初夏の日差しが寺の縁側に腰掛ける忠三郎を容赦なく照らした。
新緑の影が淡くなっては浮かび濃くなっては沈んでゆくのを、じっと見つめてはため息を漏らす。
「あまり外にいてはこの暑さは毒になりますよ」
そう言って茶を持ってきたのはここの僧侶だ。もう十年ほどの付き合いになる…右近を介して。
ここにいる僧侶たちはみな切支丹だ。みな右近の導きで洗礼している。禁教の令が出て、一度は壊された教会跡にこの寺はある。寺ということにはなっているが、実質教会と変わらない。皆がひっそりと身を寄せ合って暮らしている。忠三郎のような人間がやって来るのは、きっと迷惑なのだろうが、彼らはそれを噯にも出さない。それに甘えてでも、忠三郎はたまにこうやってやってくる。
「ジュスト様もきっと心配されます」
「そうだな…」
ジュスト…その名を舌で転がす。あの日から日々が曖昧で、境界線がいまいちはっきりしない。薄墨だけで描いた絵画のようだ。ぼやける視線の先に何が映っているのかは、まだ判別つかない。
春先の出来事だった。右近の痩せた生白い手を取って、忠三郎はなにかを口にした。それを見て右近は、たしかに笑った気がしたのだ。そしてやはりなにかをつぶやいて、それから……。
そこからはあっという間だった。客将だからと前田家が全部執り行ってはくれたが、逆にいうと、忠三郎になにも触れさせることなく、右近の葬儀は終わった。せめて京に…彼の領地だった高槻に近いこの寺で、右近だったものを引き取りたかったがそれは叶わず、加賀の寺に渡った。彼は怒るだろうか。それももうわからない。
右手に握りしめた十字架を眺める。
右近が亡くなってから、少しずつ忠三郎は身の回りの整理をし始めた。特にいまの世相で切支丹関係のものはあまり良い目で見られないから、いくつか捨てたものもある。でもこれだけは…右近が最初に忠三郎に渡した十字架だけら捨てられなかったし、捨てる気にもなれない。これを手放してしまったら、もう完全に忠三郎と右近の縁が切れてしまうような気がして。
「蒲生様、お客様が」
「今は誰にも会いたくはない…」
「それが…」
その言葉を遮ったのは聞き慣れた声だった。
抜き身の刀のような、それでいてどこか甘い声が忠三郎の耳を刺す。
「やはりここにいたか…探すまでもないな、お前は…わかりやすい」
見上げると、浅黄色の簡素な衣に身を包んだ長身の青年が立っていた。
「与一郎…」
その名を呼ぶと、与一郎はやれやれと忠三郎の横に腰を下ろす。
沈黙が流れる。
言葉を失って過ぎ去っているそれではない。
互いになにかをその無音の中に託した、そういう類の沈黙だった。親友と共にいる心地よさよりも、気まずさの方が強い。
もう一度ため息をついて、それを破る。
「探していたのか」
「さあ、どうだろうな」
吐き捨てるようにいう与一郎は機嫌が悪いようだ。今に始まった事ではないが…。
「それにその姿は…」
「あまりに目立つ格好だとここには良くないだろう…他意はない」
「俺を泣かせにきたのかと思った」
そうだ、右近が似たような色を身につけて茶会にきたことがあった。あの時すでに忠三郎は右近に…淡すぎる恋をしていた。
与一郎がやはり機嫌悪そうに頬杖をついて、目線も合わせずに呟く。
「いつまでそうしてるつもりだ…あんたは」
「……」
「孫四郎がお前を心配している。この前たまたま会ったんでな……」
「孫四郎が…」
「病に気がつかず無理をさせたと言っていた。孫四郎なりに後悔しているんだろう…」
唇を噛む。その心情を彩るように、流れる薄雲が太陽に突き刺さる。孫四郎も忠三郎にとってはよい友だ。右近が前田家預かりになってからは、彼を経由して何度か約束をした。
忠三郎の右近への淡い恋心こそきっと知らないだろうが、それ以外のことはなんでも話した。
「どうしてこうなったのか、全くわからないんだ」
そう言って与一郎を見ると、視線がぶつかる。与一郎の目は、氷のように冷ややかだ。
「高山殿はもういないのはわかっている。だけれど…こうやってここにいると…声が聞こえるような気がするんだ」
「それは幻だ…」
「わかっているさ、高山殿は間違いなくぱらいそに行かれた」
右近は…正しさが、正義が、秩序が、服を着て歩いているような、そんな人間だった。
間違いなく天の国に行ったに違いない。
与一郎の視線から逃れるように庭に目線を移すと、午後の庭には小鳥が囀っている。何も知らず、これから来る夏を期待してうたう小さな魂を、見て、少しだけ右近のことを思い出していた。
だがそれに対する与一郎の応えは忠三郎の想定の外を行った。
「お前一人幸せにできなくてなにがぱらいそだ」
「与一郎」
振り返り思わず眉を顰める。それに対する与一郎の顔は面のように美しいままだった。
「何を言ったんだ、お前は…」
「わからないなら何度でも言ってやる。あんたを遺して、最期まで何も知らないふりをして死んだ奴が正しい?ふざけるな、あいつだけじゃない、それで正しいと思っているお前もだ。何が正義だ、何が教えだ、結局人ひとり幸せにできないのならさっさとそんなものは捨てろ」
「お前…お前、どういうことだ」
「あんたが高山殿に惚れたように、高山殿もあんたに惚れてたってだけの話ですよ、それ以外の話はしていない」
その言葉に忠三郎は息を呑む。そんな話、聞いたことすらない。
滲んだ恋心は忠三郎だけのものだと思っていた。会うことに下心を持っていた自分を恥じた。右近はもういない。それでも何かを期待してここにいる忠三郎にとって、それはまさに青天の霹靂だった。
「たとえあんたがどれだけあの方に惚れていようと、俺はあんたが引っ張られるなら全力で連れて帰るからな」
ふん、と鼻を鳴らして与一郎は、もう帰りますと立ち上がった。
それを引き留めることが、忠三郎にはどうしてもできなかった。
代わりにずっと右手に隠すようにして握りしめていた十字架を、両手で包む。
そうだ。右近の本当の想いを、忠三郎はたしかに知ることがなかった。最期まで。
右近は、忠三郎をどう思っていたのだろう。
与一郎の言葉を無邪気に信じるのならば、右近は忠三郎に特別な感情を抱いていたことになる。だがその真意はわからないし、もう一生知ることもない。
そうだ…もう思い出の中でしか語れない彼の声も、少しずつ忘れていく。この手に触れることもないし、忠三郎に笑いかけることもない。
あの日からどうしても流れなかった涙が、いまようやく芽吹くように忠三郎の瞼を濡らす。
悔しい。悲しい。寂しい。そんな想いが、堰を切ったように溢れてくる。
悔しかっただろう、悲しかっただろう、寂しかっただろう。もうその感情に名前をつけることはない。
涙が、正しさの不在をしきりに喚く涙が、いま正しく忠三郎の頰を流れ落ちる。