそれでいいと達夫には伝えたが、気が付けば若者が持つような最新機種のスマートフォンを選んでいた。茉莉やエマも同じ機種だから教えやすいと言う事だった。
まず小学生の茉莉が同じものを持っていることに驚きを隠せなかったが、なんとなく孫と同じ機種を持つのは嬉しい。茉莉はブルー、エマはシルバーの機種だと言うので、ルリは残りのゴールドを選んだ。ルリには派手だと思ったが、どうせケースに入れるのだからと押し切られたと言ったほうが正しい。
「多分電話は談話室でしょうけど、メールとかなら病室でも大丈夫なはずです。あ、あとでライン教えます」
そうこうしているうちに、車はいよいよなずな総合病院に到着する。受付をして、少し緊張して待合室のベンチに座る。ああ、懐かしい。和孝のころと特に何も変わっていない様に見える。一階は受付と精算と外来があって、二階から上は病棟だ。たった二ヶ月しかいなかったが、まるで住んでいたかのような錯覚に襲われる。
待合のベンチに座って、エマにいくつかアプリを教わったが、よくわからない。ガラケーのように押せばいいわけではないので、これは家でもう少し予習をしてくるべきだったなと思ったが、よく考えたら教える人と同居していないのだからそれは無理な話しだった。あちゃあ、とエマと途方に暮れていると、後ろから声が聞こえた。
「……あれ、もしかして……ルリさん?」
その声はルリを現実に引き戻すとともに、過去の世界からすっと飛び出してくるような感覚を与えた。目の前には牧原アヤが立っていた。あのころと変わらない、茶色がかった髪をポニーテールにして。
「牧原さん……お、お久しぶりです」
「お久しぶりです。お見舞いですか?」
「……いえ、私が入院する事になっちゃって……」
「入院! そうなんですか、もう受付してます?」
そういってアヤはエマを見る。あれ、とルリが思ったのは、たいていの人はエマを見ると明らかに通じる言語を探った顔をするのだが、アヤはそういった顔をせずはっきりとこう言ったのだ。
「こんにちは、看護師の牧原です。まくしたてちゃってすみません……日本語と英語だとどちらが会話が早いですか……?Which is more appropriate to talk to you, Japanese or English?」
その言葉を聞いてエマは少し驚いたようだが、いつもの朗らかな笑顔でこう言った。
「日本語の方が嬉しいです。ママの前ですしね。私はエマ、この人の義理の娘です」
「ああ、あの息子さんのパートナーさんなんですね、宜しくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします」
そういって互いに深々とお辞儀をする。ルリもつられて頭を下げてしまった。
「会田さん、会田ルリさん。窓口へお越しください」
受付が名前を呼ぶので、それじゃあね、と手を振って別れた。通された病室は五一二号室。二人部屋だったが、今は空いていると言う。多床室でもいいとルリは言っていたのだが、内心はこのほぼ個室の状態に安堵していた。同じ病室の人と話が合わなかったらどうしようと言うのも引っ込み思案のルリの悩みの一つだったからだ。
「ここ、ナースステーションの目の前ですね」
「あら、本当だわ」
ナースステーションを見ると思いだしてしまう。和孝がこの世を去ったあの夜を。思った瞬間、恥ずかしくなってしまった。そうだ、さっきアヤと会ったのだ……久しぶりに。何か失礼な事は言っていないだろうか。変な顔はしていなかっただろうか。というか、アヤは英語も話せるのか。そういえば看護師になる前に一般職で働いていたという。なにか関係あるのだろうか。
彼女への気持ちはこんなに熱いものだったか。ただ単にドキドキしていたわけではなく、体中の血潮が熱く皮膚を貫くような錯覚すらする。久しぶりに会ったことで動揺しているだけだと思い込ませた。あんなに会うことに躊躇していたのに、実際に会ってしまったら嬉しくて仕方がなかった。それにも驚く自分がいる。
検査入院は短くても五日かかるという。エマは毎日は面会に来ると言っていたが、無理をしないように返した。これは自分の経験だが、面会をしないよりもした方が、家族としては気が楽なのだ。負担ではもちろんあるだろうし、エマには仕事もある。だからそれだけは、そちらを優先してほしいと要望は伝えた。今日は簡単にいくつか検査をした。その結果をもとに、更に細かい検査をするようだ。
アヤは別の階の担当をしていたようだが、夜勤の時は担当になるということで、翌日の夕方にあいさつに来た。相変わらず快活が服を着て仕事をしているような、明るくて温かな女性だ。ルリは年齢不相応なほどアヤの前でどぎまぎした。まるで万里子と初めて話したころのような、そんな新鮮で世界に色が付くような気さえした。
「今もルリさんって呼んじゃっていますけど、本当は名字でお呼びしないといけないんですよね……お気を悪くしたらごめんなさい。なんだか懐かしくて……」
アヤがそんなことを言い始めた。そういえば、昔は和孝の手前、名字ではなく名前で呼ばれていた。今はそうではないのだから、確かに何故看護師に名前で呼ばれているのだろうという疑問が他のスタッフや患者から持たれるかもしれない。
「大丈夫です……私もアヤさんって呼んでるし」
なんだか特別になれたようで嬉しいなんて、言えたらいいのだけれど。
「何かあったらナースコール押してくださいね。じゃあ消灯の時にまた伺います」
「ありがとう、よろしくお願いします」
そう言ってカーテンが閉まり、アヤは出ていった。カーテンの向こう側でルリが顔を真っ赤にしていることなど知らないだろう。
検査で何も見つからないのが一番いい、もちろん不安もあった、しかしこうしてアヤに会えることになったことを喜んでいる自分もいる。まるで和孝がこの世を去った時の、あの安堵感に対する複雑な感情に近い。寂しく思ったり心配したりするのがきっと普通なのだろうが、どうしてもそれだけではないことに困惑していると言ったほうがいい。
消灯後、なかなか眠れなかった。ごろんと寝返りを打ち、壁から伸びるナースコールを眺める。これを押すとアヤが……いやいや何を考えているんだ。静かな病棟は、時折足音が聞こえた。それがアヤの足音かはわからなかった。しかし彼女がそこにいるのが、頼もしく嬉しかった。
翌朝、検温を済ませたルリはそう言えばと思ってスマートフォンを見る。なんだかよくわからないが、通知がたくさん来ている。なんだか触っていいものかわからないでいると、アヤが朝食を持ってやってきた。
「おはようございます!あ、スマホにしたんですね」
「おはよう、それがよくわからなくって……買い替えたばかりだから、なにがなんだか……エマさんに聞いてみないとわからないわ」
そう言うと、アヤはスマホを覗き込む。近い、近すぎる。思わずスマホを取り落としそうになるがなんとかその薄い板を握る。
「あ、私と同じ機種だ……もしよかったら、申し送り報告が終わったら私ちょっとスマホみますよ」
「あら、本当?でも、アヤさんの帰りが遅くなっちゃう」
「いいんですいいんです、夜勤明けはもう帰っても寝るだけなんで」
そう言ってアヤは笑う。看護師という仕事のありがたさと少しの心配が混ざった結果、ルリは少し笑った。
アヤはその後、私服姿でルリの部屋にやって来た。さっぱりとしたシャツとタイトなパンツ姿は彼女の性格を表している気がする。終業後に患者を訪ねるのは本当は良くないらしいと聞いて、そりゃそうだろうと思ったが、今はただありがたい。
「うわあ、同じだと思ったけどこれ今年出た機種じゃないですか!すごい、いいなあ~」
「大丈夫かしら、そんな……そんな大層なものを……」
「アハハ、まあでも中身は同じなので大丈夫ですよ、これがLINEで、こうすると送れます」
アヤはいろいろと教えてくれた。特に助かったのがアプリというものの入れ方だ。あと、わからない時の検索方法も教えてくれた。
LINEも教わった。エマと達夫と茉莉、それにルリを入れたグループLINEというものがあることをやっと理解した。通知がたくさんあったのは三人がやり取りをしていたからであった。
「なるほど……なんとなくわかりました。ありがとう……本当ならエマさんに聞けばいいんだけど、あの人も忙しいし」
「エマさんは、この前の方ですよね。そうか、息子さん結婚されたんだあ……」
「私だってもうお祖母ちゃんだもの」
「あっ!そうなんですね!うわあ時間の流れを感じる~はあ……いや、なんか……ね、人生考えちゃう……」
思った以上にアヤがダメージを受けている。今、彼女は……というか、今に至るまでの彼女を知らない。恋人がいるのかとか、家族はとか。聞いてもいいのだろうか。なんだかそこまで厚かましくなりたくない。昔から、ずけずけ聞いてくる高齢女性がルリは苦手だった。同じことをしたくない。だが気になる。
「アヤさんって、ご家族は……」
一生懸命薄めた言葉だが、それでも振るうのはためらった。しかしここで何も話さないのも不自然だ。
「あはは、私は未だに独り者~、でも一人暮らしも慣れちゃうと楽ちんなんですよね。今年のお盆も実家に帰らなかったし……ていうか、この仕事してたら盆暮れ正月ないようなもんですから」
「ああ……」
「あ!牧原さん、なにやってんの?」
その時、後ろから可愛らしい声が飛んでくる。振り向くと、腰に手を当てた小柄な看護師が立っている。彼女には見覚えがあった。
「あ……師長。ごめんなさ~い、ちょっと世間話」
「もう、着替えてまで仕事しない!」
「仕事じゃないもん」
頬を膨らませるアヤが可愛い。それを見てルリも思わず笑っていたのだろう、それに気が付いた彼女はこちらを見て丁寧に頭を下げた。
「ごめんなさいね会田さん……お久しぶりです。昔、和孝さんの担当をしていた清水です」
「そうよね、そう、よかった……お久しぶりです。あの時はありがとうございました」
清水知紗、そう、アヤがナースステーションにルリを迎えてくれた時に一緒にいた先輩看護師だ。退職どころか師長になっていたらしい。知紗は目を細めて再会を喜んでいる。
「いえいえ、仕事ですから……で、牧原さん、何をしていたの?」
「いやー、スマホの使い方わからないっていうから、ちょっとだけ教えてただけで……」
アヤが頭を掻くと、知紗はもう、と厳しい顔をした。そうだ、初めて会った時もアヤを叱っていた。
しかしその時のような緊張感はない。今はもう、互いに心を許しているのだろう。
「熱意はいいけど、夜勤明けなんだし帰りなさいね。副主任がそんなんじゃ、若い子たちが帰りづらくもなっちゃうし」
知紗の言葉にルリは顔を上げた。副主任とは……聞いていない。知紗がナースステーションい戻るのを見送り、ルリはアヤにこう訊ねた。
「……副主任なの?」
「えへへ、実はそうなんです……シフト作って会議するくらいですけど」
それでもルリには眩しい。きっと並みならぬ努力をしたのであろう。ルリは思わずこう口にしてしまった。
「アヤさんは頑張り屋さんだもの、すごいわ」
ルリの言葉にアヤはまた笑って頭を掻いた。素直なところも非常に好ましい。ルリのようにすぐに過剰な謙遜をしてしまう人間からすると、その笑顔は言葉以上の力を持つ。
ああ、きっとこの笑顔はこれまでたくさんの人を助けてきたのだろう。
帰宅するアヤを見送る。きっと疲れているだろうに、ルリよりずっと若いとはいえ、本当に体にだけは気を付けてほしいものだ。入院しているルリが言えたことではないのだが。
その日、いくつか精密検査をした。昼の病棟は和孝のころと比べると随分明るく思えた。検査技師の若い男性の指示通りにいろいろと検査台に乗ったり、あれやこれやとされた。あっという間に昼食になる。今日はお風呂に入って良いとのことなので、決められた時間に風呂場に行った。あちこちに手すりの付いた風呂場を見て、そろそろ自分も家を改装したほうがいいのかもしれないとか、介護施設に入ることもあるのだろうとか、いろいろと考えた。風呂の時間は30分と決められていたが、ルリはもともと長風呂ができないので20分ほどで上がった。
陽が傾いたころ、達夫が面会に来た。担当している仕事が昼に終わり、その帰りだと言う。
「私のことはいいのに」
「いや、でも心配だからさ、検査はどうだったの」
「今日受けたばかりだから、明日になるんじゃないかしら」
達夫は仕事のことはあまり話さない。恐らく和孝が仕事を家庭に持ち込まなかったのを見て育ったからであろう。
家族としては助かるが、母親としては息子が無理をしていないか心配だ。そういう話を振るといつも達夫は話を逸らす。
「ていうか、母さん、LINE覚えたんだ?さっきちゃんと返信あってびっくりしたんだけど」
ここに来るまでに、達夫とルリはLINEでやりとりをした。なんとスタンプまで駆使したのだ。驚く達夫を見てルリは少し嬉しくなる。すべてアヤのお陰だ。彼女がいなければ、達夫と連絡をとるにも電話だったと思う。メールに慣れないルリだったが、却ってLINEのほうが直前のやり取りが見えて文章を入れやすいと言うのも利点だと思った。それに気が付けたのもアヤが教えてくれたからだ。
