黒歴史(閲覧注意)

『Belief』

神に祈る姿。
敬遠な姿勢。

博愛

慈悲

平和

馬鹿馬鹿しい。

純粋にそう思っただけだった。

だから、邪魔してやろうと思った。

目の前には眉をひそめ、嫌悪感をあらわにしている「友人」が一人。
袖に隠れてはいるが拳を握り締めているのだろう、怒りを隠す気もないらしい。
そして隣にはそれとは逆に、唯どうしていいかわからずうろたえている「友人」が一人。
こちらも完璧に我を見失っている。
かける言葉も見つからず、落ち着かない。
実に滑稽だ。

沈黙は破られない。

忠興は余りにも可笑しくて、思い切り笑ってやろうかと思った。
愉快だ。傑作だ。
この男たちは、何か言うよりもむしろ何も言わないほうが多弁である。

白い頬を引きつらしていた右近は、明らかにその怒りの矛先をただうろたえている氏郷に向けている。
無論忠興に対しても怒っているのだろうが、氏郷への方がその怒りは強い。
それは当然だ。
そうさせるようにしたんだもの。

忠興は伴天連の言う「神の教え」に幾許の矛盾を感じていた。
この矛盾は、果たして故意なのか。
故意ならばそれは茶道にも通じよう。
しかし伴天連は故意ではないという。

ならば、違うではないか。

違うものを無理に同義とする。
面倒な理屈を塗りたくってそれは一緒だと言う。
そんな必要はない。

「氏郷殿なら、判ってくれますよね。」

そう云っただけだ。
右近への皮肉とも取れない言葉を織り込んで。

氏郷は確かに純粋かつ柔軟だ。
しかし同時に柔軟故の「どのような考えも認めてしまう」所がある。
けして優柔不断というわけではない。
むしろ決断力がある。
それでいて、物事を単純に受け取る。
裏など無いと思っている。

裏の無いものなどこの世には無いのに。

氏郷は忠興の言葉を受け取ったままに理解して、頷いた。
それが右近の信条を逆なでするものだと気付くこともなく。

結果が、この状態だ。

まさかとは思ったがここまで思い通りになるとは思わなかった。
本当に面白いったらない。

「あの…」

突如沈黙を破る氏郷。
流石に耐えられなかったらしい。
言葉を発したはいいが、次に来る句をつなげられない。

実直すぎる。

気付かれないようにふん、と哂う。
どこまでも素直すぎるのだ、この男は。
しかし本人はこの行動が相手の不信感をあおることに気が付いていない。

凍った空気が、部屋を包む。

「もう、いいです」

右近のうわずった声が凛と響いたかと思うと、そのしなやかな体はくるりと方向をかえ、すっと出て行った。
最高のはけ方だ。
体中から感情がにじみ出ている。
氏郷は目を見開きあっと声を上げ、呆然としている。

馬鹿な男。

可笑しくって、仕方が無い。

「怒らせてしまったようですね」

さあ、追いかけろ。
昔よくやっていただろう。
なりふりかまわず走ればいい。

どうせ、相手になんかしてくれぬだろうから。

氏郷は黙ったままだ。

やがて氷がとけたかのようにばたばたと走り去った氏郷を尻目に、忠興は今度こそ声を挙げて哂った。

——

 

首を絞めた。
別に、殺すつもりはない。
殺してやるつもりなんか毛頭ない。

抵抗するまでもなく、ただ薄い胸の上下運動が少しずつ大きくなってゆく。
そして薄い皮膚の血の巡りを感じて、改めてこれは生きているのだと実感した。

少しは楽になるだろうと、微量ながら感じた。
実際楽になってるのは自分であるのだけれど。
だって、生きているのだ、これは、生きている。
この、自分の世界で。
箱。
それはなんと楽であるのだ。
なんと甘美な、それはこの世に住まうすべての人々の夢のはずだったのに。
いとも簡単に実行してしまう。
お前は。

