野ばらの瑕

もともと人の話を聞くのが好きだった。
同じ事象でも、そこに立ち会った際の立場や人柄で物事ががらりと変わって見えるのは面白いし、話す側の人となりもよく見える。
こと武辺談については向こうも気前よく二度も三度も同じ話をしてくれるため、一度目とどう違ったか、どの部分をより伝えようとしているのかなどを観察するのが面白かった。
また、話す前にどのような人物か予想して、話を聞いて密かに答え合わせをするのが、幼かった頃からの忠三郎の遊びであった。
偶々、その遊びを評価した大人が、時の権力者であった。
その為、忠三郎のこの密やかな遊びは、誰からも咎められることなく、大人になっても癖のように抜けなかった。

右近と出会った時、忠三郎は家督を継いだばかりであった。
二十歳そこそこで、自らを手にかけようとした主人を返り討ちにし、城を乗っ取った男であるという噂は聞いていたから、どんな勇猛な人間だろうと期待して見てみれば、存外に色の白く線の細い男だったものだから内心落胆したのは言うまでもなかった。
しかも彼は熱心な耶蘇教の信者であっただけでなく、忠三郎にも教えの道を説いてきたのだ。
そこに自身の過去の話は殆どなかったから、落胆はより深くなった。
顔をあわせるたびに勧誘してくる右近を鬱陶しい、と思っていたのが素直なところであったが、どちらも宗易氏の門下で茶の道を探求していたものだから、家督を継いだこともありたびたび顔をあわせる機会は増えていった。
茶室という逃げられない密室で延々と改宗の誘いを受けたこともあった。

宗教の話はよくわからない。
また何度聞いても右近の人柄は愚直なほどに真面目な人間だということしか忠三郎にはわからず、少し不気味ささえも覚えていた。

その日も、忠三郎は右近に茶の席に呼ばれていた。
また改宗の勧めをしてくるのかとうんざりしていたが、今日に限ってはそうではなかった。
そしてこの日が、忠三郎にとって忘れられない一日となったのだ。

いつ訪ねても少し息が苦しくなる茶室だ。あまりにも整いすぎている。
畳には塵の一つもないのはもちろんのこと、ここに至るまでの中庭も、つい先ほど掃除をしたばかりのように清められていた。
土肌すら整っているように見える。
おそらく忠三郎が到着する直前に掃き清めたのであろう。神経質だとはわかっていたが、改めてその常軌を逸した徹底ぶりは素直に恐ろしい。右近は何食わぬ顔で微笑み、忠三郎を迎えたが、返した笑みはおそらくぎこちなかっただろう。
矢鱈に機嫌のいい主人はそんなことに気も留めず、兵部殿から聞いた話なのですが…と話を始めた。

「飛騨殿は武辺話がお好きと聞きました。お好みかはわかりませんが、私が若い頃の話をさせてください」
その声は穏やかで、何故かしら名状し難く忠三郎を惹きこむものであった。
通る声だとは思っていたが、ほとんど年齢が変わらないはずなのに、まるで十も二十も年上のような穏やかで優しい慈しみに溢れた声であった。
それが忠三郎好みの荒々しい武にまみれた話をするとはとても思えず、まるで世の中を知らぬであろう深窓のご令嬢が、この世のすべてを語るような一種の不気味さが、武辺話だけでなく怪談も好む忠三郎の興味を煽った。