「看護師さんに少し教えてもらったの」
「そこまで世話になったの?あはは、看護師さんには頭が上がらないなぁ、本当に天使みたいだ」
「そうね」
達夫は茉莉の習い事の迎えがあるからと言って、夕食前に帰った。最近、水泳教室に通っているそうだ。
翌日、担当医師と少し話をした。由比と名乗る医師は、ルリよりは年下だがだいぶ年配で小柄な男性だった。柔らかい口調でこう話す。
「検査結果に特に問題はありませんでした」
それを聞いて安心した。肺の影は特に悪性ではなく年齢によるもので、それも自然と消えるそうだ。ただし、定期的に検査はしてほしいとのことだった。
かかりつけの末医師にも伝えておくと言う。どうも由比医師と末医師は面識があるそうだ。
「彼とは大学の同窓なんです」
そう話す由比医師は、末医師とは少し対称的だと思った。おおらかな話し声に対し、末医師は少し気難しいところがあるし、仲が良くなる要素は見当たらない。なんだか不思議な気もする。
「そうだったんですか、私は末さんと中学校が一緒だったです」
「おや、そうでしたか。昔はよくクリニックに会いに行ったものですよ、もしかしたら会田さんともすれちがっているかもしれませんね」
他愛もない会話をしたあと、退院の話をした。明日朝には手続きができるとのことだった。
由比医師や看護師に頭を下げ、その後談話室で達夫に電話をした。達夫が車を出せるとのことなので、すべて任せることにした。
安堵するとともに、少し寂しい気持ちもした。もちろん家には帰りたいが、長年一人で暮らしてきて一日誰とも話さないことがそれなりにあったルリにとって、病院で看護師らと話すことは刺激にもなったからだ。それに、何よりアヤともう会えないのかと思うと、寂しい。明日出勤だろうか。せめて、もう一度礼を言いたい。夜勤で巡回してきたのが知紗だったので、よっぽど訊ねたかったのだが、どうしても勇気が出なかった。
翌朝、朝食をとり、病院内のパジャマからいつも着ているブラウスとスカートに着替えた。小柄なルリにはやはりいつもの服がちょうどいい。達夫を待っていると、夜勤明けのはずの知紗が、失礼しますと礼良く部屋に入ってきた。
「あら、清水さん……本当にお世話になりました」
「本当に何もなくてよかったです。牧原さん、ほら入って入って」
「え?」
驚くルリに、まだ私服姿のアヤが照れ笑いを浮かべながら入ってくる。なんのことだかわからないが、願ってもいないことに動揺してうまく状況が理解できない。
「ルリさん、退院おめでとうございます!いや、なんか……今日遅番なんですけど、ちょっと早めに来たら師長がルリさんのこと教えてくれて……ちょっと、挨拶に」
「そんなご丁寧に……アヤさん、それに清水さん、本当にありがとうございます」
「夜勤明けで残るのは本当はダメですし、遅番がこんなに早く来るのも本当はダメなんですけど……特別です。牧原さん、ルリさんの話ばかりするんですもん」
「そんなにしてないですよう」
「だとしても、本当は特別扱いもダメなんですけどね」
そうは言うが、知紗もなんだか寂しげだ。ルリのことを好意的に見てくれているようでそれは嬉しい。
なんだか、暖かさを感じて嬉しいのだ。だからこそ、良いこととはいえ退院は寂しかった。
「私の話ばかり?そうなの?」
「いや、あの……そんなつもりでもないんですけど、なんていうかまあ、本当に会田さん達のお陰でここにいるようなものなんで……」
アヤの言葉はよくわからなかったが、ルリは感謝で頭を下げた。

達夫に連れられ、帰宅するルリを見届けて、アヤはふうと息をついた。まさか再会できるとは思わなかった。
十年、必死に仕事にしがみついたのは、彼女に会うためだったのかもしれない。
「本当に今回だけが特別だからね」
「わかってますよ」
「本当、あの時牧原さんが心折れなくて良かった。精いっぱい、自分で考えて答えを出そうと努力するきっかけだったと思う」
知紗の言葉は重い。あの時、アヤは教えられたことからは外れたが、人として、看護師として人に寄り添うことの大切さを学んだ。むしろ、和孝の件でアヤは看護に目覚めたといっていい。前の仕事を投げうって看護の道に入ったばかりのアヤにとって、自分の無力さと自分の本当の力を知ったきっかけは、ルリのあの時の会話がすべてだったと思う。
それだけではない……ルリにとってアヤが特別ではなくとも、アヤにとってルリは特別だった。最初にその顔を見た時から。
彼女について何も知らないけれど、その時からまさしくアヤはルリに仄かに好意を持っていた。だから初めて会った夕方、帰り際のルリに声をかけたのは、彼女が儚く消えてしまいそうになっていたのを止めたい人としての心もあったが、それと同じくらい彼女と近づきたい気持ちもあった。もちろん誰にも言っていないし、それは仕事をするうえでは情熱としては正しいが、判断には邪魔な感情だ。知紗も多分知らない。
「うん……そう、ですね」
「もう、惚けちゃってどうしたの。仕事まで時間あるんだから、お茶でも飲んでれば」
「そうですね、なんか、ちょっと初心に帰った気持ちです」
「それで結構。ところで牧原さん、来月のシフトまだできてないの」
「まだできてませぇん」
知紗は笑ってアヤの肩を叩くと、そのまま大きく伸びをして更衣室に向かった。知紗は厳しいが、それだけ優しい。十年でよくわかった。小柄で可愛らしい反面、夜勤明けにラーメン屋に一人で入り、大盛りで味の濃いラーメンを食べることが唯一の愉しみの知紗だ。たぶん今日もこれから街でラーメンを食べるのだろう。アヤの入職当時は軍曹と恐れられた彼女だが、今は……多少厳しいだけだと思う。きっと知紗も思うところがあったのだろう。
変わらぬ人などいないのだ。ルリだって孫がいると言っていた。きっとそこには多くの喜びがあったのだろう。それにそれだけではない人生もきっとある。アヤはそれでもいいと思った。また会えてよかった。自分の中で納得ができるチャンスを、看護の神が見ててくれたのだと思ったくらいだ。
だから、それが本当に最後の別れだと思っていた。しかし、アヤとルリの運命は、再び思わぬところで交差することになる。

ルリが入院する数日前の日曜日の事だ。達夫が茉莉を連れてルリの家にやってきた。入院前に必要になる物の買い出しの為、車を出してくれることになっていた。申し訳ないと思ったが、どうにもならないことも多かったのでそれは甘えようと思った。何より孫に会えるのは嬉しいことだった。
久しぶりに会う茉莉はまた身長が伸びたようで、ルリの身長を越えるのも秒読みと言ったところだった。そうでなくても今どきの小学生は背が高い子が多いのに、一七四センチのエマを母親に持っている彼女はもっと大きくなるだろう。そういえば昔好きだった歌にそういう内容の曲があったな……と思いながら茉莉を眺めていると、ルリの視線に気が付いたらしくおばあちゃん、と話しかけてきた。
「茉莉、今日はちょっと一味違うの。わかる?」
「あら、そうかしら……ちょっとよく見せて」
そういうと茉莉はニコニコ笑いながらルリの前に立った。そういえばどこか違うような……少し唸っていると茉莉はもう、とスカートを翻す。今日も可愛らしい格好だ。
「おばあちゃん、パパそっくり! 全然気が付いてくれないんだもん!」
「そんなこと言われても親子だもの……」
ぷりぷり怒る茉莉にルリは狼狽えることしかできない。今どきの子の怒りの勘所が全くわからない……と思ったが、よく考えたら達夫の世代どころか同世代のこともルリは完璧に理解できているか怪しい。
「母さん、今日こいつ化粧してるんだよ」
見兼ねた達夫がげんなりと肩を落としながらそう言う。きっと、朝からこの勢いなのだろう。
「えっ茉莉ちゃんお化粧してるの?」
「そう!ママの下地とファンデーション、あとリップも借りちゃった!」
「そんなことをしなくても可愛らしいのに」
「もう、本当にパパそっくり!メイクは自分のためにするんだからいつでもしていいの!」
そう話す茉莉はまだ小学生だと言うのに大人のように笑う。朝からこんな風なんだと達夫が笑う。化粧もちゃんと落とすのであれば、エマはそれでいいと言う。最近の化粧品は肌に優しいものが増えたとは思うが……昔から、というか大人になってからも薄化粧以上をしたことのないルリにとって茉莉のそういう言葉はよくわからない。
達夫の車に乗り、いくつか店を回った。入院するときに何が必要かのリストはすでに病院からもらっていたので、その通りに買い物をした。パジャマなどは院内でレンタルできると言うが、どうせなので新しく買って持ち込むことにした。まだ肺にある影がなんだかわからない以上、長期入院になるかもしれないと思ってのことだった。
途中、家電量販店に寄ったときのことだ。茉莉がルリの携帯電話を見て、こんなことを言い始めた。
「おばあちゃん、スマホにすればいいじゃん!茉莉、おばあちゃんとLINEしたい!」
そんなことで、これは完全に勢いだったのだが店員と茉莉に勧められるがままスマートフォンを購入してしまった。
達夫も連絡が取りやすいと言うので、その時はなんとなく自分でもこれを使いこなせるのではないかと錯覚してしまったが、結局退院してからやっと本格的に使うようになった。
アヤから教えてもらった通りに最初は調べながらいろいろとスマートフォンの扱い方に慣れようとした。入力には苦労した。達夫とエマと茉莉とのグループLINEも、ルリは眺めることが多かった。たまに話を振られるが、返信にはまだ時間がかかる。しかし携帯電話を手放してしまった以上、もうこの薄い板と向き合うしかないのだと思い聞かせた。
退院後、末医師の元に行った時のことだ。
「ああ、良かった。何かあったら大変だからね、もう僕たちも年齢が年齢だから」
そういう末医師は、カルテを眺めていたがふとルリのカバンのポケットから覗くスマートフォンに目を遣った。
「ああ、これ……孫に言われて買い替えたの」
「みんなこれだね。僕もスマホだけど、こんなに高価じゃなくてもなあと思って、最近もっと安いのに替えたよ」
彼らしい。流行りものに乗らないわけではないが、その上で自分で吟味するのは昔からだ。今もクリニックの設備は整っているし、定期的に新しくなっている。日々勉強だよと末医師は言う。
自分もなんだか頑張らなくてはと思い、その帰りにルリは本屋に行きスマートフォンのガイドブックのような本を買った。果たしてこれでいいのかはわからなかったが、少しずつ使い方を覚えていった。
ある程度それが生活の一部になったころ、ルリはいくつかの動画サイトを見るようになった。気になっていたが見逃していたり、和孝が好まなかったドラマなどを見るためだ。ドラマについて調べていくと、レビューをしている人のブログを見つけた。
ルリはその時気が付いたが、ドラマそのものよりもそれを見た人の感想を見る方が好きなようだ。何人かブログやサイトを見ていて、いくつかお気に入りのレビュアーができた。ドラマに出てきた料理の再現記事や、ロケ地の紹介記事なども楽しく読んだ。
そのうちの一人が、後になって思えばあれは広告記事だったのだが……とあるサイトを紹介していた。
それは女性同士の恋人や友達を探せるサイトだと書かれていた。その時は軽い気持ちでサイトを見た。これは誓って言えるが、友達を作る方に興味を持ったのだ。友人の少ないことは気にしていたが、今更友人作りをするのも尻込みしてしまうし、元来ルリは引っ込み思案だ。こういうきっかけがあれば、もしかしたら茶飲み友達でもできるのかもしれない。老後のことも気になる。今回の入院で、自分もいつまで元気でいられるかわからないと思い知ったからこそ、横のつながりが欲しくなったのだ。
サイトはシンプルで、いくつかジャンルに分かれた交流スペースがあった。会員になるとすべて見られると言う。
すこし考えた。こういうサイトは大体有料なのではないだろうか。気になって規約を見たが、長くてよくわからない。
とりあえず登録してみようと思った。その時ルリが想像していたのは、ケバケバしいデザインのいわゆる男女用の出会い系サイトだった。携帯電話を使っていたころに広告で見たものがそういうものだったから、その延長だった。何故かしら、ここは大丈夫であろうと思ったのだ。
会員登録をして、プロフィールを編集するよう求められた。本名はよくないことは知っていたので、好きなドラマに出てくる猫の名前にした。年齢や居住地を入力し、最後に求められたのはアイコンにするための写真だった。画像フォルダを見ても、買ったばかりのスマートフォンには特に写真がない。写真を撮るという文化がまずなかった。携帯電話を持っていたころも、茉莉の写真を撮ったくらいか。
顔写真がいいと書かれているが、気恥しい。結局、すこし影が入るようにして、顔全体は見えないように写真を撮った。
有料は主に広告を外したり、コミュニティを作るときには必須らしい。広告を見ることは苦痛ではなかったので、そのままにした。