「少しは、…」

口に出してやろうとして、途中でやめた。

気がついたところでどうするのだ。
それがちっぽけな箱の中だと気がついたところで。
もしかしたら、死んでしまうかもしれない。

消えてしまうのだろうか。
消えてしまうのは惜しい。
至極、惜しい。
なぜなら。

忠興は代りに口端をつうと持ち上げた。
それがより相手を恐れさせていると、気がついているかは定かではない。
首から手を離しても右近は動こうとしなかった。
有無を言わさず抱き起こして、作り物めいた顔を覗き込む。
信じられないほど間近で、忠興は右近の顔を覗き込んだ。
頬に触れた。
血の巡りが覗けてしまうようだった。
覗けたところで、世界は見えやしないけれど。
虚ろな眼球は、確かに大きかった。
力なく弛緩した目元では支えられないのではないかと思うほどだった。
世界の凡てを映す瞳。

そうしてすべてを、拒絶するか。
できるとでも、思っているのか。

痛みも、苦しみも、悦びも、怯えも
生きるも
死ぬも

お前は、拒むか。

卑怯者、すべてを受け入れるといったのはどこの口だ。
嘘吐きめ、俺を愚弄するのも大概にしろ。

急に腹が立って、本気で首を絞めてやろうかとまで思ったが、
それができたらとうの昔に絞めていただろうに。
絞められないその理由を思い出して、なんだか凡てが厭になった。

 

——–

『口には出さない嘘』

嘘には口先で簡単につけてしまう嘘と、そうじゃない嘘とがある。
そうじゃない嘘は、違う嘘や本当に混ざりやすい。
そして人は何が本当で何が嘘かわからなくなってしまう……。

「高山殿…」
俯いて、今ここにはいない想い人の名を呼ぶ。
氏郷は月の光りに気が付いた。
先程まで暗雲に囚われていた月が白い光りを放っている。

月………そうか、月か…
あの人は月のようだ。
その白い光りはあの人の毅然とした心を、日に移ろうのはあの人の子供のようにころころ変わる表情のようで……。

「………」
氏郷はふと浮かんだ自分の考えがあまりに使い古されたモノであることに溜息をついた。

会えないことに苛立ちを覚えても、どんなに愛しく想っても首から下がる十字架がそれを拒む。
この想いを遮る教え。
この教えは嘘か真か。

氏郷はフッと息を漏らした。
それは溜息にも嗤いにもとれた。

何もかもわからなくなってきた。
何が本当で何が本当でないのだろう。
何が嘘で何が嘘でないのだろう。

月は人を狂わせるという。
自分は高山右近という月に狂わされたのだろうか。

…………ではこの想いも、嘘か。
ぽつりと湧いた考えに氏郷は寒気を感じた。
狂ったその場限りの嘘か、お前の愛とやらは。
「…………違、う」

誰もいない庭。
声は響かずとけた。
月にすら届かなかった。

何が本当だろう。どちらが本当だろう。
教えが本当なら愛が嘘になる。
愛が本当なら教えが嘘になる。
教えが嘘になるということはあの愛しい人は嘘をついているのだろうか。
………否、違う。
違う、と思いたい。
何かが渦巻いている。
矛盾と悲しみと悔しさが、静かに渦を作っているのだ。

「高山殿…」

もう一度名を呼ぶ。
嗚呼、もう其の名すら本物かどうかわからない。
月明かりに照らされる夜。

月に心を奪われた暗雲が流れてゆく。

 

——

 

闇に包まれたその一室は衣擦れの音と何かがぶつかり合ってる音、そして押し殺したような乱れがちな呼吸のみが響いている。
月はその細い体を雲に預け、わずかだが光を放っている。

「あなたのような人は見たことがない」

忠興は何度かその言葉を唇にのせた。

その言葉は今まさに忠興の指先に翻弄され、体を揺らさざるをえなくなっている右近に向かって放たれた言葉であるが
それは右近の生き方を見たことがないのかそれともこの痴態を指しているのかはよくわからない。
むしろどちらでもなくそれでいてそれらをひっくるめた高山右近という男の全てが忠興には、珍しいモノなのかも知れない。

