ナージーは捨てられた子だ。母はナージーの父である男に犯されて身籠った。
母はそのことを多くは語らなかったが、戦争が引き起こしたことなのだろうということは知っていた。
母とその夫は敬虔な信仰者であり、ナージーの存在を受け入れることには多大な犠牲を払った。育ての父は大人しく穏やかな男で、文学者でもあった。彼は血のつながらぬ子を受け入れる代わりに、悪魔によりこの世の不幸を全て押し付けられた預言者の名をナージーに押し付けた。今もなお、その名前で呼ばれると虫唾が走る。
妻を守れなかった己の弱さを赤子になすりつけたのだろう。
両親とは違う肌と目の色のナージーは、両親ほど烈しい差別にさらされることはなかった。その点は実の父親に感謝していることだ。それ以外は何の感情もない。学校には通ったが、いつもどこか冷たい風が吹いていた。
母を殺したのは夕方の頃だったと思う。血に染まったナイフで、とっくに生き絶えた彼女の顔をずたずたに切り刻んだ。バスルームに引きずると、着ていたワンピースを切り裂いた。血溜まりの中に浮かぶ顔のない母のからだは、まだ女としての力を絶やさず持っていた。ナージーはそれ以来、女を抱いていない。
家を飛び出て、初めて知ったことだらけだった。目に触れる色も、耳をくすぐる音楽も、家の中では知り得ることのないことだらけだった。娼婦という存在もその頃知った。
食い扶持に困っていたとき、とあるコロニーの裏社会の顔役に気に入られた。女を抱くことに興味がないが、犯される女には興味があると答えると、彼がオーナーをしている店で働くことになった。表向きはホテルだが、実態は売春宿だった。娼婦や男娼を何人も抱えるそこで、ナージーは一人の男に出会った。
……実在したのか。初めて見た時は何故かそう思った。世界が閉じていたナージーは知らなかったが、彼は失脚したあと世間的には死んだことになっていて、あちこちで私刑的に輪姦され、すっかり人が変わっていた。
少し前にテレビで見た彼は、随分と堂々として、不遜げな態度だったではないかと思ったが、度重なる陵辱に憔悴しきった表情で、ナージーを見るとびくりと体を萎縮させた。
ナージーは彼……ギルバートの世話役となった。数人のスタッフが客を取る前と後のギルバートの体を管理していて、そのうちの一人になったのだった。
ギルバートは、他の男娼や娼婦とは明らかに違う毛色の客が圧倒的に多かった。彼らは多額の金を払い、怯えて抵抗ひとつできないギルバートを押さえつけ、泣き叫ぶ声を楽しみながら犯していた。モニタでその様子を見ていたが、正直なところ、何がいいのかさっぱりわからなかった。
ナージーの他にギルバートの世話をしているスタッフは、特にギルバートが仕事を終えた後始末をするときにその体を抱いていた。全員に確認したわけではないが、おそらくナージー以外の全員がギルバートとなんらかの性的な関係にあったと思う。ギルバートは抵抗をしない……他の男娼や娼婦たちと違って、泣いたり嫌がることは許されているそうだ。そういう態度をとった方が客が喜ぶからだというが……とにかく、他のスタッフがギルバートを抱いている私的なビデオを見せられたことすらある。店としては本来は罰則事項なのだろうが、ガス抜きとして放任されているようだった。
どのみち、ナージーには関係のないことだった。
「ナージー、ギルちゃんとこ頼む。今日の客の後、だいたいぐずるから」
「ああ……あの、でかい人」
「そうそう、なんかキモい客」
長身でそこそこ人の良さそうな顔をしているが、どこか挙動不審で出てくる言葉も独り善がりなものが多いあの男。ギルバートは彼が苦手なのか、あの客を相手した後は後始末にも次の客に対しても拒絶的な態度をとりやすい。抵抗とまではいかないが、命令されても体を竦ませ動かなくなり、言葉も否定ばかりになる。