友達作りのコミュニティで何人かとやりとりをした。不思議なのだが、女性たちのやりとりや写真を見ているとふわふわと、まるで自分が自分ではなく、このサイトを使うもう一人の自分が出てくるような気持ちになった。楽しいともまた違う、スリルと言ったほうが良いだろうか。実際、コミュニティの女性たちは若いユーザーが多く、やりとりをみているだけでも刺激的ではあった。ここまでルリはたったの一日でやってのけてしまった。
数日後、一人の女性がメッセージを送ってきた。アイコンを見てルリは少し息を呑んだ。万里子によく似ている。というか、記憶の中の万里子そっくりだ。
震える手で文章を作り、何度かやり取りをした。なんとか会話を持たせたかった。まるで万里子と話しているようで、それは楽しかった。ザクロと名乗る彼女は40代で、同じ県内に住んでいると言う。特に趣味が合うとかそう言うことはなかったが、やりとりの節々にこちらへの気遣いがあり心地よかった。
『三日後、市内に買い物に出るのでその時会えませんか』
突然彼女はそんなことを言ってきた。一瞬快諾しそうになったが、ちょっと待った方がいいとその指先を止める。暫く考えさせてほしいと返したが、その後、会ってみたい気持ちがむくむくと湧いてきた。よくないのではないか、騙されていないか。それは何度も考えた。しかし、今このタイミングを逃したら、彼女と会えないのではないか。そう思って、意を決してこう返事をした。
『わかりました。じゃあ三日後、駅の前で』
それから時間のやり取りをして、その日は終わった。やり取りを終えて急に怖くなったが、よく考えたらそれを求めてサイトに登録したのだから、誰にも相談のしようがなかった。
三日後、駅前で待ち合わせた。折しも初夏の頃。どのような格好をするべきかわからなかったので、普段の白いブラウスと茶色のスカートに、透け素材の少しだけ高いカーディガンを羽織った。エマからのもらい物だが、着る機会がなかったものだ。
目印が必要だと思ったので、手提げにこれまたエマからもらったものの使う機会のないまま飾っていただけの赤いスカーフを巻いた。
早く着きすぎたので、駅前を少し歩いた。ここ数年の再開発でショッピングモールができてた。昔はよく達夫を連れて駅前のデパートに行ったものだが、もうその頃の面影はどこにもなかった。
「あの、シラタマさんですか」
「はい」
声をかけられ、ルリは振り返る。そしてその姿を見て、声が出るほど驚いた。
「え、え……?アヤ、さん……?」
「ルリさん、やっぱり……」
「え?」
「行きましょう、ちょっとお話が」
そう言ってアヤはルリの手を取り、歩き始めた。振り払うことだけはできなかった。こうして再び交差した運命は、ルリのそれまでとそれからを大いに変えるものだった。

ルリは心臓をばくばくさせながらアヤの隣を歩いていた。
ショッピングモールを抜け、アーケード通りの小さな商店街を端から端まで歩いた。途中で夕方5時を告げるチャイムが鳴った。初めて会った日も、そういえば鳴っていた。しかしその時は、まだ子供だった頃の達夫が帰ってくるのが遅くてやきもきしたあのチャイムの音だとルリは思い出していた。そして同じチャイムのはずなのに、何故か聞こえ方が違う気がする。もしかしたら、達夫にはこう聞こえていたのかもしれないなと何となく思った。
途中の路地でアヤは曲がった。何も言わなかったし、何も言えなかった。どこに連れていかれるのだろう。それすらわからない。
路地を歩いてすぐのところに、コンクリート打ちっぱなしの建物があった。ああ、近所なのに知らない建物があるものだなあとぼんやり思っていると、アヤはそこで止まり、建物の半地下にルリを促した。
「え、あの、アヤさん……ここは?」
「……入ってください、別に悪いことはしないから」
半地下の向こうには明らかにスナックだとか、バーの類の店が入っている。ルリの六〇余年の人生でこういう場所に入ったことはなかった。
ドアには簡素にOPENと書かれた札が下がっており、横には「鈴ノ音」と店名が記してあった。恐る恐るドアを開けると、チリンと小気味のいい音がする。店内はカウンター席が7つだけの小さなものだったが、初めての光景にルリは状況を理解するのにも時間がかかった。
カウンターの中にはアヤと同年代くらいの女性がそんなルリを怪訝そうに見ていたが、後ろにいるアヤの姿に表情を明るくさせる。
「おかえりなさい」
「……ルリさん、こっちの席にどうぞ。何か飲みます?」
「あ……ええと、そうね……」
奥の席に通される。洒落た椅子に腰かけると、アヤはルリに小さなメニュー表を見せた。
こういう場ではお酒を飲まなければならないだろう。ルリの数少ない知識がそう言っている。いや、正直酒どころではなく、知りたいことだらけなのだが、ルリの中では既に思考の優先順位がごちゃごちゃになっていた。
……カウンターの天井にはきれいなグラスが行儀よく吊るされている、奥にはボトルがこれまた整然と並んでいた。
だがルリはここ数年酒といえば毎晩の薬酒くらいで、最後にちゃんと飲んだのは和孝の法事の時以来だ。
そもそも和孝が家で酒を飲む習慣がなかったこともあって、ルリは酒の前に圧倒的に情報弱者というやつだ。最近ネットで知った言葉で果たして使い方が合っているかは知らないが、料理酒ならばわかる程度のものだから、弱者と言って差し支えはないであろう。
「あら、無理してお酒を飲まなくていいのよ、ノンアルコールのカクテルもあるし、お茶もあるわ」
硬直したルリを見て、カウンターの中で女性が優しくそう言う。黒髪の艶やかで、化粧もしっかりとした綺麗な女性だ。そう言われるとなんだか安心していいのか、余計に気を使うべきなのかわからないが……そう言ってくれるなら甘んじよう。
「あ、あの、じゃあ……ウーロン茶を……」
「はぁい、私の名前は鈴子よ、よろしくね」
「私は……会田ルリです、よろしくお願いします」
名前を言うことをなんとなくためらったが、アヤの手前もう引き返せない。何が始まるのかわからないが、少なくとも敵意はないようだし……大体アヤがそんなことをしてくるはずがない。そう言い聞かせて頭を下げた。鈴子はにこりとルリに微笑み、その笑顔をアヤにも向けた。
「……で、アヤちゃんは何を飲むの?」
「スレッジハンマー」
「まあ止めないけれど……」
随分と物騒な名前の酒があるのだなあと思ってアヤを見ると、彼女はバツが悪そうに髪をかき上げた。普段は後ろで結っている髪の毛は今日はその戒めなく揺れている。それはそれでどきどきする。
「ええと、ルリさん……本題なんですけど、ああ言うサイトってずっと使ってました……?」
「初めてです……」
「ですよねえ……よかった……」
それからアヤはルリに、あのサイトは緩やかに友人を募るものではあるものの、ユーザーによってはその日限りの相手を探している場合があることや、メッセージだけで気軽に会うことはあまり良いことではないことなどを話した。実際アヤも昔別のサイトで女性と会ったことがあるそうだが、その時のトラブルの話もされた。アヤは普段あのサイトでは趣味の旅行の話をネット上でするだけにしているという。
ルリは自分がしでかしたことの重大さがいよいよその手を伸ばして自らに迫っていたことを実感した。アヤだったからよかったようなものの、もしも悪意のある人であったら?きっとルリ一人ではどうにもできなかっただろう。
しかし一方で、こうしてアヤに会えた事実は変わらない。ルリは彼女をじっと見ていた。
「どうして出会い系サイトに登録したんですか?」
アヤの質問は当然のことだ。いつまでも黙ってはいられなかった。ルリは少しずつ言葉を織る。
「説明が難しいのだけど、最初は確かに好奇心だったの……ドラマのことで話せる友達が欲しかったのも本当。でも、登録して、いろんな女の人を見ているうちに、なんだか自分が自分じゃないような気がしてきて……怖くなって、本当はもうやめようかなと思ったんだけど」
「……」
アヤはルリの言葉を遮ることなく、黙って聞いていた。少し難しそうな顔をしている。幻滅しただろう、心配もしただろう。だから、ここで誤魔化してはいけないと思った。それには多大な勇気が要るけれども。
「アヤさんの写真を見て、アヤさんに……似ているなって……」
「え?」
「……その……私、アヤさんのことが……す、好きみたいで……」
言ってしまった。こんなことを言うこともなく人生を終わるとばかり思っていたから、ずっと押し留めていたその言葉はもっと大きくて強いものだと思っていたのだけれど、実際に転がり出たそれは笑ってしまうほど小さくてか弱かった。
「ルリさん、もしかしてずっと……私のこと、好きでいてくれたんですか」
アヤの方を見る。彼女の顔にいつもの明るい表情はなかったが、けしてルリを蔑んでいるわけではなかった。
「ええ……その、アヤさんが……私の初恋の人に似てて……」
「初恋の人?」
それは長年積み重ねてしまった、いっそ暗いといってもいい感情でもあった。アヤも万里子も別人だと頭ではわかっているし、別にこの二人に惹かれていることをマイナスに思っているわけではない。しかし自らの幼い初恋を、目の前にいる彼女にぶつけてしまっている申し訳なさがどうしてもチラつく。アヤと話しているその瞬間瞬間に、それらはルリとじっと目が合うのだ。
「うん、変でしょう?もう何十年も前の話だし……アヤさんにね、少し似てるの」
そう言って力なく笑うことだけができたことだった。アヤはしばらく黙っていた。そして、少し照れるような……それを隠すような顔をして、こんなことを言い始める。
「私は……どんなに頑張ってもその人にはなれないですけど、牧原アヤとしてルリさんと……幸せになれたら嬉しいです」
「……え?」
驚いて思わず何度も言葉を反芻する。どうして、というよりもまず、彼女がなんて言っているかを理解するのに時間がかかった。ルリの反応を見て、アヤは顔をやや俯かせて、しかししっかりした声でこう言った。
「私はルリさんが好きです、だからここに連れて来たし、サイトに登録したのにちょっと怒っちゃったりしたんです」
そういってアヤは頭を掻く。少し乱れた髪の毛が、アヤのそれまでの人生のすべてのようだった。彼女の言っていることはルリにとってあまりにも都合が良すぎて、こんなことがあるのかと思わず疑ってしまうようなことばかりだった。
「アヤさん、でも私……ううん、待ってね……」
「その、すぐに答えを出す必要はないと思います……なんか、私の方から変なこと言っちゃいましたけど」
「違うの、すごくうれしくて……それなのにすぐにそれを言葉にできなくて……」
そう言っている間に、ルリは自分が涙ぐんでいることに気が付いた。それまでの過去を否定するつもりはない。家族がいたことを嘘にするつもりもない。しかし、それよりも前のルリの本当の気持ちが、いままさに土から這い出てきて初めて太陽の光を浴びている。
その後、アヤの生い立ちを聞くこともできた。幼児期から既に女性にしか興味がなかった彼女を、最初は微笑ましく見ていた親も次第に心配になったのだろうと言う話。中学生の頃、弁護士を志したアヤはどうしても県内上位の学校に行きたかったが、女子高だからと却下された話。仕方なく共学の別の高校に行った話。
親との関係は、それから少しずつ変容したと言う。ルリはその話を何故か親目線ではなく娘だった頃の自分と当てはめて聞いていた。年齢や立場を考えれば親としてアヤの親に何か思うところがあってもいい筈だったが、ルリの脳裏には短大にしか行けなかった娘の頃の自分の影がちらつく。別に四年制大学に行くことを強く望んではいなかったが、女子だからと短大を勧められたのは今も腑に落ちない。
アヤは鈴子にスクリュードライバーを頼むと話をつづけた。高校卒業後、大学進学のために上京したアヤは法科大学院まで進んだが、司法試験に落ち、パラリーガルとして弁護士事務所を転々としていたという。だがとある事務所でレズビアンであることをアヤの意図しないところで暴露され、退職を余儀なくされたのだという。
「そんなことが……」
人の口に戸は立てられないとは言うが、ルリは愕然とする一方で、やはりと言う気持ちにもなった。自分が隠してきた理由がそこにあったからだ。
「そういうのをアウティングっていうのよ。ちょっと前にある大学で似たようなことがあって、自分がゲイであることを予期せず広められたされた学生さんが自殺する事件もあってね……」
鈴子がウーロン茶のおかわりを出しながらルリにそう言う。そう言えばそんなニュースを見た気がする。
「まあ、私も迂闊だったんですけれどね……本当なら法曹を目指す身として戦わなくちゃいけなかった。けれど、もう自分のために戦えないってそう思っちゃって」
「あの時のアヤちゃんは荒れてたわねえ……ああ、そのころ私、アヤちゃんと出会ったのよ」
「そうだったっけ……」
「アヤさんはそのあとに看護学校に……?」
ルリの問いにアヤは目線を一度天井にやると、ルリの方を見た。少し寂しそうな顔だった。
「変えたかったんですよね、何もかも。看護師が大変な仕事だっていうことはもちろん理解してましたし、憧れだった法曹の道を断つことに無念さがないわけではないです……でも、自分だからこそ救える何かがあればいいと思って、気が付いたら看護学校に入ってました……なんか、こう言っちゃうとかっこよく聞こえるんですけど……実際は全然」