おそらく右近も忠興に対してそう思っているのだろう。
声を出すまいと首を横に振りながらも、体は忠興という男を求めいやらしくも呑み込もうとする。

「俺のことなんて好きでもない癖に、こんなに悦ぶなんてね」

耳元で囁かれるそれは吐き気を催す言葉ばかりだ。
耳に息を吹きかけられたり、耳朶を噛まれることなんて嫌で嫌で堪らないはずなのに。
右近は忠興になんと言われようと何も答えない。
よく行動を共にすることから周囲からは仲がよいとされているが、
それは昼間だけで右近は夜……特に情事の際に忠興と言葉を交わすことは滅多にない。
むしろ忠興の夜の顔を知るようになってから夜が嫌いになった。

「話したくもないくらいに嫌いなら今すぐ逃げてしまえばいいのに」

知っていて挑発する。
右近がけして自分から逃げることが出来ないのことを。
彼にとってこれは聖戦のはずだ。
神を冒涜する忠興に背を向けることはないだろう。
そうしているうちにけして強いモノではないがそうやすやすとは外れない首枷をはめられてしまったのだ。
この目の前の聖人は。

まったく、愉快でならない。
夜というやつは愉快でなんて可笑しなものであろう。
永遠に夜が続けばいいとさえ思えてくる。
しかし夜はけして永遠ではない。
それと同時に昼も永遠ではない。
太陽が君臨する日も月が支配する日も起きやしない。
永遠に入れ替わってゆく。

昼になればまた二人は行動を共にする。
仲がよいか悪いかなんて周囲が決めることだ。
そして二人は目をそらそうとはしない。
何か別の物を見ているようで
むしろ遠く離れているなかでさえ
心のどこかでは隙をつく機械を探っている。

まるで互いに監視しあっているかのように。

——–

これ以上、お前は何を望むんだ。

祈る背中。
その病的な狭さ。
首から肩の線が、更に細さを際立たせている。

何もない空間で。
祈る背中。

きっとこれは人間ではない、忠興はそう思うようになってきていた。
人間だとしたら、何かが欠如している。
欠如したまま、放ったらかしになっている。
何かが欠如しているということは、その隙間には何もないと言うことだ。

何もない、のが一番怖い。

何もないその状態そのものは素晴らしいことだ。
しかしふつう、何もないままであるわけがない。
何かが、涌く。
いつ、その「何か」がむくり、むくりと涌き蠢くのかと思うと吐き気すら覚える。

…もしかしたら、その伽藍とした隙間は、既に「よくわからないもの」で埋められてしまったのか。

それはもっと嫌だ。

なんにせよよく平気でいられるものだ。

信じられない。

忠興は右近の背中を見て、そこまで考えた。

振り返るなよ。
と柄にもなく願いながら。

「細川殿」

声のみ。
部屋に響いた。

「いらっしゃるのでしょう」

嘘吐きの前では嘘は利かぬ。
忠興は黙って部屋に這入った。
「何故黙っていたのです」
なんだか叱られているようだ。
不愉快にも程度というものが在るだろう。
苛立ちをおさえる。
ああ、今日はなぜだか普段にも増して苛々している。
そっちがそう来るなら、自分もそれ相応の態度をとってやろうと思った。
「一つ、訊いても宜しいですか」
右近の眉間が歪む。
あからさまだ。
不愉快を隠そうとすらしないで。
「……答えてはくれないのですね」
諦めたように言うので、
「答える必要なんかないでしょう?」
と返した。
右近が何か言う前に、言葉を紡ぐ。
別に責め立てているわけではないが、これが忠興の喋り方なのだから仕方がない。
こうやって、罠を仕掛けているだけなのだ。
墜ちようと墜ちまいと、それは忠興はどうとも思わない。

墜ちれば、踏躙るのみだ。

「何を、祈っていたのです」

右近とはまだ目が合わない。
合いたいとも思わない。
合わせたければ、今すぐにでも押し倒してその細い顎を掬ってやれば済むだけの話だ。

「何を、ですか?」
「ええ、あなたの望みが知りたいのです」
「望み…」
「綺麗事はいりませんよ」
そう、嘘を吐くなよ。
嘘を吐いていいのは、嘘を吐くことで汚れる人間だけだ。
右近は汚れない。
何があっても、けして汚れを知らない。
だからだ。
だから忠興は右近の見え透いた嘘が気に食わないのだ。
何故汚れぬ。