「忠三郎殿は、私がかつての主に謀反を起こしたことはご存知でしょう。…そうです、和田様のことです。惟政様亡きあと、私と父はかの家では疎まれる存在でありました」
右近の生い立ちや現在に至るまでは、ある程度は聞いていた。かつての主人和田惟長を追いやって領主となったということも。
こんな世の中だ、ある程度は起こり得る話であるし、むしろ誇らしいことであるはずだ。本人が話したがらない理由が忠三郎にはわからなかった。
「当時、荒木様との戦で惟政様が討死されたことで、和田家はひどく動揺しました。後を託された愛菊様…惟長様は、今思えば誰も信じられなくなっていたのだと思います。お立場上やむなくもあったのでしょう。私どもの礼拝に口を出し、伴天連どもと共謀して自らを殺そうとしている、とまで嘯いていたようです。惟政様に嫁いでいた我が妹にも、何かよからぬことをしていたと聞きました。実際のところ、むしろ私や父を殺そうとしていたのが惟長様だったのですが…ともかく、我々が庇護している信者にまで累が及ぶようになってしまったので、父と示し合せ、常に高槻の城を手に入れられるだけの手筈は打っておりました。この土地を教えの京にしよう、とも話していたものです。そんな最中、惟長様より評定があると登城の命が降りたのです」
忠三郎はじっと右近の表情を見つめていた。目の配り、表情の動き、声で震える喉仏を注意深く観察した。
話そのものは昔、織田家中に居た頃に噂程度に聞いた話とほぼ同じである。が、右近自身の私情が薄いのが気になった。

「それは…夜討ちの企みだったようです。他の和田家直参のお屋敷を見回らせたところ、評定だというのにどの家も動く気配がありませんでした。これは間違いないと私と父はわずかな手勢を連れて高槻に向かいました。折しもその日は雨が静かに降りしきる中で、我々の気配を綺麗に消してくれていたものですから、聞こえるのは周囲にいる者たちの息遣いのみでした。弥生の月でしたので夜半は冷え込み、吐く息も白かったのをよく覚えています。」
「そういったとき…右近殿は何を考えておられたのですか」
純粋な疑問をぶつけてみる。先ほどの違和感の確認もあるが、戦場とは違い深夜の城内でのできごとだ。もっと言えば明らかに仕える家中の者が自らに殺意を向けているという状況に対する自己認識に興味があった。
「私ですか?…そうですね、先ほども申しあげたように雨が降っていたもので、泥が跳ねて汚れるのを疎ましく思っていましたね…笑ってやってください」
彼の性格を思えば意外ではないが、それでも場違いな答えに忠三郎は驚きの表情を隠せなかった。
緊張感がないというよりも、ここまできてむしろそこに気が回ってしまう彼の潔癖さは、ここに至るまでも何度か思ったが異常の域を超えている。
失礼、と頭を下げたが表情はおそらくそのままだっただろう。
「構いませんよ。正直な話、惟長様を討ったとしても、後の事の方が心配でしたね。父は高槻を奪取することですべて解決すると言って憚りませんでしたが、当時を思えばそこまで単純な話でもありませんでしたから」

右近の父・友照と忠三郎は数度顔合わせをしたことがある程度であるが、右近とは対照的な雰囲気を持っているという印象であった。
実年齢より若く見えるという点ではよく似ていたが、声や身振りが大きく、実直で誰からも好かれるような昔ながらの侍というような様子であった。
「我々が登城しても、城内はひどく薄暗く、とてもではありませんが評定をするというような状態ではありませんでした。あまりに何かを企んでいることが明白でしたので、立場が立場でなければ笑ってしまうほどでした。呼び出された広間も灯りはほとんどなく、暗さで耳が研ぎ澄まされて何人かが襖の奥で息をひそめているのが確認できるくらいでしたね。そして上座にいた惟長様の顔を見た瞬間…笑っていたんです」
暗がりの中、むき出しにされる殺意の中で笑う若き主君の情景を想像するのはそこまで難しくはなかった。しかしその狂気とも取れる光景の薄ら寒さを払拭するのは難しい。怪談物は一通り網羅している忠三郎でさえ、頬が引き攣るのを隠せなかった。
「惟長殿は…どこか病んでおられたのでしょうか…」
「今となってはそう思いたいですね。だいぶ窶れていたようにも見えましたし。顔色も芳しくなくて…それに惟長様は既に抜刀していました。いつ来ても振り抜けるように用意していたのでしょう、一手遅れてこちらが刀を抜いて構えた時には灯りは消され斬り合いになりました。近くで襖が倒れる音が聞こえましたから、詰めていた者が乱れ入ったのもわかりましたが…怒号と悲鳴が響く中、私は真っ先に上座に飛び出しました。灯りを消した最後の姿から大体の位置を予想して刀を振り下ろしました。何かを考える暇などはなかったと思います。肉を斬る手応えはありましたが、何せ月明かりもない雨の降る夜半でしたから、果たして惟長様だったのか、どこを斬ったのかもそのときはわかりませんでした…それで…」
右近はそこで初めて少し逡巡したように目を伏せた。作り物のような艶やかな目元にそこで改めて気がつき、一瞬息を呑んだ。
次に何を言うのか全く予想がつかず、危うく続きを、と呟いてしまうところであった。
「わたしはそこで、一度死んだのです」