「か、格好いいです」
「え?」
ルリは、アヤと初めて出会った日のことを思い出していた。彼女のあの姿が、真っ暗なところで悲しむことすらできなかったルリに光を当てたのだ。彼女からしたら何事もないことでも、それがどれだけルリにとってありがたかったか知れない。
「アヤさんは、本当に格好良くて、素敵で……あのとき……主人が亡くなる前にバス停で話したことで、人に生かされることってあるんだなって思ったんです。それに、ナースステーションの時も」
「あのとき……」
アヤはそう言ってふっと笑うと、ああ、と顔を手で押さえた。
「あのとき、私仕事辞めようかなって思ってたんですよ。心折れてて……もっと言うと、もう自分には何も守れないんじゃないかって。でも、ルリさんと話してて思ったんです。まだやりたいことがあるって、まだ、看護師としてなにもしてないって……本当は、あんなふうに『絶対治る』なんて看護師は言っちゃいけないですし、ナースステーションに入れたのも本当はダメです。でも、あれは自分が人間としてやりたかったことだな、そういうことを無視しちゃだめだなって気が付けたんですよ。だからルリさんは恩人です」
「そう……そうだったの、でも、私は本当にアヤさんにあのとき声をかけてもらえて嬉しかったの、本当はあの場から逃げ出したいってずっと思ってて、でもそれでも……何も解決しないことはわかってたんです。だから、あの時、アヤさんが引き止めてくれたようなものなんです」
アヤは口元を手で押さえ、その言葉を聞いていた。何度も、何度も手繰るように反芻しているようだった。
「よかったんだ……あのとき、声かけて……」
何度も頷き、アヤの肩に触れた。震える肩は初めて会った頃より華奢に思えた。
それまで黙って二人の様子を見ていた鈴子が、そっと冷蔵庫から二つ何かを取り出すと、それを二人の前に出した。それは手作りと思われるプリンだった。
「いいもの見ちゃったから、サービスにプリンどうぞ」
「ありがとう……てか、プリンなんて作ってるんだ」
「お客さんには出さないの、自分のためのやつ。だけど今日は特別に食べさせたげる。美味しいから覚悟して」
店を閉めた後に一人で食べるのが日課なのだそうだ。白い容器に入っただけのプリンは綺麗に化粧をして髪を整えている鈴子に対してあまりにも素朴だが、案外そんなものなのかもしれない。
「鈴子さん、ありがとうございます」
「ルリさん。この子、ちょっと頑張りすぎるとこもあるし、意外と不器用な子だけど……本当にいい子だから、よろしくね」
鈴子はそう言ってルリに頭を下げた。母親じゃないんだからとアヤは笑う。ルリもつられて笑いながらプリンを口にした。少し固めのプリンはほろ苦いカラメルと相まって舌を喜ばせる。
「美味しい」
「本当だ。なんだろう、最近固いプリン流行ってるけどそれともまた違う……美味しい」
「でしょ?」
鈴子は得意気に笑う。スモーキーなピンク色の唇が無邪気にプリンのこだわりポイントを挙げてゆく。笑いあい、何気なくアヤとルリは視線を交わす。まるでずっとそういう親しげな関係であったように。
こうしてアヤとルリは、ゆるやかで暖かな交際を始めた。

アヤの職場は、五年前に待遇改善が行われだいぶ休みがとりやすくなったのだという。昔は残業もざらにあったが、今はほとんど定時で帰れているそうだ。通常の日勤に加え、早番と遅番、夜勤が交代であるという。
「遅番が一番嫌なんですよね。帰りが遅くなるからちゃんとご飯用意できないし……」
何気なくアヤがそんなことを言う。ルリは少しだけ考えて、思い切ってこう切り出した。
「遅番って何時に終わるの?」
「大体夜八時くらいですね」
「……もしよかったら、うちでご飯食べにこない?」
「いいんですか?」
「誰かに食べてもらえると思えば……その、料理のし甲斐もあるし」
ルリの提案にアヤは嬉しそうに頷いたが、その直後に少し表情を固くした。
「その……ルリさんの家に、私が行っていいんでしょうか……なんだか急に緊張してきました」
そういえばアヤが家に来たことは当然ない。パジャマ姿を見られているがそれは入院中のことで、なんとなくそれで生活をすべて晒していた気もしたのだが、よく考えたらそんなこともなかった。
かたちだけ見れば、ふたりは交際しているはずなのだから家に行くことなど造作もないだろう。しかしまだその状態に二人とも慣れていない。
「いいのよ」
そうは言ったが、ルリだって内心どきどきしていた。まるで自分が悪いことをしているような気がする。和孝はもちろんのこと、達夫たちに打ち明けていないことはこの頃から既にルリの心に少しだけ曇らせていた。
「お邪魔します」
初めてアヤが家に来たのは、それから数日たってからだった。手洗い場からリビングに案内すると、アヤはふとひっそり佇む仏壇に目を遣る。悩んだ結果、最低限の位牌と写真だけの簡素な仏壇は、ルリにとっては最早生活の一部ではあったがアヤにとってはそうではない。
アヤは仏壇に手を合わせる。
「和孝さん……あの時はすみませんでした」
「アヤさん、いいのよ」
「いえ、これは私のけじめです。正直言って、和孝さんのことがなかったらむしろ私、看護師を辞めてたかもしれないので……だから、言い方は変かもしれませんけど、勉強になりました。ありがとうございます。お陰でルリさんにこうして再会できました」
深々と礼をするアヤの横顔を、ルリはただ黙って見つめていた。和孝の存在をルリの人生から消すことはできない。彼との結婚生活は、ルリの人生を語るうえで無視することはできない。それは同時に、ルリが言い出せなかった言葉の存在も肯定する。
しかしアヤは、そのおかげで出会えたとこうして感謝しているのだ。和孝にも、彼と共にいたルリにも。
胸に落ちるじんわりとした気持ちにまだ名前は付けられない。決めあぐねている間に、アヤはキッチンの方に向き直っていた。
「わあ、すごくいい匂い……安心する。家に人がいるって、いいなあ」
そう言ってルリに顔を向けた。アヤの実家の話はまだ断片的にしか知らない。それも乗り越えなければならない壁の一つでもあるが、それでも今は、ふたりでテーブルに向き合い食事をすることが幸せであった。
ルリは特に料理が得意というわけではない。毎日やっているから否応にも身に付いたところはある。それだって和孝と結婚していた経験がなければ、身につかなかったのではないかと思う。
「美味しい」
アヤが嬉しそうにルリが作ったハンバーグを食べる。達夫が好きなメニューだったから、何かあるとすぐ作った。達夫の話をしようか迷っていると、アヤは目を細めてこう言った。
「子どものころ、ハンバーグを作ってもらったとき……私だけハンバーグが小さくて、弟が大きかったことがあったんです。今思えばほとんど同じ大きさだったんですけれど、それで喧嘩になっちゃって。怒られたなあ……」
ハンバーグを見つめるアヤの寂しげな眼差しには、それだけではないであろう家族との蟠りが沈んでいる。ルリに全てはわからない、今何を言えばいいのかも、どういう表情をすればよいのかも。しかしこれだけはわかる。目の前で、話を聞くことが一番大事なのだということを。
「アヤさんだけのハンバーグ、作ってあげなきゃ」
ふと漏れた言葉はアヤに向けて言った言葉ではない。自分に向けたものだ。しかしアヤはその言葉に、何度も頷いてこう言った。
「私、どこにいても、絶対ルリさんのところに帰ってきます」
「……待ってるわね」
アヤが帰った後、ルリはソファに座ってスマートフォンを眺めていた。台所の片づけは二人でやった。なんだか不思議な気持ちだ。何年も心に引っ掛かっていて、それでいてもう縁は結ばれないだろうと思っていたアヤが今日家に来たのだ。
アヤは駅に着くと、すぐにルリにLINEでお礼を送信してきた。可愛らしいスタンプが躍る。最近覚えたのでよくはわからないが、時間をかけてゆっくりと返信した。内容は大したことではなかったが、なんだかんだ返すのに二〇分もかかってしまった。
『また、いつでも来てください』
アヤはすぐに返事を寄こした。通知音がスマートフォンとルリの心を揺らす。便利だが、便利すぎて距離がわからなくなりそうだ。
『じゃあ、金曜日にまた伺ってもいいですか』
『もちろん、待ってます』
こんなに簡単に約束ができるのだ。昔ならば、電話をしなければとかいろいろと考えることが多すぎて結局長続きしなかっただろう約束なのに。金曜日、カレンダーを眺める。素直に待ち遠しかった。
次に来た時、アヤはシフト表をコピーして持ってきた。それでいくつか話し合って、会える日を共有した。また、鈴の音にもお礼のために顔を出した。鈴子が実は中華料理、それも町中華と呼ばれるような庶民的な中華料理屋の餃子が好きと聞いて餃子を包んで持っていき、鈴の音で焼いて食べた。カウンターの奥には三口のコンロがあったので、その三つが全部フライパンで埋まった。ホットプレートが欲しいとか、たこ焼きも作れるものがいいなどいろいろと話した。
アヤの仕事の話もこの頃になるとよく聞くようになった。看護師には守秘義務があるので詳細な話ではないが、様々な理由で入院する患者や家族の話をうっすらと聞いた。現代の医療現場の問題など、ルリが知らなかったような話も出た。ルリはアヤと会うと、何かあったら末内科に行こうと強く思うようになった。検査入院の結果はなんともなかったが、元気な人でも突然この世を去ることは和孝の件でわかってはいたし、アヤの話を聞くにつれどんどん他人事ではなくなっていった。なんだか世界が少し広がって、怖いとか、よくわからないことが少しだが消えた気がする。
また、最初はルリもうっかり忘れていたし、アヤも気を遣っていたのだが、よく考えたらアヤはとても酒を好む人間だったので、ルリの家でも少し晩酌をするようになった。それまで毎日、ふとしたきっかけで思い出していた万里子の笑顔はこの短期間であっという間にアヤで塗りつぶされた。しかしその下にはまだ瑞々しく青春の匂いもある。今は遠いその過去も、少しずつ受け入れられるようになったから、こうして笑えているのかもしれない。

会田ルリは、達夫にとって静かな母だった。今もそうだと思っていたはずだった。
子どものころはそれなりに怒られることもあったはずだが、記憶に残っているだけでは、母が怒っているところをあまり見たことがない。哀しそうな顔をすることはよくあったから、それを見て自然と反省することが達夫にとって当然だった。
エマとの出会いはインターネットがきっかけだ。彼女は母とはまったく違うタイプの女性だと思った。無論、彼女のほかにも以前には交際していた女性はいた。しかし、気が付くと何故か関係が薄まり、空中分解することが多かった。そのたびに何が原因なのか反省したが、答えはエマに出会うまでわからなかった。彼女は自分の気持ちを率直に達夫に言うことができる人間だった。それは、達夫にとってけしていいことばかりではなかったし、ルリのような静かな女性とばかり付き合っていた達夫には、うるさく思うことだってあった。
しかしエマは、ただ正しいことを正しいままに伝えるだけの人間ではなかった。達夫に今何が問題なのかを伝える技術にかけてエマは天才だった。それを聞いていると段々何が問題なのかがわかってきて、自然と達夫も自分の気持ちを素直にエマに言えるようになった。その姿勢をエマは褒めるが、むしろ達夫こそよくエマを褒めるようになった。エマの言葉をもっと理解したくなってオランダ語も少し勉強したし、自らの考えや目にしたものについて言葉を尽くすことの努力を惜しまないようになった。目に見えて変わったわけではないが、そういう意識下の考え方はがらりと変わったといっていい。
一番変わったのは環境だろうか。達夫の説明で仕事のチームの空気が良い意味で緊張感を持つようになったし、同時に和やかにもなった。自分がわかっていることをそのままにするわけでもなく、共有して確認することを大切にした結果、議論は以前より活発になった。ひと仕事が終わった後、次のチームに入った時はリーダーを任された。何もかもうまくいっていた。エマには感謝しかない、だからなんの躊躇いもなくプロポーズした。それが当然とは思わなかったし、むしろ特別だとすら思っていた。国際結婚なんて自分がするわけないと以前なら言えただろうし、珍しくないと言うのは今の時点ではまだ正確ではないと思たから。
達夫は、むしろ好奇心深く物事を多角的に見ている方だと自負していた。書籍編集の仕事は、そういう人間でないと務まらない。だから読書量や人と会う機会だって多い筈だった。
それらの自信を根底から崩すのが、まさか母のこんな一言だとは思わなかった。
「好きな人がいるの」
母は静かな人だから、父が亡くなっても自らの生活を粛々と進めているあまり面白くない人だと思っていた。エマとの結婚を歓迎したのも、特に何も考えていないのだろうと勝手に決めつけていた。未亡人の彼女を労ることはあったが、よく考えたら達夫はルリの人生を真正面から受け止めたことがあっただろうか。彼女はそれから、少しずつ今交際している女性の話をし始めた。達夫はそれを大人しく聞いていたわけではないのだが、驚きのあまり何も言えずただ黙っていただけにすぎない。折しも梅雨の終わりごろ、しとしとと降りしきる雨の中、老いた母に大切な話があると呼び出された達夫は、彼女からの言葉を抱えきれずにいた。
