ときには桔梗も踏む

「桔梗か」
貴人口から入るなり家光は柱の花に目をやってそう言った。興味があるわけではない。誰にも望まぬ過去があるものだ。家光にだってある。誰にもそれを知らせずにいるだけで、触れられたくない過去など普遍的に存在するではないか。
天海はそんな家光の様子をじっと見ていたが、彼がこちらに顔を向けた瞬間ににこりと笑い視線を外した。天海はそういうことをしてくる 男だ。つかみどころがないが、それはけして不快ではなかった。彼からは緊張感とともに安らぎを感じる。ほどよいところが心地よく感じるのだ。
「本当は別の花をと思っていたのですが、桔梗を踏んでしまう困った猫がいまして。枯らしておくのも気の毒なのでこうして」
「摘んでしまえば同じだろう。それに枯れぬ花などない」
「そうでしょうかねぇ」
天海が話すには、どうも彼は懇意にしている田舎の寺に勝手に桔梗を植えたらしい。その時点でどうかと思ったが、天海がそうしたのであればそのままにしておくのが好いと思った。彼は間違わない。たとえ間違えても、正しくしてしまう。
「あの寺は色とりどりの牡丹を育てていますけれど、それでは秋口が寂しいでしょう」
他にも理由はあると思うのだが、彼が何も言わない限りそこにそれ以上の真相はないものだ。
牡丹は好きだ。昔良かれと思って牡丹の花を母に送ったことがあるが、そういえばあの時彼女がなんと答えたかを家光は覚えていない。
天海はこう続ける。
「これは桔梗の中でも珍しい花なのですよ。ほら、白いところと青いところがあるでしょう」
確かによく見てみれば、花弁の半分が白い。珍しいのだろうが、どこか座りが悪い気もする。それでいて他人事ではない気もする。
「色が欠けているのか」
「言い方がよくわりませんね。この花は色が欠けているのではなく、白という色を持っているのですよ」
そういう天海の目の色が、時折東雲色になることを家光は知っている。そして彼の見た目が初めて会った頃から変わらないことも知っている。本気で騙すつもりはないのだろうということはそこからわかる。きっと彼なりの牽制なのだろう。
自らの人間性の不在をそうやって示すことは、彼にとって出せる手札の一つに過ぎない。
「どちらも持っているということか。それは傲慢ではないか」
「ええ、傲慢です。しかしそれが許される花でもあるのです」
ふむ、そう思って天海を見る。年齢の刻まれた手首はいっそわざとらしい。
「傲慢だから猫が踏んだのではないか。その猫を褒めてやるべきだろうに」
猫に踏まれて根元から折れた桔梗は、まるで誰かの人生を示唆しているようで、実のところそうでもないのかもしれない。例え天海が他の誰かの人生をなぞったとしても、それは今の家光になんら問題にもならない。
「アハハ、猫にそこまではわかりませんよ」
天海は僧らしからぬ若い笑いをする。物怖じしない態度もまた好ましいが、今だけは少し気に食わない。特別な人間は自分だけでいいとすら思う。そう思えば、この桔梗だって特別だとは思いたくもない。これは踏まれたからもう特別でも何でもない。天海はその家光の思考すら読み取ったのか、うたうようにこう言った。
「家光様は誰からも踏まれないですし、私や周りがそれを許しませんよ。大丈夫です」
「何の話だ?」
「いいえ、なんでもありません。そうですね、悪戯な猫には今度なにか褒美でもやりましょう」