ナージーにはもう一つの仕事がある。
そうなったギルバートを宥める仕事だ。
先ほどまで客がいた部屋に這入る。いつも通り、ベッドに体を預け、ギルバートは泣いていた。他の客の時も泣いていることが多いが、特にあの客の後は幼児のように嗚咽を漏らして泣いている。前にモニタで見たことがあるが、あの客も別段妙なプレイはしていない。店としては金払いがいい客は手放したくないので特に注意もしないし、むしろおだててギルバートが懸想してるかのように囃し立てるが、きっとギルバートはよほどあの客が嫌いなのだろうとスタッフ間ではもっぱらの噂になっている。
ギルバートの隣に座る。ナージーの存在には気が付いているのだろうが、最近また視力が落ちているのか、誰だかはわかっていないようだ。目を細め、泣いている彼の豊かな、そして男たちに喜ばれるためだけに伸ばされている髪の毛を撫でた。
「ギルちゃん、きたよ」
そういうとギルバートがこちらを見る。年齢はナージーより10近く上だが、初めてテレビで見た時より若く……いや、幼くなっているような気すらするほどの無垢さでこちらを見ている。ナージーに気がつくと嬉しいのか、撫でる指先に頭を擦り付けるような仕草をする。猫のようだといつも思っている。
ふ、ふ、と息を漏らしながらギルバートはその指先が与える暖かさに目を閉じた。まだ小さくしゃくり上げている。もう少しかかりそうだ。
「頑張ったね」
ギルバートの反応は薄い。撫でられていることに夢中で聞こえていないのか、聞こえないふりをしているのか、ギルバートは心地が良い時も喉の奥が締まる癖がついてしまっているのか、時折きゅ、と悲鳴になりかけのような吐息を漏らす。
しばらく撫で、その後そっと抱きしめた。背中に手を回してあやすようにぽんぽんと叩く。ギルバートは大人しく受け入れ、その頃には甘えるように抱きついてくる。そろそろだ。今日はだいぶ時間がかかった……しばらくそうしていると、ふにゃ、と蕩けるようにこちらを見て笑った。眠くなってきたのだろう。前はこの時点でキスをねだられ困っていたが、最近は諦めたのかしてこない。それくらいしてやればいいのだが、次から次へと要求がエスカレートされても困る。その代わりかたちの良い唇を指でなぞってやる。もう大丈夫だ。頭を撫でていつも通りの言葉を吹き込んでやる。
「おやすみ」
ギルバートはこくんと頷いて、ナージーの腕の中で眠る。時計を見ると、次の客まであと1時間だった。ああ、ギリギリ間に合ったと、安堵の吐息を漏らすと、しばらくその寝入った顔を眺めていた。
長いまつ毛に悩ましげな眉は、昔から。髪の毛をかき上げたところ、左耳のすぐ下あたりにある傷跡はなかなか治らない。前に酔った客に噛まれたらしい。本人からは見えていないらしく特に気にしていないが、傷はなんであれよくないのだ。彼の価値が下がってしまえば、いずれナージーの仕事も無くなってしまう。
だからこうして、彼のケアをすることは自分の余命を伸ばす行為でもあるのだ。
10分後、いつも通りぱちりとギルバートは目を覚ました。そしていつも通りナージーに頬擦りをして、自分で起き上がる。ゆるく癖のついた長い黒髪がふわふわとしているのは、確かに少し可愛いところもあると思うが、ナージーはやはり彼を抱こうとは思えなかった。
一人で身支度を整えようとするので手伝う。あの客は、いつも律儀に犯したあとのギルバートの体を清めているから、シャワーも最低限でいい。髪の毛だけ綺麗に流して乾かし、櫛とブラシを使って整える。やたら甘い匂いのミストをうなじのあたりに吹きつけて適当に馴染ませれば完成だ。これの何がいいのかよくわからないが、そう言うことになっている。
