彼の死は正しくなかった。思えば、彼の父だって地震に巻き込まれて死んだのだから正しくは死ななかったと思う。
加賀爪忠澄が死んだという事実を細川忠利は病床で知った。昔から体が弱かったから、少し風邪を引いたと思っていたのだが、どうもこの命の火もそろそろ尽きかけているらしい。
夢の中で何度も忠澄と会った。もう久しく会っていない愛しい彼の名前を何度か口にしていたら、家老である野田が言いにくそうにそれを伝えてきた。
江戸はその街の構造上火事が多い。それまでは小火程度で済んでいたが、今回はどうもなかなか規模が大きかったそうだ。
忠澄は奉行として消火活動にあたり、その後行方が知れないという。
「それで、民部はどのような最期だったのか」
聞いても野田もその場にいたわけではないからわからない。きっと彼はその職務を果たしたのだろう。誰かを助けて死んだに違いない。そういう男だ。だから惚れ込んだ。
忠澄の判断はいくつもの命の枝を守った。勿論断罪した命もある。彼自身悩みもあったのでそれを何度も忠利に雑談ついでに話していた。忠利はただ聞いていただけだからそれは相談にもなっていない。むしろ悩みや相談をしてくるのはいつも忠利で、忠澄は穏やかに聞き届けてくれていた。
その時の誠実な表情がどれだけ忠利を助けたか知らない。
愚かな炎は、その護り手である忠澄の命をすべて奪ってしまった。その罪を知らぬまま燃え尽きて、後には何が残るだろう。忠利は燃え尽きた瓦礫の中から新たな命が芽吹くのを想像したが、それはけして忠澄ではない。死んだ人間はけして戻らない。
せめて、彼の死際に自分がいたらと思う。絶対にありえないことだとわかっているし、互いに若かったころからそれは叶わぬ恋とわかったうえで関係した。まだ青い二人の魂は、笑いもしたし喧嘩もしたし泣くこともあった。何度かの逢瀬は忠利を少しだけ大人にしたし、人見知りの気のある忠澄をおしゃべりにもさせた。野蛮で馬鹿な火事はそのときの肌をもすべて焼いてしまったというのか。
不思議と涙も出なかった。その代わり食事が喉を通ることもなかった。
その様子を見かねた野田や他の人間たちは、何度も忠利にこう言った。
「殿、とにかく養生を。食べねば治るものも治りません」
「……いや、下げていい」
「しかし」
「もう子供ではないんだ……わかってくれ」
野田は忠利の周りのことはほとんど把握している。忠澄との関係を知る数少ない人間の一人だ。どうも周りの人間は、忠利が懇意にしていた忠澄の死を何故伝えたのかと野田を詰ったようだが、彼は悪くない。誰にも罪はなく、ただあるのは冷たく乾いた風ばかりだ。それが罰だとでも言うのだろうか。
「いつか民部が言っていた。罪なきものに罰を背負わせるようなことはなってはならない」
「……」
「しかし、私の母はこう言っていた。人とは生まれながらに罪を持っている、と。ではこの別れは罰なのだろうか」
思い出すのは母の手のぬくもりだ。耶蘇に帰依していた彼女と忠利は早くに離れて暮らしていたが、それでも覚えている。彼女の利発さをたたえた表情は、よく考えたら少し忠澄にも共通点があった。
野田はしばらく考えていた。聡い彼には何度も助けられた。彼の言葉には常に説得力とほのかな暖かさがあった。それは間違いなく人間としての深みだと思う。
「私は耶蘇の教えを詳しくは知りませんが……それでも生きねばならないのが人ではありませんか。私は足が動きません。しかしそれでも生きていたいと思うものです、それは罪にも罰にもあたりません」
野田はそう言って右足をさする。もともと感覚もないのだという。昔、それを揶揄って悪戯でつねったが表情を崩すこともなかったことを思い出す。今思えばそれはしてはならないことだと思うが、あれがなければそういう人間の苦悩に気が付かなかったのも事実だ。
「私は生きるのにほとほと飽いた」
「まだ弱音を吐くには早すぎませんか。三斎様がお聞きになったら気を悪くするでしょうな」
「はは、それもそうだ」
そう言って忠利は出された食事を眺める。食べたほうがいいことは頭ではわかっている。しかし手を付ける気にならない。どうしてもそこに確かにある死に近寄ろうとする足を止められない。
やはりどこかに罪があって、これが罰だと思わざるを得ないのだ。では、その江戸で起きたという火事と忠利は似たようなものではないかと思う。未熟さは愚かさに比例する。そしてそれが大きければ大きいほど、そこにある罪に気が付かないまま生きてしまう。別に父を悪く言うつもりはないし、自分を卑下するつもりなんてない。それでも、幼いころから臥せりがちですぐそばに死の影がちらついていた忠利にとって、そこは安らげる場所なのだ。たとえそれが間違っていたとしても。そこから手を引っ張ってくれた何人かの人間のうちに、確実に忠澄はいたはずだったのだ。
「そういえば三斎様から伺いの書がいくつか届いておりますが」
「……わかった、返事をしたら少し休ませてくれ」
なすべきことをして、床に就いた忠利はそれから少し長い夢を見た。懐かしさのある匂いは忠利を子どもの姿に変え、やはり子どもの姿の忠澄に会った。それがもう叶わぬものだとはわかっていたし、それに浸ることは愚かだとすら思った。しかし、それでも忠利はそこから帰りたくないと強く願ってしまった。
それは確かに愚かで未熟だったが、広がる炎のように熱く空を焦がしやがて消えていった。長い夢は醒めることなく、漂う意識は陽炎のようにゆらめき、やはりそれも消えていった。