汚れろ、汚れてしまえ。
嘘吐きの分際で、

「なにが綺麗事なのですか」

…まだ言うか!
怒りというより、むしろ呆れに近かった。

「綺麗事は綺麗事ですよ、あなたが大好きな」
依然右近は当惑した表情だ。
「私が…?」

問いは問いとして返ってきてしまう。
いつまでも解に辿り着かない。
ああ、むしろ解は必要ないのか。
この課程に意義があるのか。

堂々巡りだ。
すべては最初に行き着いてしまう。
苛立って押し倒したところで、何にもならない。
右近はおびえるだろう。
おびえたところでなんにもならぬ。

堂々巡り、月が満ちても欠けまた満ちるような。

二人の関係はそこで硬直したままだった。

———-

『Whirlpool』

その人は今日も来た。
いやむしろ今回の場合は「鉢合わせた」であるが。
いかにも偶然であるというような表情で。

「偶然ですね」

なんて、嘘ばかり。
本当はずっと待っていたくせに。
目の前で笑みを零す色白の青年に、蒲生氏郷は内心溜息をついた。
何とも微妙な気分である。
嬉しいのに、それを素直に喜べない。
それはやはり彼に「主」という服属品がついているからだろうか。

師匠、利休が突然呼び出したという時点でもうおかしいとは思っていた。
なんでよりによってこの時期に、と。
交わした話しも火急の用ではないし、何故それだけでわざわざ屋敷から呼び出されねばならないのか
文書でも書いて送ってくれれば充分な内容だったのだ。

首を傾げつつも屋敷に戻ろうと席を立った瞬間にこれだ。
待ち伏せしていた来訪者……高山右近は、氏郷にいかにも作ったような笑みを浮かべた。

「この前話したことですけれど」

この前……否、正確には昨日話されたこと。
もっと正確に言うならここ連日毎日毎日聞かされ続けたこと。
今日もまた、かみ合わない話しが続くのだろう。
氏郷はもう一度溜息をつくと、右近に向き直った。

「考えてきてくださいましたか」
「………なんのことでしたかな」
「とぼけないでください………入信するか、否かですよ」

でた。
やっぱりだ。
こういうことでもなければこの神経質な麗人は己の前に現れたりなんかしないだろう。

「そんな話しもありましたね」

曖昧に濁してなんとか逃げようとする。
昨日も一昨日もそれでなんとか逃げたが、今日も果たして通用するだろうか。
なんといっても相手はあの右近である。
口先で勝てるわけはないし、腕っ節ならなんとか勝てそうではあるが、
ここは神聖な茶室であり、右近相手にいきなり掴みかかるのもどうかと思うし。
それにしても、何故この自分が右近にそんな物騒なことを考えねばならないのだろう、
と情けなくなってきている節もある。

初めて出会ったときから氏郷はこの潔白な存在に圧倒され続けていた。
何事にも乱されず、常に自分の(神とやらの)世界を第一とする。
生まれながらの大名であるから、それなりにこの乱世や武士の醜さを
知っているはずなのに、それでもまだ汚れを知らないような振る舞い。
出会ってばかりの頃は右近の神経質な性格に少し引っ張り回されたところもあったのだが、
彼独特の世界を少しずつ理解できるようになり、
大体の言動や心理の移り変わりは読めるようになってきた。
そして段々彼に惹かれていく己の姿にも氏郷は気がついていたのだ。

そんな右近が何を思ったかここ連日氏郷の前に現れるようになったのだ。

はじめは素直に喜べた。
乾ききった土に清水が染み渡るように、
乱世に揉まれ荒みきった心に、癒しを与えてくれるような感覚があったのも否めない。
だが。
右近が神の話しをするたびに、何かえも言わぬ不快感というか、
こうやりきれない気持ちに襲われるようにってきたことも事実である。
人間とは贅沢なものだ。
どうしようもない幸福にも難癖を付けてしまえるなんて。