その言葉の意味を問う前に、右近は手早く身につけていた帯を緩めた。
肌理の細かい白い肌が露わになる。窓から差し込む光が、都合よく右近の首筋を照らした。

絶句とは、このときのためにある言葉だと忠三郎は痛感した。
右近の首筋には、荊が巻きついていた。例えるならば縊死体である。今までよくも気がつかなかったものだ。
というよりも、隠し通してきた右近の繊細さにも驚きが隠せない。

それが刀傷だと気がついたのはそれから少し経った頃であった。褐色に変色した疵が周りの皮膚を少しずつ引き攣れさせ、荊のように見えたのだ。それにしても凄惨な傷だ。今まで武辺談とともに多くの傷を見てきたが、ここまで死に迫る傷は初めてであった。
言葉もない忠三郎をよそ目に、装いを正すと右近はふっと笑った。
「この傷を負う前後の記憶はほとんどありません。気がついたら屋敷で寝かされていました。どうやら私が連れてきた若手が惟長様と間違えて刀を振ったようでした。目が覚めて何が何だかわからない間に、泣きながら死なせてくれと叫ばれたのを覚えています。彼もまた自死は許されませんので…」
右近の言葉は半分ほどしか忠三郎に届かなかった。
その着衣の下にある陶器のような美しい肌と、目を覆いたくなるような傷痕と、右近の潔癖すぎる人間性とがない交ぜになって忠三郎を襲った。
絶対に相容れないだろうそれらが、何故かしら整然と棲みついているのは恐怖であるとか、不気味であるとか、そういう言葉では説明がしきれなかった。もっと根底にある畏れのようなものを感じずにはいられない。

「…このような話、私の前だけでなくもっと広くお話になれば良いのに」
「あくまでも戦傷ではありませんし、誇るような話でもありませんので…それに」
「それに?」
右近は忠三郎の動揺をまるで意に反さず、静かに笑った。
「この傷は主と私を結ぶものだと、勝手に考えているものですから…あまり話すこともないかと」
そうだった。あくまで右近は勧誘のためにこのような場を設け、自らの肌を晒したのだ。
話に夢中になっていて、また右近も意識していてかそこまで教義の話をしていなかった。
忠三郎に畏れを感じさせたのは、もしかしたらその教えにあるのかもしれない。
それまで全く興味の湧かなかった…無機質で形骸的にさえ思えた彼の信じる南蛮の神が、途端に美しい形を帯びて忠三郎の目の前まで迫っているような、そんな気持ちさえした。

その日から右近と忠三郎の立場は逆転した。教えの話、傷の話繰り返し右近に話を乞うた。
その姿は周りから見ても異様であったと思うし、忠三郎自身違和感を覚えていたが、走り出した好奇心は止められなかった。
忠三郎は「わかろう」としていた。右近の人間性、価値観、思想…全てを理解しようとした。
伴天連とも話したし、気がついたら大坂で洗礼を受け、かの地での法号のようなものさえ手に入れていた。
その中で、好奇心とはまた違う、仄かな想いが忠三郎を支配しはじめていた。

最後までその関係は、変わることがなかった。