恥を知らぬ話

子どものころだ。忠長がまだ国千代と呼ばれていたころ。自らはどこまでも国千代だと思っていた。ずっと、一生そうだと思っていた。
兄とは仲が良かった。夜になるとしばしば国千代は竹千代を訪れた。今思えば、両親はそれを黙認していたのだと思う。早くに独り立ちを強いられていた兄を、きっと両親は家族として心底哀れんでいたのだと思う。無論その家族の中に国千代も当然含まれる。
その日も国千代は竹千代の元に向かった。傅役は相変わらずその望みに良い顔はしなかったが、どうしてもとせがんで叶った。一体いくつの頃だったかは覚えていないが、春の終わりの雨の晩だったはずだ。しとしと降る雨は、たった二人の兄弟を閉じ込めた。
竹千代は国千代の名前を呼び、隣に座るよう言った。国千代が座るとそっと肩に触れる。兄の手が心地よかった。兄の肩にしなだれ何度も頭を擦り付けると、兄の懐から良い香りがした。
「国」
そう呼ばれた国千代は、はいと答える。それがおかしかったのか竹千代はくすくす笑った。こんな笑い方もするんだと見惚れてしまう。兄はもともと体が弱かったが、こんなに儚く笑うだろうか。なんだか年齢差をまざまざと見せつけられたような気もするし、国千代にとって竹千代は兄であるとともに同じ兄弟なのだから、隣にいたはずの兄が急に遠くなるのが怖く、それでいて寂しかった。
「兄上、兄上」
幼い手で兄の顔に触れ、その頭をぎゅっと抱きしめる。
「国は良い香りがする」
そう言う兄もまた国千代を抱きしめた。秘密の夜だった。国千代は竹千代に小さく手を振って自らの寝床に戻った。名残惜しそうに見つめている竹千代の視線は、今でもよく覚えている。

それからしばらくしたころ……最初に酒を口にしたのはいつだろうか。何かの祝いの席だったとは思う。その時は酩酊すらしなかったはずだ。ただ、体が少し熱くなり、気分が良くなった。隣で竹千代も笑っていた。あのときはまだ隣にいてくれた。
国千代から盃を受け取ったのは確か土井利勝だった。彼は、国千代から盃を返された時、そっとこの手を包むようにした。今思えばあれは礼儀としては正しくないことだったが、利勝なりの心遣いであったのだろう。まだ幼い国千代が酩酊してはいないか、手の熱で確認したのかもしれない。
しかしその時はむしろ竹千代の方が酔いが回っていたはずだ。振る舞いは変わりなかったが、何度か国千代の方を見て笑ったのだ。国千代にはわかった。それは兄がそっと見せた素顔だとすら思った。その日がきっかけだったと思うが、よく二人で酒を飲むこともあった。きっといつまでもこの日々は続くと思っていた。その頃すでに抱き合うことなどはしなかったが、それでも良かった。兄はやはり酒がそこまで強いという訳ではなかったから、時々介抱するふりをして触れたこともある。それだけで十分だった。

何を間違えたのだろう。思えば間違いしかなかった気もする。
視界の隅にちらつく薄汚れた何かを振り払いたかったのが理由だったと思う。

あれから、国千代は忠長と名を改め、駿河大納言とまで呼ばれるようになった。
昔のように、国千代と呼ぶ者はもうどこにもいない。兄ですら、そう呼ばない。
確かに誰からもその名で呼ばれたくはないが、その中に兄がいないのは寂しかった。
どれだけ求めても、それは指先から零れ落ちる。どれだけ呑み込んでも、喉まで届かない。すべて忠長が望んで振り払ったはずだが、それらは今となれば誰よりも忠長が望むものだった。どれだけ後悔してももう遅い。
この手には血が滴るのだ。何度願っても、その力を振るっても、血のみがべたりと張り付くばかりで、あの時の笑顔は取り戻せない。忠長はただ、兄のそばにいたかっただけだし、どうしても視界に映るなにかよくわからないものを消し去りたかっただけだった。
「粗暴な行いは許さないと言ったはずだ」
諦めたような兄の表情は見たくないものだったはずなのに。あの頃のように微笑みかけることなど、もうないのだろうか。
頬に伝うものが涙なのか酒なのかもわからない。

恥を知らぬ者として呼ばれていることなど知っている。口には出さないだけで、おそらく忠長の周りもそう思っているだろう。
しかしそんなこと、もはやどうでもいい。
覚えたての恥は幼い頃にとっくにすべて使い果たしたのだろうし、今更願ったところであの頃には戻れなかった。

2025年8月12日