神に嫉妬する自分にも驚いたが、それほど右近を独占したい自分にも驚いた。
その口が神の名ではなく自分の名前を呼べばいいのに。
氏郷は何度となく押しかけてくる右近に、これは右近の言う神とやらが
穢れきったこの自分を挑発しているのではないかと、うっかり
右近に聞かれたら「不謹慎な!」と喚かれそうな思惑に陥っていた。

「………話し、聞いてませんね」

急に右近の声が低くなったので驚いて顔を上げると、
目の前の右近が顔を不機嫌そうに曇らせて氏郷をのぞき込んでいた。

ああ、今までまたあの話しをしていたのか。
氏郷は何となく理解すると「すみません」と素直に謝った。
また右近は話をはじめるが、彼の難しすぎる話しは今の氏郷の頭にはどうしてもなじめない。

これからずっとこの追いかけっこは続くのだろうか。
もし続くなら永遠に終わらなければいい。
捕まりもせず逃げ切りもせず。
一定の距離のまま。
もし捕まったら、断ち切れた理性が醜い欲望にまみれて、
きっと右近を汚してしまうだろうから。

だから、今だけは、このまま………。

もっと近くで触れあいたい。
もっと遠くからひっそりと思いを募らせたい。

渦は黒く淀んでも存在を隠さない。

———-

 

風が吹く

神の生まれた日

それは今、自分と並んで歩いている人との距離を縮めようとしているのか
それとも引き裂こうとしているのか

氏郷は右近の斜め後ろを同じ距離で歩く

…それしか知らぬ飼い犬のようだ
自分であざ笑う

会話はない

とりあえず出尽くした

話題もないのに話しかけるのもどうかと思う

幸せゆえの、孤独な時が過ぎる

後姿の細い線

控えめなはずなのが、かえって存在感を主張する白肌

好きは好き
嫌いは嫌い

本人が気がついているのかは知らないが、意外と感情が表情に出やすい

…年上だけど

たまに年上に見えない
たまに年齢がわからない

否、年齢が不要になる

美しいし可愛らしい、しかし時にとてつもなく恐ろしい

この人が好きだ

ええい、もう忘れろ

切支丹になったのは諦めるため
忘れるため

違うか

そうだろう

しかし

教会からの帰り道

神からの帰り道

夕暮れ
即ち
逢魔刻

神が生まれた日にもそれは必ずある
逢魔刻

氏郷は右近との距離を少し縮める、
近付く
息遣いが聞こえるようだ
手を伸ばす

少し惑う
触れたいのに

触れられない

否、奮い立て

意を決す

手を延べる
その延長線に
求めるものがある

なんとも

奇跡的に

「氏郷殿?」

手だと思って掴んだのは袖だった
みっともない空回り

己の失態にあせる
もごもごと弁解ともなんともつかない言い訳を言う
それは悪戯がみつかった子供のように
叱られるのを時間稼ぎしている

歩みが止まり
時も止まる

かのようにみえた

じっと瞳の奥を覗き込まれる

目を逸らせない

なんとも気まずい

いっそ怒ってくれたほうがましだった
いや、むしろ怒ってくれ

何もないのがいやだ

みるみる日は落ちて
暗い

右近の姿も薄暗がりに薄ぼんやりとしか見えない

いけない

みないと
つい調子に乗ってしまう

袖を掴んだ右手を離して

右近の細い顎にかける

抵抗はなかった

いや、気が付かなかった
抵抗されているのはわからないほど、あっという間だった

触れるだけの口付け

驚いた瞳に少しだけほくそえむ
吃驚しただろう

さあ、怒れ
おぞましくも恐ろしいことをしてしまったこの自分を
なきながら怒ればいい
憎めばいい

それで帳尻は合うはずだ

 

———

風が幾分強くなる

ちらちら降っていた雪は飛ばされてしまった
儚く散っていった方を眺め、右近はなにともなく考えた

こういう日に雪が降るのは、いい兆しなのだろうか
よくわからない
今度、異国の使者に聞いてみようかとも思った

戯言を

時折、自分でもどうでもいいことだろうと思うことが仕方がなく気になる
これはもう性分だろうと諦めているのだが、時折それも仕方なく気に入らない
今がまさにその状態だ

そして漸く右近が自分の後ろをぴったり同じ距離で歩いている
氏郷の存在に気がついたときには、二人の会話が途切れてずいぶんと経った頃だった
しまった、まただ
本当に申し訳なくなる