しかし、10分程度の睡眠でこんなに動けるようになるかとナージーはいつも思うのだ。元々体は強いのかもしれないが、普段もあまり眠っていないところを見ていると、時分に置き換えたら発狂するだろうとすら思う。そんなことを考えてることに気がつかないギルバートは、身支度を終えてもう一つの客を相手する部屋に連れて行かれる。あと10分で予約の時間だ。
「じゃあ、頑張ってね」
そう言って抱きしめてやる。それが合図のようなものだ。それまでの甘い時間はもう終わり、彼には彼の贖罪がある。ギルバートはふわりと笑ってナージーを見送った。また次の客に乱されるだろう肌をほんのりと赤くさせて。
「まーたギルちゃんは随分とナージーにお熱だよな」
スタッフ用の控室に戻ると、煙草の匂いと共に複数のスタッフが談笑していた。一応トラブルがあった時のために各部屋につけられたカメラの様子が映し出されている。最初知った時は少し気まずい思いをしたが、その直後にギルバートの後始末を自称したスタッフの行為を見せられたので特になんとも思わなくなった。
「気をつけろよ、言うて相手元独裁者だし」
煙草を吸いながら、緑髪のメッシュの入った細身の男……ここではエリフと呼ばれている……が椅子に体を預けてこちらに視線を投げる。にやりと笑っているが、おそらく本心からの言葉だろう。
「まさか。俺は興味ないよ」
「でもほら、まだ見てるよ。絶対戻ってこねえのに。泣かせるねぇ〜」
じっとギルバートが見ている先には、スタッフ用の通用ドアがある。今日の様子を見るに、目は少しずつ見えなくなっているのだろうが、方向はわかるようだ。そうだ、また闇医者に診せなくては。失明してしまっては何かと不便だ。
「てーか、あの客とナージーでギルちゃん態度変わりすぎだろ」
「思ったんだけどさ、あのリカルドって客相手のときも、別にギルちゃん嫌がってはなくね?」
エリフの後ろにいた黒髪の体格のいいスタッフがそんなことを言い出した。
スタッフ同士であの客……リカルドは言いたい放題されている。本来は仮名でやり取りする仕組みの店に、何を思ったか本名フルネームで予約をしてきたド素人だ。まさか童貞だったんじゃないかとまで言われていて、流石に気の毒な気もする。
「まあ、あの客キモいだけで変なことはしねえもんな」
ナージーの言葉にエリフがこれだからオンナ心がわかんないのねぇと余計なことを言いながら煙草を灰皿に押し付けた。新しい煙草に火をつけると、紫煙をぷかりと浮かばせて、エリフはこう嘯いた。
「そのキモさで泣いてんだろうよ」
「そんなもんか」
「まあ、そうだなぁ、ナージーとあの客の共通点ねえ……お前はギルちゃんに興味ない、あっちは興味津々、性格も多分真逆。仕事はー……あいつ出来なさそうだな……そうだなぁ」
エリフはそう言って、ナージーとリカルドの相違点ばかり口にする。エリフは愛想笑いがとにかく得意で、人の懐に入るのが上手い。ギルバートも、ナージーに対してほどではないが大人しく言うことを聞いている印象だ。娼婦たちからも人気があるが、実際は口が汚く酒癖の悪い元男娼だ。その名残らしい、煙草を吸う時の少し悩ましげな眼差しで、お手上げと言わんばかりに息を漏らしてこう言った。
「わからん。金髪で目が青いってくらいしか、共通点ないわ」
了
☆モブたちの名前の元ネタ☆
ナージー:アラブ語男性名。免れる、生き残る者という意味。
ナージーの本名=アイユーブ:イスラム教におけるヨブに相当する預言者の名前。ヨブ同様悪魔により散々な目に遭うが最終的には救われる。家によってはその苦難の人生から、子の名前に使うのを避けることもあるらしい。
エリフ:ヨブ記に出てくる人物。ヨブの擁護者で論戦を行う。