「その人が……その、看護師さん?」
達夫は記憶から色々と引っ張り出していた。正直アヤの名前すら覚えていなかったし、顔もおぼろげだ。そんな彼女が母の特別な人だなんて、達夫は一切知らなかった。ルリが申し訳なさそうに表情を歪ませる。どうしていいかわからない。何が正解なのかも、何が達夫の考えなのかもわからなかった。それから話し始めたルリの初恋の話は、やはり達夫の根底をぐらつかせるに足りる事実だった。
「どうして何も言わなかったの?」
別に母を責めるつもりはなかった……と思う。しかし、ルリが話し始めたことは、達夫のそれまでの過去にひびが入るような事実だった。ずっと母は、中学生のころの初恋の女性の姿を目の端にとらえていたのだ。自分と家族がいる状態で本当のことを言っていなかったし、達夫が存在する以上、達夫もルリが異性愛者だと疑わなかった。今まで向けてきたあの優しいルリの表情は、嘘だったということか。無意識で頭を横に振る。別に母を責めたくない。しかし、知りたいことが多すぎて何から聞けばいいかわからない。出口がまるで見えないし、出たところでそこが達夫の望むところなのかもわからない。
「ごめんなさい……」
ルリは俯き、謝るばかりだ。そうじゃない。謝ってほしいわけではないと思う。むしろ何かこちらがとんでもなく悪いことをしているのではないかと思った。
「そ、そうじゃなくて……母さん、その……何か、間違いなんじゃない?そんなこと、だって……」
エマが傍にいるべきだったと思った。何故かはわからないが、いつも達夫を導いたのはエマだったから。しかし今は今で、試練なのかもしれない。エマが今ここにはいないが、別に今までエマやルリだけに育てられたわけでもない。
「間違いじゃ、ないの」
何か上手くいかない。こんなはずではなかったという言葉ががんがんと頭の中で響く。例えばこれが、母のただの初恋の話で終わるのであれば、まだ少し疑うだけで……いや、それが楽だとは思わないが……しかしルリは今、アヤと交際をしている事実がある。その二つの事実にまるで網をかけて揺らしているようだ。達夫の人生がルリの人生から簡単に振り落とされてしまいそうだ。それが怖いと素直に思った。
「……ごめん、なんて言っていいか、俺もわかんないんだけど……」
「何も言わなくていいの、ただ、知っておいてほしくて。だって……何も知らないのは、嫌でしょう?」
「それはそうだけど……俺、知らないことっていうか、わかんないことばかりで」
別に偏見があるとか、そういうわけではないと思っていたはずだった。仕事やネットで最近はLGBTについての記事を見ることだってある。むしろ達夫はそういう人に敬意を持っていたつもりでいた。しかしどうしたことか、一番身近な存在である母親からのカミングアウトに対して、達夫ができることなんて何もないと思った。
「と、とにかく、いったんこの話ここでやめよう。俺もちょっと色々、考える時間が欲しいって言うか……」
職業柄、先延ばしは良くないと思ったが、今はその方がいいと思った。今慌てて何らかの決断をするのは良くないことだと思ったからだ。自分の中で落としどころを探りたい気持ちもあった。
「うん……なんだか、ごめん」
「母さんが謝ることは何もないから、でもちょっとだけ時間が欲しいんだ。あと、この話……俺だけが抱えるのちょっと今はしんどいかもしれない。エマとか……相談していいかな?」
「勿論いいわ、エマさんにも話してほしいというか……その、今度エマさんもいるところで私も話したいとは思ってて、でも達夫には先に言っておきたかったの」
その言葉に、達夫はなぜかムッとしてしまった。それは息子としての面では必ずしもなかったと思う。
「……それって結局、まだエマを家族としてみなしてないってこと?それはエマが嫁だから?日本人じゃないから?」
「そう言うことじゃないわ、そういうことじゃなくて……お父さんのこと、知っているのはあなたくらいだから」
雨に濡れた夕暮れが何かを言いたげに迫ってくる。こんなに母のことをずっと考えていた日はないと思う。彼女はずっと隠していた。それに対してどうしていいかがわからない。というよりも、どういう感情を持ちたいかがわからない。達夫はまだルリに母として、茉莉の祖母としてやってほしいことがあるように思う。別にそれはアヤと交際していることとなんら関係はない筈だ。しかし整理が付かない。ずっと初恋の人間を忘れられず、それで今も今で交際している女性がいる。その事実が達夫の中で噛み合わない。
喧嘩別れのように言葉少なに家を出た。こんなことは初めての事だった。
車にキーを挿し入れると、オーディオから軽快な音楽が流れる。簡単なラブソングは、いつもならば耳馴染みがいい筈なのに今日に限ってノイズにしかならない。世に出回るラブソングが当たり前だなんて思ったことはないし、むしろ懐疑的ですらあったはずなのに、達夫よりもそのラブソングに傷つく人がいて、その通りに振舞うことを許されない人がいる。それが母だったのだ。オーディオをオフにすると、車内はエンジンの音だけが静かにやかましい。
ふと、過ぎってしまうのだ。これは別に真実ではないことくらいわかるのだが、しかしその妄想は達夫にこれが真実だと吹き込む。
達夫の存在により、ルリは和孝と別れられなかったのではないだろうか。和孝と一緒にいるルリは幸せではなかったのではないだろうか。本当はもっと自由に生きたかったはずなのではないか。ルリという女性の、その物静かな佇まいに達夫は息子として、家族として甘え続けていただけなのではないか。
溜息をつく。考えても何も始まらない。来週から新たな企画が立ち、一番気にかけている部下をプロジェクトのリーダーに据えようとしている。仕事は別に苦ではないが、何もしたくなかった。
帰宅後、迎えるエマと茉莉を見て、達夫は少し疲れたように笑うことしかできなかった。当たり前のように手に入れたわけではない家族も、ルリからしたら当たり前に手に入れた家族なのかもしれないと、少し猜疑心にすら駆られていた。

「どうしたんだ、浮かない顔してんな」
達夫の横で酒を飲む大柄の男は、取引先の社長である小平大だ。社長と言っても長い仲で、その歴史は大学時代まで遡る。平たく言うとゼミの同期だ。まあ、小平は長く浪人していたのでだいぶ年齢は上なのだが。小平は今、いくつかのECサイトを運営している。こちらから書籍の取り扱いを持ち掛けたのがきっかけでそこから取引先としての関係がスタートしたが、仕事外ではただの同期だ。懐かしさだけは未だに感じないが。
なじみの居酒屋で酒を傾け、達夫は少しずつ小平に現状を話し始めた。母親のこと、母親の恋人のこと、恋人とその周囲の人々のこと。それを受け入れられない自分がいること。一頻り話していて思ったのは、受け入れたくないわけではないと言うことだ。なんとなく実態がつかめないから、そこにある違和感に恐怖心を持つのだ。
小平はいつもならば達夫の言うことを茶化したり大声で笑ったりする、そういう騒がしい男なのだが、珍しく黙って話を聞いていた。今や肩身が狭くなった紙巻煙草に火をつけて、ふうと一息紫煙を吐き出すと、達夫にこう提案した。
「週末、俺の部下の家に行くか」
「……お前、俺の話聞いていたか?」
「聞いていたさ、お前さんの話を一番聞いてくれそうな人間だよ。ちょっと待ってろ、確認とるから」
そう言って小平はスマートフォンを胸ポケットから取り出す。身長も体重もある小平の大きな手が、慣れた手つきでそれを操作すると電話をかける。
「拝島か、ああ、俺だ。今ちょっといいか? いや、まあ、大した用事じゃなくて……週末どっちか空いてるか?ダチをお前と充さんに会わせたくなってな。ああ、詳しいことはまたあとで、ああ、そうしてくれ……」
小平はそうして拝島なる人と話している。口ぶりからしてよほど仲がいいのだろう。いくら親しい上司と部下の関係とはいえ、業務時間外に電話をかけるのはどうかと思ったが、私的な理由だからいいのだろうか。そういえば昔からこの男はそういうところがある。人の懐に入るのが上手いというか、適度に弱味を見せられるのだ。そういう彼の生きざまに達夫自身救われたこともある。
達夫はぬるくなったビールを喉に押し込みながら、母の横顔を思い出していた。なんの気はなしに見ていた横顔だった。
「……ああ、大丈夫? わかった、いい感じの酒でも持っていくさ。じゃあまた詳しくは明日」
そう言って小平は電話を切ると、こちらに視線を寄こして悪戯に笑った。とっくに不惑を過ぎているのに、本当に子どものような顔をする男だ。そういうところは信頼している。だが子どもというのは時に残酷な選択をするものだ。
「じゃあ達夫、土曜日な。昼頃……そうだな、12時に夕陽が丘駅で落ち合おう。北口だぞ」
「何が何だかわからないんだが、俺はその部下に会うんだな?」
「そうそう、まあそんな硬くなるなって」
そしてその週の土曜日、達夫は隣町の夕陽が丘駅の北口に11時に到着した。これは悪癖なのだが、達夫は約束の時間を心配しすぎてとても早くに目的地に到着してしまうところがある。どこか落ち着ける場所でもありはしないかと探したが、夕陽が丘駅は洒落ているカフェが多く、つまり達夫が入るには聊か躊躇するような場所しか見当たらなかったので、駅前のベンチで人の波を見ていた。土曜日の駅前はカップルや女性同士、または家族連れで溢れている。今度茉莉とエマを連れてこようか……駅を出た横にある比較的新しめの案内板には駅前の喫茶店、ケーキ屋、雑貨店などの広告が躍る。やはり達夫よりも茉莉たちの方が喜びそうだなと思う一方で、そう思うのも実は押し付けなのかもしれないとか、とにかく少しの情報でも悩んでしまっていた。
「よう、待たせたか」
誰かがポンと達夫の肩をたたく。ハッとして顔を上げると小平は苦笑いをしていた。
「思ったより人混みがすごいだろ?」
「ああ、入れそうにもない店が多いな」
「アハハ、お前はそうだろうな。ああ、あのケーキ屋のモンブラン美味いぞ」
「お前、ケーキ屋に入るのか」
指さしたのは小さな店構えの……いかにも女性向けといったような淡い色の壁をしたケーキ屋だ。なんだか裏切られた気分になる。小平のような……恰幅が好くて、剃っていてもわかるくらい髭が濃くて、飾り気のない……世間一般で言うところの立派なおじさんが、あんなに洒落っ気のあるケーキ屋に出入しているのは、それだけで達夫を驚かせるものだった。
「入るも何も、俺は甘いものも辛いものもしょっぱいものも好きだからな。目的のためなら手段は選ばんよ。まあその結果この前体重が三桁を超えたが」
「節制してくれ」
「できる範囲で頑張る」
いつもの調子で小平と達夫はタクシーに乗り込んだ。狭い車内で小平といくつか昔の話をした。気が付けばタクシーは一軒の家の前で停まる。
その家は二階建ての可愛らしい家で、庭には花がいくつも植えられていた。母ルリも、そういえばいっとき庭にスミレなどを植えていた時期があった。子どもの頃のことだ。一度跳ねたボールを拾いに行くので踏み荒らしてしまったことがあったが、ルリは怒らなかった。その代わり、庭に花を植えたのはそれっきりになってしまっている。今思えば、申し訳ないことをしたと思う。達夫がそんなことを考えながら庭を見ていると、視界の隅で何かが動いた。
「ああ、おかえり」
そう言って二人を出迎えたのは、今の今まで庭で作業をしていたのだろう……ルリと同世代くらいの女性だった。彼女は白いタオルを頭に巻き、その上に麦わら帽子をかぶって、軍手を取りながらこちらに近づいてきた。土の匂いが瑞々しい。彼女は確かにおかえりと言った。もちろん達夫にも。なんだか不思議な気分だなと思ったが、小平もただいまと返すものだからどうすればいいか愈々わからなかった。何度か頭を下げる。小平はニコニコ笑ってこう続ける。
「元気でしたか。ああ、もう桔梗の季節なんですね」
「アハハ、元気元気、年取ってもいらんないよ。桔梗はねえやっと咲いたとこ」
「この人がこの前話してた会沢達夫さん。俺の友達」
小平がやっと切り出してくれたので、また頭を下げた。女性はあっはっはと快活に笑う。
「そんなん見りゃわかるよ。話聞いてたんだから。達夫さん、拝島茜と申します。よろしくね」
「はい、よろしくお願いします」
「大ちゃんのお友達のくせに真面目じゃないの、大丈夫?」
「あ、アハハ……」
愛想笑いを浮かべても、どこかしっくりこない。咄嗟にこの女性を得意ではないタイプだと達夫は思った。しかし茜はそんな態度を意にも返さず、笑って二人を家に誘った。
家の中は雑然としていた。まるで子どものころの自分の部屋のようだと思った。雑誌の切り抜き、読みさしの新聞、年季の入った壁には絵や写真が飾られていた。山の写真が多かったが、もとよりインドア派の達夫にはどこの山かを判別することはできなかった。