今日は昼から教会でミサが行われた
神の子の生まれた日
切支丹らが集まり、生きながらにして背負った業を悔い、救世主の誕生に喜ぶ
右近も、氏郷も己の家臣に多く切支丹がいたから、できる範囲で連れて来ていた
彼らを先に帰したのは氏郷である
目的はわからなかった
ただこの大事な日に世間のいやな話題を何よりも大切な友である氏郷とするのはいやだ、そう思っていた
氏郷は政治に長けている
自分のように信仰のみで生きるような、そういう人ではなかったのではないか
今更思っている

無責任だ
本当に

沈黙がやまない

他愛のない話でもいいから、何か話してくれても良いのに
そう思う自分は本当に無責任だ

つうと、氏郷の気配が近くになった
ああ、何か話すことはないか

あの、と右近の喉が震えるのと氏郷の大きな手が袖を掴んだのはほぼ同時だった
びくりと驚いたのを気付かれないように右近は少し大きく声を上げた

「氏郷殿?」

どうしたのだろう
なにがあったというのだろう
無礼なことをしたか

否、何もなかったことが無礼だったのだ

どうすればいいのか…早く、早く何か言わなければ
氏郷が漸く口を開いたが、それらは彼らしくもない不明瞭なものであった
言葉がつながらない
袖はつかまれたまま
右近の瞳を凝視する氏郷が、正直怖かった
言葉が紡げない

氏郷が何か言いたげに見ている
何か話したいことがあるなら、話してほしい

突然の出来事だった

氏郷は袖から手を離した
右近の左手が、自然の摂理に従って下がるその間に氏郷に顎を捕らえられた
暖かい手だ、状況を理解する前にとりあえずそう思っていたら
唇に同じように暖かいものが触れた

何が起きているんだろう

全くそれだけしか考えられなかった
間抜けなことにも

照れくさそうに俯いた氏郷が、少しだけ笑っているような気がした

 

——

 

『by the dream』

 

 

手だった。

無数の手が伸びている。
否、腕と言ったほうが正しいだろう。
妙に冷静に考える自分と腕の出所がわからないのが不自然だと思った。
…誰の手だかわからない。
無論、手だけで個人を特定するなんてことは自分にはできない。
否、誰にだってできないと思う。余程の特徴がない限り。
腕はするすると伸びていく。
どこから来たのか。
どこへ行くのか。
うっかり口に出してしまいそうになるのを押しとどめる。
手に問いかけるなんて滑稽だ。

 

恐怖感はあまりなかった。

いつもの自分なら大声を出して逃げ出すだろう。
誰を見捨てようが、違いない。
しかしそれが今は妙に滑稽に思える。
そうだ、すべてが可笑しい。
だからこの事態にも何かの座興のようにしか映らない。

腕が

伸びゆくさきは

 

そうしてひとつの「手」が触れた。
白い手だった。
指先が頬に触れる。
滑らかで暖かい。

心地よくて目を閉じた。
白い手は頬から顎にそして首に到達してそして

 

絞めた。

 

驚いて目を開けると目の前にはそれまで散り散りになっていた手が
一挙に自分に向かっている。
手に目があるわけではないが手と目が合ったような気がした。
腕はわさわさと首に群がり、絞めようとする。

 

それでも恐怖感は生まれなかった。
あるのは少しの苦しさと、滑らかな手の心地よさだった。

意識が遠のく。

ああ、こんなわけのわからない死に方はいやだ。
自分だったら絶対お断りだ。
否、自分なのだが。

 

ああ、これは誰の手なのだろう。
全部同じ人の手なのだろうか。

 

 

白い手の向こうに、人が背を向けて立っている。
ように、見えた。
あのひとが、手の主だろうか。
もしこれがそうだったら、きっとあのひとは千手観音様だろう。

ゆっくりと振り返る。
顔がなかったらいやだな、とか、そんな間抜けなことを考えていた。

 

