彼の言葉を借りたとすれば、彼は一度死んでいる。
死んだ人間は強い。生きている我々は常に自らの影に繋がれ、ただただ怯えるしかないだろう。だが彼にはそれがない。繋ぎとめるものをなくしたものは、あるがままに執着し、あるがままに求め、あるがままに手に入れようとする。欲のないふりをしていてもそれは無駄だ。
そしてそれに焦がれるものも愚かだ。いくら死ぬ勇気があっても結局は生きている。生きている以上、死の恐怖からは永遠に逃れられない。生きたまま死を経験した彼をどんなに思ったところで、報われることはない。どんなに言葉を重ねても、いっそ体を重ねたとしても、そこにあるのは寒々しい虚しさと孤独しか残らないだろう。わかる。わかるのだ、与一郎には。
与一郎は妻の心を殺してしまった。大袈裟に聞こえるかもしれないが、確実に殺してしまったのだ。その事実はどう足掻いても消えない。
彼女の顔を、与一郎はよく知っていた。それこそ一度死を経験した人間の目だった。右近と珠子はけして似ていない。似ていないが、同じだった。与一郎はそれを苦々しく思っていた。何故彼らが同じ目をして与一郎を見つめるのか。何を思っているのか、そこにある祈りとやらに心底腹が立った。祈りなど、一度の過ちで脆く崩れるものだ。祈りなど、一度疑えば二度と戻ることのないものだ。そんな祈りを、周りのものすべてを犠牲にして捧げる彼らを悍ましく思いさえした。
また、彼女の壊れた心のかけらが、彼と同じものを信奉し縋ったというところも与一郎には気にくわないことであった。だが見てみぬふりをするしかなかった。それが生きながらにして死んだ彼女に対して与一郎にできる唯一の事であったからだ。
彼女が身も心もこの世から離れた今、全てを購う方法などどこにもありはしない。ただ膝を折り、祈り、自分の中の彼女を思うことでしか与一郎に残された選択肢はない。信心はないが彼女の望むだろうかたちで彼女を悼んだ。それが生きてこの世に繋がれた人間にできる最大限の事だ。これ以上のことなどできようはずがない。
死んだ人間ならば、あるいは、それすらも越えてしまえるというのだろうか。珠子と同じ顔をしたあの人間ならば、通うことができるというのだろうか。彼の、彼女の信じた全知全能の神とやらは、それを許し給うのか。
一度死んだ彼は、彼女の事を残念そうに話していた。それがやたらと脳裏にちらついた。
与一郎が忠三郎に対して抱く期待と感情は確かに許されたものではなかった。それを笑う者もいるだろうし、者によっては泣いて止めるかもしれない。静かに諭す者もいるだろう。そんなことは分かりきっている。与一郎が欲しいものはそうまでして手に入れたいものではない。
そして、忠三郎が右近に抱いているそれも同じもののはずだった。彼の想いは、結局は届かなかったのだという。彼を看取った右近の言葉を聞いたとき与一郎は愕然としたが、考えれば考えるほどそれは自然なものだった。伝えられるはずがないのだ。それによって払われる犠牲を思えば、忠三郎の選択肢を笑うことなど、ましてや怒ることなんてできようはずがなかった。そもそも選択肢など与えられていないのだから。
そう、最初から選ぶ権利すら生きている自分にはその手に持つことを許されてはいないのだ。だからこそ、右近のようにあるがまま生きる男に一種尊敬の眼差しを送るのだ。与一郎にはできないことだ。子どもの頃から持っていた、やりたいことが何もできないというどこか概念的な口惜しさがそこにはあった。
そしてそんな彼を想い、秘めた想いに身を焼きながら彼岸に旅立った忠三郎にも、与一郎は柄になく慈愛と、少しの悔しさを持って送ったのだ。
与一郎にない素直さと、目が潰れるほどの純粋さを持ち合わせた彼もまた、与一郎とは別の次元で選ぶことを与えられなかったものだったのだろう。
しかしそんな中でも彼らの関係は穏やかであったと思う。それぞれが腹の内でなにを思っているのかなんてわからなかったが、それすら乗り越えられるような気がするほどの仲だと言ってもよかった。
それは確かに、疑いようもなく友情だった。確かに。たしかに。惜しいほどに、悔しいほどに。
尊敬と憧れと、ひとさじの軽蔑を彼らに。