ふと奥に目を遣ると、達夫よりも若い茶髪の男性が奥から出てきた。少しチャラついてる感じがして、やはり達夫の得意なタイプではないと思ったのだが、彼は満面の笑みでこちらに手を振り駆け寄る。
「あ、小平さん!遅かったじゃないですか」
「これでも急いだんだ、ほらよ、酒」
「わーい!あ、この人が話しに出てた友達の人ですか?」
「あ、どうも、会田達夫です」
「拝島礼です……なんて、堅苦しいのは似合わないから、礼でいいよ」
「あはは……」
また、愛想笑いだ。これはダメかもしれないとすら思うのだが、小平の手前それを顔に出すこともできない。後ろからは茜が洗った手をタオルで拭いてやってくる、クロスの敷かれたテーブルに促され、椅子に座った。六人掛けのテーブルは花が飾られている。湯呑とお菓子が並ぶそこに、二階から降りて来る足音が聞こえた。
「あ、どうも、小平さん」
「ああ、久しぶり。あれ、なんか雰囲気違うじゃん、髪切ったの」
「ええ、随分前に礼に刈られましたよ……あ、どうも、玉川充と申します」
深々と頭を下げる黒髪で身なりのきちんとした……言ってしまえば少し地味目の男性は、なんだかこの中で一番達夫と話が合いそうな雰囲気ではあった。充は戸棚から名刺ケースを取り出すと、一枚の名刺を差し出す。小平が運営する会社の法務部に所属していることがわかった。言われてみればそういう雰囲気でもあるかもしれない。いやこれも偏見というものなのか。
「あ、すみません……ちょっと今日は名刺を持ってきていなくて」
「いえいえ、何かの縁があるかもしれないので」
深々と礼をし返すと、後ろで礼と小平が何か話している。
「あれ、ユキちゃんはまだ帰ってないの」
「そろそろ帰ってくるよ、今どきの小学生は忙しいんだから」
なんだかんだと五人で席に着く。勧められた緑茶は色合い良く、いい香りがした。盆に敷かれた可愛らしいペーパーの上に盛られたお菓子たちは、普段会田家にあるものとそう変わりはなかった。互いに軽く自己紹介をすると、達夫は小平にせっつかれ本題を切り出す。
「実は母のことで、この……彼に相談したら今日お誘いいただいた感じなんですけど……」
そう言ってしばらく、達夫は母のことをどう説明したものか悩んだ。自分のことを産んではいる、父もきっとそれなりに好きだったのであろう。でも彼女はずっと隠していた。女性に惹かれる母の一面は、達夫にとってはもっと早く打ち明けてほしかった話でもあり、聞きたくない話でもあった。どちらだなんてわからない。口ごもりながら、なんとか言葉を捏ねくり回し、やっとすべて話したころには、少し涙が浮かぶほどであった。
黙ってそれを聞いていた小平らは、達夫にそれぞれお茶やお菓子を勧める。少しぬるくなったお茶は苦みが程よく美味しかった。それを見ていた礼が切り出す。
「なるほどね……まあ、俺たちの話をした方がいいかな」
それを見て充も頷く。それから話し始めた話は主に礼と充の関係についてで、二人はパートナーシップを結んでいるカップルだということだった。制度のことはネットニュースで見かけた程度で、詳しいことは知らなかったし、実際にそういうカップルを見るのも初めてだった。礼は人懐っこく笑う。
「俺も母ちゃんに自分のことを言えたのは結構後だったし、いつだっけ?大学中退したときだっけ?」 
「言ってきたのはアンタが鍵師の修行から逃げてここに戻ってきたとき。でも、なんとなくだけどそうなんじゃないかと思ったときはあるよ」
出てくる言葉がいちいち引っ掛かるのだが、とりあえず流しておく。礼は盆の上のクッキーを一枚手に取り齧ると、少し考えるように首をひねりこう言った。
「まあ、なんだろう、俺なんかは偶然充と出会えて、偶然こうして母ちゃんたちと暮らしていけてるけど……一口にゲイとかレズビアンとかいっても、いろんな人がいて当たり前だからなあ。異性と結婚して、それこそ子どもがいる人もいるし……」
充がちらりと礼を見て、そのあとに達夫に目線を遣る。
「そうですね、僕は自分がゲイだという理由で実の家族とは縁を切ってしまったのですが、それも仕方がないかなと思います。でも」
「でも?」
「できることなら、もっと僕の話を聞いてほしかったと思います。僕の両親は結局、礼に会うことすらしませんでしたから」
充は厳格な家庭で育ち、いわゆるお受験をして小学校から有名私立校に通っていたのだと言う。両親はただ、充に安定した人生を送ってほしいと願い、環境を整えるために勉強をさせたのだろうと充は言う。だが彼にはそれが苦しかったと話す。
達夫はルリや和孝を思い出していた。けして彼らは達夫の進路や環境に口を出すことはなかった。もちろん、大学進学の時は多少助言をもらった。和孝は通いやすい大学にした方がいいと言い、ルリは自分の好きな分野を扱う大学に行けばいいと言った。高校生のころの達夫は小説家になりたい夢があったから、必ずしも大学に通う必要を感じていなかったが、今思えばそれもお見通しだったのかもしれない。作家は早々に諦め今は出版の道に進んだが、大学の時に学ぶコツを理解していなかったらこの道で食べることもできなかったと思う。
一方充は大学受験を失敗したのだと言う。2年間浪人したが、その頃は大いに荒れていたそうだ。
「自分がゲイだと言うことはもうわかっていましたけど、親に言える状態じゃなかったです。ネットで何人かと知り合いましたけど……なんというか、価値観が合わなくて」
そしてやっと入れた大学で礼と出会ったという。礼は礼で高校生のころから遊んでいて、ゲイバーに潜り込んだり、一時は体を売ることもあったそうだ。礼の父……茜の夫は家族に暴力をふるう人で、礼が中学生のころに離婚したという。充との出会いはけしてドラマティックではなかったと言うが、彼と話していて礼は自分が変わったと断言した。
「それまで勝手に生きて来たけど、この人がいるからちゃんと戻ってこなきゃって思うようになった」
「礼は頭が良いのにそれを無駄遣いしているように見えて、だから手が離せなかったんですよね。心配だったし、それは都度伝えていました」
「母ちゃんの前で母ちゃんみてえなこと言うなよ、恥ずかしいな」
礼が唇を尖らせる。素直に振舞う彼は見た目だけなら奔放さを感じるし、その過去に特に驚きはなかったが、彼がしっかり受容されて暮らしていることの方が興味深かった。茜が湯呑を置いて笑う。
「実際母ちゃんみたいなもんでしょ。一番あんたが甘えたかった時期に私がちゃんと向き合えなかった自覚があるんだから。充さんがちゃんと礼の手を握ってくれたのは私としても有難いよ」
礼を見つめる茜の眼差しは優しい。なんだか最初に馬が合わなさそうと思った自分が少し恥ずかしい。人柄を一目で判断されることなど、達夫だっていやなことではないか。
「ただいま!」
そのとき、外から弾んだ声がしてバタンと勢いよく扉が開いた。目の前には赤いTシャツにGパン、茉莉と同い年くらいの少女が飛び込んでくる。二つに結んだ髪を揺らして、彼女は息を切らして入ってくる。茜はそれを見て笑いながら頷く。
「おかえり、手を洗っといで」
「お客さん来るっていうから走って帰ってきちゃった!こんにちは!」
「こ、こんにちは……」
礼が立ち上がって彼女を洗面所に促す。慣れた口調だ。
「わかったから手を洗いに行って」
「はあい」
少女は紫色のランドセルを大雑把に置くと洗面所に走っていく。全開で水道を使っているのだろう、ざばざばと水の流れる音もした。
礼は離れたところでその様子を注意深く聞いているようだった。
「あの……彼女は?」
達夫が目を丸くしていると、小平がそういえば言ってなかったなと椅子に凭れる。椅子が壊れそうなのでやめてほしいが、存外頑丈らしい。
「あの子はユキちゃん。礼の姪……だけど、いろいろあって茜さんの養子になって一緒に住んでる」
礼が洗面所を伺いながら何故か得意気に断言する。
「まあ、俺の妹だよ」
「礼ちゃん!タオルない!出して!」
洗面所からユキの大声が響く。相変わらず水の音がする。礼ははいはいと洗面所に向かう。
「タオル出してから手を洗えっての」
「だって水出しちゃってから気が付いたんだもん!」
礼とユキのやり取りを眺めていた。傍から見たらどのような家族なのかわからないだろう。それを知識としては持っていたはずだし、エマと結婚するにあたり、むしろ自分たちが好奇の目で見られることを意識していたはずだ。
しかし、話していて腑に落ちたことはあった。礼も、充も、茜も、ユキも……普通だ。なんの違和感もない。ただの家族であって、そこに個別の特別性はあるだろうが、大きなくくりで見ればなんの特別さもない。充が礼に声をかける。
「ユキちゃんのタオル、別に用意して掛けておこうか?」
「いや、でもタオルはその都度取り替えた方が衛生的じゃない?」
「ううん、どうしようか……あ、すみません、いつもこうで」
充が達夫に気が付いて笑う。どんなに記事を読んでも、本を読んでも、映像を見たところで、こういう日常を送る人々に流れる人々の自然さまではわからない。少しずつ同性愛者やセクシャルマイノリティをめぐる目線も制度も変わってきて、必ずしも良いことばかりではないが確かに前進はしているらしい。ユキはその間、小平の隣の椅子に座り、お茶を真似して飲み始めた。小平は独身で子どももいないが、ユキと楽しそうに学校の話をしている。
達夫は充たちに少し茉莉の話をした。聞けばユキは茉莉の一学年年下だそうだ。昔から実年齢より落ち着きがあり、大人びていた茉莉の話をしていると、途端に家族が恋しくなった。その中にはルリもいる。
「達夫さんって、結局どうしたいの?ちょっと失礼な言い方かもしれないすけど」
礼がそう言う。達夫はこの感情の変化をなんとか言葉にしようとした。
「僕は……今まで通り、母と妻と子との関係を続けたいですね。なんだか、それが相手の女性のせいで崩れちゃいそうで……怖かったんですけど、でも」
「うん」
「そこまで大きな変化って、ないのかなって……ううん、上手く言葉にできないんだけど」
物事に変化のないものというものはなくて、少しずつ変容するのであろう。年齢やさまざまな事情は避けられない。だが、それでもそれは日常に立ち返るものだと思う。
「あんまり関係ないことなんだけど、昔はゲイ同士のコミュニティって限られた場所でしかなかったけど、今はそうじゃなくて……だからそういう場所の文化って言うか……人が集まらなくてもよくなってきていて。もちろんそれでもコミュニティを守るために集まっている人だっているし、俺もそういうところにいたことがあるから、あっていいとは思うんだけど……なくなってもいい世の中になったほうが、なんだろう、安全が広い?っていうか……なんかごめん、俺の方がうまく言えないんだけど」
「わざわざゲイタウンにいなくても、安全が保障される社会であればその方がいいって礼は言っていると思うんだけど、違う?」
「……たぶんそれで合ってる、ありがと」
充の補足に礼が笑う。幸せそうだ。それは達夫がどう思っていようが事実として、彼らは彼らの力で生き抜いている。そう思うと、やはりルリと向き合わねばならない、そう思った。
それから拝島家で暫く話をして、夕方には四人に見送られて再び小平と共に駅に向かった。タクシーの中で、達夫は呟いた。
「いろいろな家族の形があったほうがいいとは思うんだけど、いざ自分がとなると躊躇しちゃうんだよな」
小平は笑う。狭い車は彼の動きとシンクロするように上下した。
「お前さん、人は善いけどちょっと慎重すぎるんだよな。まあ俺も決めつけや押しつけはしないつもりだが、もう一回、腹割って話してみたらどうだ?家族だから話さなくてもわかるなんて、そんなことはないからな」
「……そうだな。ありがとう小平」
「いいってことよ」
ついでとばかりに小平に次の仕事の催促をされ、達夫はまた、日常に戻っていった。しかしその経験は、達夫に一つの決心をさせる。

「アヤさんに会いたい。俺も家族を連れて来るから、みんなで話そう」
ルリは達夫からの電話を疑いながら取った。詳しくは今度会った時にとは言っていたが、あまりにも口調がいつも通りで不安になる。
このまま終わってしまうのではないだろうか。アヤと会うと言うのだからそんなことはないはずだと思うのだが、ルリが打ち明けた時の達夫の憔悴しきった表情を思い出すと、なんでこんなことを言ってしまったのだろうと後悔の念もある。自分だけのことしか考えていなかったのではないだろうか。それに達夫に先んじて告げたのも間違っていたのではないか、彼が言う通り、エマを除け者にするようなことだったのではないだろうか。
そんなことがあって、アヤにこのことを告げるのにも勇気が要った。食後、コーヒーを飲みながらアヤは少しばかり考えて、こう言った。
「私の伯母に会いませんか?」
「伯母さん?いいけれど……どうして?」
「彼女、女性専用アパートの管理人をやってるんですけど、ルリさんと年齢も近いしいろんな女性を見てきているし、話しを聞いてくれるかもって……ていうか、私も会ってほしいなって思っちゃった。家族で私がレズビアンなこと知っているの、その人だけなんです」