振り返ったその顔に、ちゃんと目も鼻も口もついてはいた。

その姿は

知らないけれど、知っている
その姿

覚えていないはずの

祖父の姿

 

 

忠之は初めて少しだけ恐怖感を感じた。

 

——————–

 

朝から最悪な気分だった。
吐き気がした。
実際吐いた。
空の胃からは苦い黄色い液体しか出てこなくて、それが又気持ちが悪くて吐いた。
生理的に溢れた涙を乱暴に拭うと、心配そうに見つめる近習の視線に気が付いて、腹が立って殴った。
悲鳴を上げて近習は許しを請う。何も悪いことはしていないのに。
…心にもないことを、馬鹿だ。
益々腹が立つ。
一発蹴りつけたところで他の奴らが止めに入った。
くっだらない。
興ざめして踵を返した。
もう一眠りしてやろう。
そう思ったのだ。

起きた時散々荒らしまわった部屋はそのままだった。
苛ついたが、片付けるなんて考えは毛頭ない。
醒めたといっても頭が冷えたわけではない。
まだ漠然とした苛立ちは忠之を苛んでいた。
これでは寝ることもままならん。

ふと、明け方の夢が忠之の脳内にむくむくと湧き上がった。


あの手は誰のものだったのだろう。
なんで祖父だと思ったのだろう。
祖父は幼い頃に死んだ。
顔なんて知る由もない。

でも、あれは、父ではなかった。

忠之は荒れ放題の床に座ると、左手でこめかみを押さえた。

 

正直、あの眉尻の下がった父と言う男は、彼自身が思っているほどの人間ではないと思う。
必死になにかを繕っているが、すべてが無駄だ。
結局権力に媚びへつらっている。
父は自慢げに、忠之が生まれる前におきたという戦いの話を聞かせたが、
聞けば聞くほど、忠之はうんざりした気分になるのだ。
どうせ、戦うことでしか己を語れないのなら、
そう無理をして策士のふりをする必要はないだろうに。

父は、父の父を超えたかっただけだろう。
祖父は策士だった。
そう聞いた。

 

つまらない、くだらない。
自分は頭が悪いが、あんなのと一緒にされたくないと思う。

父は最近自分が死んだときの話をする。
そしたら黒田の家を継ぐのは自分なのだそうだ。
そんな未来の話、知るかよ。
忠之はやはりむかっ腹が立って、その席を蹴り飛ばしてやった。
父の眉がさらに下がったのが、見なくてもわかった。
滑稽だと思う前に苛立ちの方が先に来た。
流石に父を殴ったことはない、そのときは確か部屋の戸を蹴り破る程度だったはずだ。

あの父なら…自分の首を絞めるだろうか。

「無理だ」

口に出していう。
そう思いたかった。
そんなことができる人間じゃあない。

ならば、祖父か?
あの白い手の持ち主は。
父の手は無骨で不恰好な浅黒い手だ、比べる必要もない。
見たこともない祖父の姿。
今や霞がかった影法師に、忠之は圧倒された。

 

あれが、父が超えたいと無謀にも願っていたという男なのだろうか。

祖父の手。
白い手。
指が、長かった。

 

 

 

忠之は一際大きく怒鳴った。

 

なんなんだ。

 

たかが夢に。

 

 

ちくしょう。

 

 

 

 

 

 

 

先ほどと同じ近習が血相を変えて飛び込んできた。

 

 

 

 

 

近習はこちらに腕を伸ばす。

 

 

 

 

嗚呼

手が。

 

 

手が。

 

 

意識はそこで途切れた。

 

夢に、

 

 

夢に殺される。

 

 

——–

『雨は途切れて』

 

いつの間にか降り続いていた雨はやんでいた。
しんと静まりかえる部屋は、途端に場の雰囲気を「病人のいる部屋」に塗り替えてしまった。
「・・・・・・」
病人—大谷吉継は、つと立ち上がると外を見遣った。
濡れ縁まで歩く。
ライ病(ハンセン病)を患った体はそれだけで残りの命を削っているようであったが、黙って歩み寄り、空を仰いだ。

