とらは昔から兄に憧れていた。いや、言い方が悪い。
……昔から、兄が憎かった。
男の兄が憎かった。もしも兄を殺して自分も死ねば来世は男に産まれられるというのなら、とらは喜んで兄を殺して自分も死ぬだろう。それくらい、男である兄を、そして女である自分を毛嫌いしていた。
だが同時に、とらはそれだけ兄を認めていた。誰よりも自分が、兄が駆け上がっていく姿を望んでいた。末の妹で歳の離れた自分は兄にとっては可愛がる以外の選択肢のない存在だったのだろう。とらに戦の話をしては、母や乳母に叱られていたのをよく覚えている。
飛び交う怒声、血の臭い、鋼同士がぶつかった時の音。とらが見るはずもない風景を、兄は聞かせてくれた。まるで自分も戦に出たかのような気分になるものだった。
「とらが男でしたら、兄様の隣で先陣争いをしますのに」
そう言うとらに、母のおきりはため息を漏らすばかりだったが、兄は喜んで聞いてくれた。
「惜しいなあ、お前が男だったらこれほど面白いことはない」
「面白くありますか、おとらもそろそろ慎みを覚えなさい」
おきりはそう返したが、とらの耳には入っていなかった。兄の眩しいほどの青春の煌めきを、どうして自分は享受できないのかということばかり考えていた。
とらにとって兄の姿は、目の前にいるのにどうしても越えられない壁の向こう側にいる人間だった。
母はそれは当たり前だと言う。とらもそれはわかっている。でも納得はいかなかった。
十六歳の頃に賤ケ岳で合戦があり、そのときに縁あってのちの太閤殿の妻となった。彼のことは兄から聞いていたからあまり怖くもなかったし、大阪での暮らしは悪くなかった。
太閤殿もその正室の寧殿も、とらにとってはとても良い人たちだった。それは嘘ではない。とくに寧殿は兄に、いつでも会いに来るように伝えてくれていた。
大阪での暮らしにだいぶ慣れてきた頃だったろうか、兄がいつにもまして上機嫌でとらのもとに顔を出したのだ。
「兄上様におかれてはずいぶんとご機嫌のよいようで」
「お前に会えて嬉しいのだ」
「まあ、そう言うことは私ではなく義姉様にお伝えするべきでは?」
突き放すようにそう言うと、兄……忠三郎は、困った顔をしてとらの顔を見た。
昔から忠三郎はとらに甘い。もちろん、義姉こと冬姫のことを彼が大事にしていることはよくわかっているが……それでもとらには甘い。
「お前に報告したいことがあるんだ」
「それは、きっと善い話なのでしょうねえ」
なんとなく、嫌な予感がした。理屈ではなく、直感だ。それに気が付いていないのか忠三郎はとらの前に座り直し、こう言った。
「耶蘇の教えに改宗することにした」
「……今、なんて?」
とらの言葉を待っていたかのように忠三郎は捲し立てるように話し始めた。とても大切な盟友ができたという話はなんとなく聞いていた。その男は切支丹で、忠三郎にも布教をしたと言う。最初こそその言葉を信用していなかったが、いったん腹を割って話したらとても面白そうだということ、また切支丹になることで色々な利点もあると忠三郎は説明した。
「それで、改宗をしたと言うわけですか」
「そうだ……なんだか世界が変わったかのようだぞ。いや、言い方がよくないな、俺が変わったんだ。だから世界も違うて見えるようになった」
それは……そうなのだろう。忠三郎は変わった。兄として、男として、ここ数年で驚くほど変わったと思う。
とらにはそれが、どこか寂しいような、悔しいような……そんな気がするのだ。自らの世界を自らの意思で変えられる兄が、やはりまだ憎いのかもしれない。
「義姉様にはもう?」
「いや、これから……お前に伝えたかった。誰よりも早く」
「どうして私なんです?」
「お前が大切な妹だからだ。俺は、お前を誰よりも大切に思っている」
「そう……」
とらはそう言って目を伏せた。大切。確かに忠三郎にとってとらは大切なのだろう。とらにとっても同じだ。
忠三郎はとらにとって、今も眩しいお天道様だ。それは誰にも否定させない。忠三郎は変わったが、それは輝きを増すものだった。もしも、もしもとらが本当に男だったらなにか変わっただろうか。それはわからない。忠三郎のように輝けていただろうか。なんとなくそれは考えてはならない発想な気がする。忠三郎はお天道様であり続けるし、この世に陽は一つしかない。
とらが黙っていると、忠三郎はとらを気にしてどうしたんだとこの顔を見る。
自分の顔を見られるのはあまり好きではない。兄に見られるのは猶の事だ。
昔からそうだった。女であることを見せつけられるような気がして、嫌なのだ。
なんでもありませんよ、と言うと、忠三郎はどこかほっとしたようだった。
「なんですか、兄様は私に何か言われると思ったのですか」
「いや……その、すまん、そうだ。口喧嘩でお前に勝てたことがないからな……お前は怖い」
「怖くあるものですか、兄様の方がよほど恐ろしいです」
「……そうか?」
忠三郎がそう言って目線を上げる。その精悍な顔立ちが、やはり口惜しい。この体を乗っ取れたらどれだけいいか知らない。
とらは最後にこう訊いた。
「その盟友様はどのような方なのですか」
「……俺の、大切な人だ」
その言葉に、とらは何か……今までの嫌な予感のすべてを掴み取ってしまった気がした。大切な人。そう言う時の忠三郎の顔ったら!
まるで初恋の人を想うような顔ではないか。まさかと思ってしまい、うっかり口が滑ってしまう。
「あら、私とどちらが大切なのでしょう」
「揶揄うな……俺は、お前と高山殿どちらも大切なのだ。順番なんてない……高山殿は、特別なんだ」
「ふうん、片思いですか」
「だから余計なことばかり言うんじゃない……いつかお前にも会わせてやる、また近いうちに」
そう言って忠三郎は帰っていった。とらはその後ろ姿にどこか危うさすら感じて、何も言葉をかけることはなかった。
忠三郎の気配が完全になくなったころ、とらは一人呟く。
「……片思いなことは否定しませんのね」
蒲生とらこと、三条殿はその後”高山殿”と会う機会があった。
それはこれから約一〇年後……忠三郎がこの世を去ったその日だった。