正直息子のことでいっぱいいっぱいで、誰かに会うのも少し躊躇うことであったが、アヤがそう言うのだ。達夫との約束の日取りをまだ決めていない今だからこそ、何か参考になるかもしれない。それ以上に、誰かに話を聞いてほしいのは確かだ。
ということで、よく晴れた空の下、ルリはアヤに連れられ猫山荘にやってきた。そこは隣の市の住宅街にあった。アヤの休みに合わせ平日の外出となったため、白昼の住宅街は人の気配がなかった。そんな中、アヤは一軒の家の前で立ち止まった。
「ここです」
「え?ここ、アパートなの?」
「そうですよ、ほら、一応外からそれぞれの部屋に入れるようになってますし、大家さんの部屋からも戻れますけど」
そう言われて建物の横を見ると、階段が見えた。建て増しを重ね導線はめちゃくちゃらしいが、それなりにプライバシーは確保されているらしい。外から見ると一軒家にしか見えないから、家の前のポストが部屋ごとに分かれているのが不思議なくらいか。
「万里さーん、アヤです~」
そう言ってインターホンに話しかける。万里という名前にルリは内心動揺する。まあ、孫と同じ名前の程度だと言い聞かせた。
しかしその行為はドアを開けた女性の姿を見てその願望はあっけなく崩された。
「おかえりなさい」
そこにいたのは……一目でわかった。何よりその声が、ルリをこの場から攫う。その瞬間様々な感情が、ルリが誰からも見えないように押し留めていたものが、まるで完全に開け放たれたあちこちに飛び跳ねるようだった。
「え…………片山、さん?」
震える声が漏れる。名前を確認することは確かに怖かった筈だが、そう思う前に言葉はルリの唇を染めた。女性も暫くそんなルリを訝しげに見ていたが、しかしはっとした表情をしてこう返してきた。
「あれ……?もしかして、嶋田さん?ルリちゃん?」
「え?」
アヤがぽかんとしているが、ルリはそれらを説明することができなかった。彼女……忘れもしない、片山万里子はすでにそのポニーテールを切ってしまっていたが、それでもその溌溂とした陽の当たる場所の香りのする声を懐かし気にルリに投げる。
ルリはうんうんと首を縦に振ることしかできなかった。万里子はアヤとルリを交互に見た。
「そんなことあるのね……久しぶり、嶋田さん」
「こちらこそ。あの……」
「ちょっとまって、立ち話もなんだから……中に入ってちょうだい、座ってちゃんと話したいの。アヤちゃんも入って、元気そうで何よりだわ」
そう言って促され、アヤと二人で家に入った。広い玄関には様々なデザインやサイズの女性用の靴が並び、スリッパ立てには来客用のほかに住人用と思われる色違いのスリッパがあった。
玄関から抜けるとそこはリビングで、落ち着いた色合いの家具で揃えられ印象を与える内装だった。ただ、何故かリビングから玄関に抜ける短い間にホワイトボードが置いてあった。すぐに住人との伝言ボードと気が付いたが、少し驚いた。
「ごめんね、そろそろ住人の一人が起きてくるころだからソファーに座ってて。コーヒーとお茶、あと紅茶があるけどどうする?」
「私はルリさんと同じで」
「じゃあ……コーヒーで」
そう言われた万里子が出すコーヒーは、可愛らしい猫の絵が描かれたマグカップの中で黒々としていた。信じられない。指先すら震えるようだ。まるで寒空の下でスープでも飲むかのようだった。彼女がいる、目の前に。しかし何故だろう、会って話したい気持ちがあったはずではあるのだが、何を話せばいいのかまるで分らない。
万里子はソファに掛けるとコーヒーに口をつけ、話を切り出す。
「ええと、なんていえばいいか。まずはアヤちゃんに説明するべきね。私と嶋田さん……ルリちゃんは中学校が一緒でね。よく休み時間に話したり、お昼を一緒に取ったりしていたの」
「そうなんですか?」
「う、うん」
「ルリちゃんに説明すると、アヤちゃんは私の姉の子なのよ」
「そうだったんだ……」
姉がいたことはなんとなく聞いていた気もする。懐かし気に目を細めるその姿は確かに年を取ってはいるが、あの頃のままだ。
確かに……初めて会った時にそう思ったように、アヤと万里子はよく似ている。まあ、ルリは相変わらずしどろもどろでろくに万里子の方をよく見られないのだが。そんなルリを訝ったのだろう、暫く黙っていたアヤが、こんなことを言い始める。
「もしかして、ルリさんの初恋の相手って……」
一番悟られたくないことだった。確かに、状況は全て符合するし、なんなら真実もその通りではあるのだが、アヤにも万里子にもそれは知られたくないことだった。ルリは思わずマグカップを取り落としそうになり、浮つく声で否定するが、うまくできない。
「え、ちょっと、待って、アヤさん……や、その……」
「ふふ、知ってるわよ」
「え?」
万里子の声に思わず、ルリは万里子の方をしっかり見てしまった。彼女は明るい表情のまま、ルリを眺める。
「ルリちゃんが私のこと好きなのは知ってたわ……というか、アヤちゃんの話を聞いていて後でわかったの。アヤちゃんは小さいころから女の子が好きな子だったから、もしかしたらルリちゃんもそうだったのかもって。アヤちゃんはね、お父さんにもお母さんにも何も言えなくて、頑張ってたんだけど……いつだっけな、言ってくれたの。あの時、思い出したの」
万里子の言葉は暖かく、それでいてまっすぐだった。彼女に気持ちを知られていた気恥しさもさることながら、それがアヤによって齎されていたことだなんて、運命の悪戯とは言うがこれはまさに悪戯としか言えなかった。それもまるで子どもが後先考えずに作る物語のような。
「諦めていたのに……あなたには静子さんがいて、卒業式のあと……焚火しているのをたまたま見かけたから……」
「焚火?」
アヤがこちらを見て、そのあと万里子を見た。万里子はああ……と天を仰いで、あれね、と呟いた。その声は万里子に似合わない少し冷たいものでもあった。そこに触れるのが怖くなり暫く沈黙が流れたが、それを破ったのは二階から響く足音と女性の嘆く声だった。
「ちょっと!万里さん起こしてよ~……あれ?お客さん……って、アヤちゃんじゃん?あれ?」
奥の階段から降りてきたのは、ルリよりも小柄で、あどけない少女のような女性だった。年齢はわからないが、少なくともアヤよりは年下だろう。短めのボブヘアをかきあげ、こちらに頭を下げる彼女は明らかに寝起きといった感じで、どう見ても部屋着だ。
「紹介するわ、うちの住人のメイちゃん。システムエンジニアをやってるのよ、とっても優秀なんだから」
「こんにちは、花小金井メイです……あの、すみません、夜勤明けでこんな格好……もう万里さん困るよ~言っててほしかったなあ」
「寝てるの叩き起こしたら可哀想でしょ」
「お客さんの前で部屋着で降りてきちゃった方が可哀想でしょ!」
軽い口調で言いあう二人は、まるで家族のようだ。住人と大家にはとても見えない。そこに入れないもどかしさをふと思い出す。静子と万里子のあの関係。今思えばルリがあの場にいたのは、不思議な縁だったと思う。
「あの、私……片山さんのクラスメイトだった会田ルリと申します……」
ルリがそう言うと、万里子が眉を上げる。
「あら、今は会田さんなのね」
笑う万里子にそう言えば何も言ってないことを思い出した。メイはそんな二人をきょとんと見ていたが、気にしていないのか階段脇のキッチンにある冷蔵庫から牛乳を取り出し、コップに入れると流し込むように飲んだ。
万里子は静かに話し始める。あの物静かだが少し湿度のあるクラスメイトの話を。
「静子はね……ううん、これは言わないって約束だったんだけどさ、まあ、卒業証書を燃やしてるところ見られてたんだから仕方ないか」
「あれ……卒業証書だったの?」
「うん、あの子、あのときもう県外に結婚が決まってて……本人はすごい、それを嫌がってて……今思えば、助けてあげられたかもしれない。静子はずっと高良くんが好きだったからさ」
「え?」
静子のあの時々見せるルリへの牽制のような眼差しは、万里子との間に入るなという理由ではなかったらしい。
しかしあの末医師……当時は医師ではなかったが……彼のことが好きだったなんて信じられない。彼女の視線の先に、あの気難しい少年がいただなんて思いもしなかった。それに結婚だなんて。全く聞いていなかったし、ルリの世代でもその年で結婚は流石に早い。
「え、知らなかったの?」
「あ、あ、いや……うん、知らなかった……あの子は万里子さんのことが好きなんだと思ってた……」
「あはは、まあちょっと私に依存はしてたんじゃないかな、あの子、私にしか話しかけられなかったみたいだし。高良くんは高良くんで人に興味ない感じだったから余計にね。でもルリちゃんが話しかけてくれたから嬉しいって、静子ずっと言ってたよ」
「静子さんが……どうして?」
そんな風ではなかった。彼女は何も言わなかった。ルリが万里子に惹かれて声をかけたことを拒絶もしなかったが、同時に歓迎もしていないと思った。それは静子が圧倒的に万里子の隣にいるが故に許されているだけだからだと思っていたのだが……万里子は笑う。
「あはは、だってルリちゃんは高良くんと仲良かったじゃん。一回ルリちゃん越しに話せたんだって。すごい喜んでたのよ」
「全然覚えてない……そんなことあったかしら……」
全く記憶にない。静子が喜んでいる姿など想像もできない。ああ、まただ。ルリがどれだけ努力しても、この二人の関係に入れない。
しかし、それでも彼女たちに関わったのは事実だ。万里子はそう言いたい風にケロリと笑う。
「意外とそんなものよ」
「……今、静子さんって……」
「ううん、そうか……そういう話になるよね……」
万里子は少し俯き、暫く言葉を転がしているようだった。話したくないのであれば、話さなくていい、ルリがそう言おうとした瞬間に、万里子は温くなったコーヒーをぐいっと飲んで話し始めた。
「いつだったかな……20代半ばで、死んじゃったって。なんでかは知らない。病気かもしれないし、事故だったかもしれない……どっちでもないかもしれない。でも本当に人づてに知っただけ。だからお葬式に私も呼ばれなかったの。あとでお香典を送ったんだけど、そっけなくお返しが来ただけ……相手の顔も知らない。名前だけ知ってる」
20代の姿でこの世から去った静子は、きっとその名の通り静かに人生を終えたのだろうか。望まぬ家族に隠され、親友だった万里子の弔問も受けず、彼女は今何を語るだろうか。骨となった若いままの彼女は、老いた二人になんと言うだろう。
万里子はこうも続けた。静子は少し難しい家庭の出身だったのだという。そう言えば、ルリは思い出そうとするのだが、今となっては静子の顔が上手く思い出せない。何かを諦めたような、悲しい顔をしていた気はするが、普段からそうだったわけではないはずだ。ただ、彼女の死を悼むことしかできない。
「そう……そうだったの」
「悔しくて仕方ない、本当にそう。そう言うのもあって、私は今まで結婚しないできた」
ルリは驚いて顔を上げる。確かに女性専用アパートと聞いた時点で薄々勘付いていたことであった。姪のアヤが懐いていると言うことも、よくある独り身の女性にあることだと言うことは知っている。伯母のほうが実の親より親代わりなんてよく聞くことだ。しかしその根底が、彼女のそう言った経験からくるものだと知る人は少ないだろう。静子がそれを望むとも思えない。
「万里さん、そうだったんだ……」
「うん、アヤちゃんがカミングアウトしてくれた時に……本当は話すべきだったかもしれないけど、今話せてよかった。この日のために言わなかったみたいだけど、本当に違うからね……でも、ルリちゃんがアヤちゃんとかあ……そうか、そうなんだね」
「な、なんだかそう言われると急に恥ずかしいんだけど……」
万里子はルリのそんな言葉にちょっと意地悪に笑った。
「あら、アヤちゃんと付き合うことは恥ずかしいこと?」
「そうじゃなくて、ええと……なんだか、私が貴方にずっと浮かれているのが全部わかられちゃったみたいで……」
しかし、今となっては、その気持ちも何故だろうか凪いでいる。それは隣にいるアヤのお陰なのだろうか。彼女が、足場のないふわふわとしたルリの手を取って、地上に立たせてくれたのかもしれない。アヤはそれに気が付いているのかいないのか、万里子に食って掛かるようにこんなことを言い始める。
「万里さんは知らないと思いますけど、ルリさんが初恋の話するときの顔めちゃくちゃ可愛いですからね?」
「アハハ、急に惚気ないでよ、よかったよかった……いや、なんか昔に戻るっていうけど本当に戻るね……じゃあ今度はルリちゃんの話を聞かせて」
請われて、ルリは少し自分の話をした。末医師の話も少しした。ルリが見合いで結婚した話。子どもができた話。何事もなく進んだ家族の話。そして、アヤとの出会いと再会について。そうこうしているうちに夕方ごろになっていた。
楽しそうにそれらを聴いていた万里子は時計をちらりと見ると、こちらに振り返る。
「そろそろみんなが帰ってくるから、ご飯食べていかない?うちの子たちに言ってるから買ってきてくれるはずよ」
「あら、そんな……いいのかしら」
「もうこっちはそのつもりだもの、じゃあ決まり。一応確認しておこうかな」