雲の切れ目から日が射す。
と言っても、吉継はもうだいぶ前に完璧に光を失っているのだが・・・・。
吉継は空を思い切り睨むと、引き返し、親友—石田三成からの伝書に目を通した。
何度も、何度も文面を読み返すが内容は変わることなく、
彼の淡々としたそれでいて何か畳み掛けるような文面が延々と続いている。

無駄な戦だ、と善継は思った。
負ける・・・・・こちらの方が圧倒的に不利だ。
それも少々豊臣家に対して狂気的な信仰を抱いている三成のことである、
自分が何と言っても聞く耳持たないのは確実だ。

「かと言って」
吉継は小さく、呻くように零した。
「見捨てるわけにもいかぬ」
幼なじみであった。
親友であった。
それでいてもっとも愛すべき人だ。

見捨てるわけには、いかない。

その時、側近が「殿」と部屋の前で畏まった。

「どうした」
「石田治部少輔殿が、参りました」
「佐吉か」
「応接間に通しますか?」
「・・・ここでよい、何が言いたいかはもう分かっておる」
「はっ」

 

雨がまた降り出した。

「単刀直入に言う。協力してくれ」
「・・・・・・」
三成は、部屋に入って早々吉継に切り出した。
昔佐吉と名乗っていた頃から彼は単刀直入に物を言う。
まあそのために人から恨みを買いやすいのだが。
「紀之介、このままでは豊臣が内府(徳川家康)に乗っ取られるぞ・・・お前は、見捨てるのか」
「・・・・・・」
「太閤殿下の恩を仇で返すつもりか!何か言え紀之介!」
吉継は何も言わずに、親友の変わらない容貌と性分を見えない目で見ていた。
「・・・・そうか、お主も同じなのだな!あの愚かな者共と同じなのだな!?」
三成の言うあの者共とは、加藤清正や福島正則らを指して言っているのであろう。
同じ豊臣恩寵だったはずの彼らが、徳川に寝返ったのは三成にとってはなによりも腹立たしいことであった。
「そうだ、お主は昔徳川に仕えたがっていたものな。太閤亡き今、お主にとって豊臣家は・・・・」
「黙れ、佐吉」
吉継は、三成をその昔自分が紀之介と名乗っていた頃のように呼ぶと
「おれは豊臣に恩を仇で返そうとは思ってはいない、ただ・・・」
「ただ?」
「この戦、確実に豊臣家滅亡につながる」

雨が、強くなってきた。
遠くで雷が鳴っている。
しかし部屋の中はしん、としていて、妙に寒かった。
「やめておけ、この戦いはいたずらに豊家の命を削る」
「ならばどうしろと!」
「・・・・・・・運命は今、分岐点にある」
吉継は白い布で覆われた顔を庭へ向けると、何か悟りを開いたような落ち着いた声音で言った。
「決めるのは、佐吉・・・・お主だ」
「・・・・・」
「だがおれは・・・・戦の方には賛成出来ない」

 

雨は、その後何度も土砂降りになったり小雨になったりを繰り返し、
再び部屋が沈黙に閉ざされた頃は完全な霧雨となっていた。

「・・・・・・・・・運命、か」
一人残された吉継は、そっと呟く。
自分で言って置いて、実はあまりその言葉がピンと来ていないのに気付いた。
まあそんなものだろう、と吉継は一人納得した。

三成は結局折れずに、飛び出していってしまった。
従者がまだ残っているから、きっと本人なりに頭を冷やそうとでも思ったのだろう。
思えば彼と出会ったのも運命とやらの一つかも知れない。
出会って間もない頃は、お互いの性格が読めずに諍いもあった。
しかし時を重ねていくうちに、二人はいつしか心通わせる中にまで発展したのだ。
愛なきこの時代に—-これを運命と言わず何と言おう。

「・・・・・さて」
雨がやみ、青空が所々見え始めた頃、吉継は立ち上がった。
三成は多分遠くには行っていない。

探してやろう。
きっと雨で濡れているだろうから、何か拭くものでも持って。

外に出るのは久しぶりであった。
雨上がりのにおいが、妙に優しくて懐かしかった。