そう言って万里子はスマートフォンを手に取り、電話をかける。夜勤のメイ以外の住人にはアヤたちの来訪を伝えているようだ。アヤが嬉しそうに肩を揺らす。まるで子どものような振る舞いがルリを鮮やかにどきりとさせる。
「万里さん!私、お酒飲みたい!」
「わかってるってば……ああ、蛍ちゃん、今どこ?あらそう、ありがとう。いいわね~アヤちゃんがお酒を所望しているわ、アハハ、わかったわかった。はいはい……」
電話する万里子の横でアヤがルリに嬉しそうに話しかけてくる。
「蛍ちゃんはメイちゃんのお友達なんですけど、めちゃくちゃ面白いんですよ~見た目は可愛いですけど」
「なんだか、万里子さんも楽しそうで本当によかった……気にはなっていたから」
電話する万里子を見ていたら、アヤがルリの前にずいっと身を乗り出す。急に顔が近くて慌てるが、アヤはそのまま切り出す。
「ルリさん……まだ万里子さんのこと、好きですか」
「も、もう……なんだったか忘れちゃった。今はアヤちゃんが一番大切だもの、今思えば、恋に恋してたのかもしれないし……」
「……そうですか、私はルリさんだけが一番好きです」
ルリの頬が熱くなるので早く離れてほしい。好きではあるし本当に大事なのだが、精神が追い付かなくなってめちゃくちゃになりそうだ。それを見てアヤの表情が、少し明るくなる。万里子とルリ、そして静子の話を聞いて、思うところはあるのだろう。
だからと言ってこんなにストレートに愛情表現をされたことが今まで経験がなさ過ぎてどうしていいかわからない。どんな表情をすればいいのかとか、なんて言えばいいのかとか、一つ一つがかみ合わない。
「じゃあ気を付けて帰りなさいね……はあ、あんたたち、惚気合わないでよ、電話してる時にニヤついちゃうじゃない。それになんだかフラれた気分~!」
電話を終えた万里子がもう、と手を振る。ボディランゲージの大きなところは昔からだ。明るく、それでいて優しい彼女の反応にアヤも応える。
「気分じゃなくてフラれたんですよ!ルリさんは今は私が好きだって今言ったもん!」
「ちょ、ちょっと」
三人で騒いでいると、再び二階からトタトタと軽い足音が響く。先ほどまで寝起きの様相だったメイが身綺麗にして降りてきたのだ。
彼女は三人の様子に呆気に取られていたが、そのうち大袈裟に声を上げる。
「あぁ、よかったぁ、喧嘩しているのかと思った」
何を勘違いしたのか、へたり込む仕草まで見せるメイに、アヤが笑う。
「もう、すごい早とちりするじゃん。声そんなに響いた?」
「びっくりした……いや、大丈夫だけどさぁ」
笑いあう二人に微笑んでいると、万里子がそっとこちらに視線を遣る。
「アヤちゃん、いい子でしょ」
「……うん」
「さっきも言ったけど、ルリちゃんでよかったわ。息子さんの話だけど、たぶん大丈夫よ。ダメならダメで、死ぬわけじゃないし」
万里子の言葉に驚いてその顔を見ると、万里子はまっすぐこちらを見つめている。ああは言ったが、過去の感情をなかったことにすることはできない。でも今なら、過去の自分にそっと声をかけることくらいはできるであろう。
「ありがとう……片山さんのこと、好きで良かった」
「どういたしまして」
そして住人たちが帰ってきた。松原蛍という住人はアヤの言う通り顔立ちの整った綺麗な女性だったが、アヤとほぼ同等の酒豪で酒をたくさん買ってきた。もう一人は王花琳という中国出身の留学生だったが、彼女は自ら食材を買いキッチンに立ち、母から教わったという料理を再現してくれた。今はその三人と仲良く暮らしていると言う。酒の入ったメイが話す仕事の愚痴を笑い交じりに聞いたり、蛍とアヤの酒飲み合戦を宥めたり、花琳と少し彼女の田舎の話をしたりした。万里子はいつも笑顔だった。今までの住人の写真も見せてくれた。
帰り際、アヤと夜道を歩く。万里子のような生き方も、あると思う。しかし、その理由を考えた時に、果たしてそれでいいのだろうかとも思ってしまった。ルリが言えた口ではないことはわかっているし、今が幸せならばそれでいいとも思う。
アヤはあれだけ酒を呑んだのにも関わらず、楽しそうに歩いている。
「私、ルリさんにみんなを紹介できてよかった……親とはもう、しばらく連絡とってないので」
「いつか会えたらいいわね。勿論、アヤさんが望まないのであれば、それでもいい」
アヤが家族との暮らしで生きづらかったことは、もう知っている。しかし、いつか、何かのきっかけで人というのは変わってしまうと思う。ルリもそうだったから。確かに理想論ではある、会えないだろうとも思っている。しかし、そういう時が来たら、笑って会おうと思った。
「じゃあ、また今度」
そう言ってアヤと別れた。それは達夫たちが来る十日前のことだった。

そしてその約束の日。ルリの家でアヤとエマ、達夫、茉莉が揃うことになった。前日、アヤもルリもよく眠れなかった。時間より先にアヤが家に来たので、ルリと二人でそれを笑いあった。夏の始まりで、開け放した窓からは陽射しが燦燦と注いでいる。
車の音がし、達夫がやってきた。どきどきしてドアを開けると、やはり緊張した顔の達夫が立っている。向こうではいつも通りのエマと茉莉がいる。エマはアヤを見かけると、ああ、と手を叩いた。アヤもエマに頭を下げる。全員が家に入りリビングに集合すると、アヤは三人の前にアヤを紹介した。
「こちら、牧原アヤさん」
「お久しぶりです」
「エマさんとは入院した時に会ったことがあるわね」
「あの時はお気遣いありがとうございました」
「いえいえ」
エマとアヤがそれぞれ挨拶を交わしていると、茉莉が割って入ってくる。もう今か今かと待っていたのだろう。
「こんにちは」
「この子が孫の茉莉」
茉莉はアヤをじっと見つめる。アヤは茉莉の背丈に合わせて少しかがむと、笑って挨拶をした。
「どうもこんにちは」
「この人がおばあちゃんの彼女ってこと?」
「あはは、そうなります」
茉莉はふうん、と言うとアヤをよく観察しているようだ。茉莉にどう説明するか悩んでいたのだが、エマが予め説明していたらしい。
確かに、その方がいいと思う。アヤの存在を茉莉に隠すことは、茉莉にとって大きな裏切りになってしまうのではないかと思ったからだ。それは達夫への後悔でもある。しかし、その時と今では状況が違う。今は、自然体で茉莉たちにアヤを紹介することができる。
後ろから達夫が緊張した顔のまま声をかける。
「どうも」
「あ、初めまして。牧原アヤです」
「ああ、どうもご丁寧に……会田達夫です」
そう言って何故か達夫は名刺を出したので、アヤも鞄から名刺を取り出す。エマが呆れたように笑った。
「どうしてここで名刺交換するかなあ」
「あはは……」
そうこうして、テーブルに揃った。もともと四人掛けの小さなテーブルに詰めて座り、コーヒーを出したところで達夫が切り出した。
「あの……最初に僕の考えを言いたいんだけど」
「うん」
達夫はしばらくして、皆の顔を見ながらこう話し始める。
「僕もエマと知り合って、自分たち夫婦が特別だとずっと思ってたんだけど、実際そこまで他の夫婦と変わらないと思うんだ。なんかよくわからん偏見に晒されて、苛立つこともあったし……普通なのにって思うこともあった。多分さ、それと同じで、母さんとアヤさんも、たぶんそんなに特別に見なくていいと思ってて……ただ、僕は母さんと父さんのことを知っているから、母さんがずっと、嘘をついていたんじゃないかって思ってて」
「うん」
「それで、なんか……それが寂しかったんだと思う。でも、今はそうじゃないと思うよ」
「……そう、寂しかったのね」
「あのね、ママ」
エマが、頷きながら達夫に続いて話した。彼女もまた、日本では外国人というマイノリティだ。達夫と結婚してもそれは変わらない。エマは、しかしそれに笑顔で立ち向かうことで切り開いてきた。そして達夫と結婚したのは、そんな彼女を心から尊敬してくれたからだと言う。
そんな達夫にルリとアヤの話を打ち明けられ、エマはこう言ったのだと言う。
「ママはママの選んだ人と幸せになればそれでいいんじゃない……って言ったの」
「今は僕もそう思う。今まで通りの僕たちの普通に、アヤさんを足してもそんなに変わらないと思っていて……説明が難しいし、普通ってなんだよって話だけれど……とにかく、母さんも僕も親子だけど、それぞれが自分で決めて生きることの障害になるのは違うと思った」
茉莉は砂糖と牛乳の入ったコーヒーを少しずつ飲みながら、アヤをじっと見ている。
「看護師さん、大変?」
茉莉は突然アヤにそう訊ねる。大人たちが目を丸くしていると、茉莉はエマのバッグからタブレット端末を出して、画面をアヤに見せる。ルリものぞき込むと、それはいわゆる電子書籍だった。子ども用に編集されたもので、『医師になる方法』と書かれている。
「茉莉、将来お医者さんになりたいんだけど、病院って大変?」
「病院にもよりますけど……例えばうちなんかだと、医者と看護師他のスタッフ……例えば介護さんとか、リハビリさんとか栄養士さんとか、いろんな人がいるんだけど、全員で患者さんの情報をやり取りしないといけなくて、それがちょっと大変」
「そうか……お医者さんって、女の人どれくらいいるの?」
「最近は増えて来たけど……まだ看護師の方が多いかな、うちの病院は男の人の看護師って三人しかいないんだ」
アヤと茉莉はそう言って病院の話や、看護師から見た医師の話をしている。ルリはエマにこう訊ねた。
「茉莉ちゃん、お医者さんになりたいって、初めて知ったわ」
「最近ね、総合内科医が主役のドラマがあって、それでなりたいって言い始めたの。最近塾通いも始めて」
そのドラマはルリも見ているものだった。そうか、こんな風に何かになりたいと言うきっかけができることもあるのだ。女性内科医が様々な難しい診断を迫られるシーンが面白い。アヤは勤務スケジュールの都合でドラマはあまり見られないのだが、存在は知っていたらしく、頷きながらこう言った。
「もちろんドラマと現実は違いますけど、茉莉ちゃんみたいな明るくて挨拶ができる人がお医者さんになってくれると、看護師は仕事がしやすくていいです」
「それって、挨拶しないお医者さんもいるってこと?」
「……まあ、全員が全員、そうではないけどね……あはは」
茉莉とアヤがソファに移り病院や看護師の話をしている中、達夫がルリに向かってこう言った。
「この前は……ごめん。本当に、何も知らないで決めつけて、なんだか言った直後から自分の中でも『違うな』って思っていたんだけど……実はさ、あのあと仕事先の友人とちょっと会ったんだよ。それで、いろんな家族の話をしたり、実際会いに行ったりして……それで出た答えが、さっきのなんだ」
「私も……ごめんね。エマさんのことは本意じゃないの。一緒にいた時間がもちろん達夫の方が多いから、その分私も罪悪感があったの。でもね……あなたがその友達と会ったように、私も会ったのよ。初恋だった人に」
「え?」
「なんだかね、会って話したら……今好きなのはアヤさんで、あの人じゃないってわかった。もちろん、家族としてお父さんも大切。でも、だからと言ってもう隠したりはしたくない。あなたにも、エマさんにも、茉莉ちゃんにもね」
そうか、と達夫は頷く。きっと思うところはそれぞれあるはずだ。しかし彼はこう言った。その目には優しさが含まれていた。いつも通り、普段の達夫だ。彼は優しい。思えば和孝も、口には出さないがこういう目をよくする人だった。
「いつか、その人に僕も会いたい。母さんが好きになる人に興味がある」
「私も、あなたのそのお友達に会いたいな、いつか会わせてね」
「ママ!アヤちゃんとLINE交換していい?」
「ああ、じゃあ、グループLINEに入ってもらおうか」
「そうね」
アヤは笑って立ち上がる。緊張が抜けたのか、達夫の提案にほっとした顔をした。アヤは家族の話をあまりしない。これから聞くこともあまりないだろうが、彼女の中で、新たな家族としてエマや達夫、茉莉が加わるのであればそれは嬉しい。
「いや、いいんでしょうか……なんだかトントン拍子で……緊張してたから余計びっくりしちゃった。あ、LINEこれです」
「うん、だって家族だもの、私もアヤちゃんって呼んでいい?エマって呼んでいいから」
「そう……そうだね。いきなり呼び捨てはちょっとあれだから、エマさんで。あと達夫さん、よろしく」
「じゃあ僕はアヤさんって呼ぶよ」
茉莉はその後、アヤと個別でLINEを交換したらしい。嬉しそうな茉莉に、達夫も安堵の表情を見せる。
「実はさ、茉莉にどう説明するかとか、茉莉がどう思うか悩んだんだ……でもエマの言う通り、会わせて正解だった」
「でしょ?子どもだって、ひとりの人間なんだから」
達夫がコーヒーを淹れる。当たり前にキッチンに立つ彼の後ろ姿を見て、ルリはエマと達夫の関係性を羨ましく思うと同時に、自分とアヤもきっと大丈夫だと思った。
「じゃあ、今日は家族が増えたってことで、何か美味しいものでも食べに行こう!」
エマの提案にそれぞれが笑顔で、その日の夕食をどこで過ごすかを調べ始めた。
これはルリに家族が増えた最初の日に至るまでの話で、この日からが新たなスタートとなる。新たな日々を祝福するように、日の長くなった空は美しい夕焼けに染まっていた。

2025年6月8日