右近殿の信心は人よりも強くあられる。
ある時そんな話をしたのだった。確か、右近がかつて領民の死に立ち会ったという話をしたからだと思う。しかもその死に立ち会うばかりか、葬儀においては自ら力仕事を請け負ったそうだ。
高山右近という男は、信仰のために自らの城主としての身分、財産を全て投げ捨てたことがある。家族とわずかな人間だけを連れ小豆島などに潜伏していた頃の話は、実は忠三郎もよく知らない。知らないが、右近がその身分を捨てたことによって職を失った彼の旧家臣たちを何人か召し抱えたことはある。
皆毅然とした人間で、その家族らもどこか……融通が利かないと言ってしまうと良くないのだが、正直言って優秀である以上に難しい人材揃いでもあった。彼らを束ねていた右近は、おそらく畏怖されていたのだろう。その信仰心のまばゆい強さに。
そんなことを言って忠三郎は右近を褒めた。
「そこまで言われるほどのことではありませんけれども」
右近はそう答えるばかりで、むしろ忠三郎の元に旧臣がいることでなにか不都合が起きてはいないか気を揉んでいるようだった。
右近は潜伏生活を経て、前田利家の肝煎りで前田家の客将として暮らしている。つい最近終息した小田原をはじめとする関東での北条家との戦いでは、正式ではないものの軍の一部を指揮していた。切支丹として領地に聖堂を立て布教に勤しんでいた栄華を知る人間と思えば、その生活は困窮著しいものと思ったが、右近はそれでも自分以外を見ているのだ。
忠三郎は、その横顔に引け目を感じている。それはけして立場のみを理由にしない。
「いえ、右近殿。もし同じ立場になったとしたら、私はきっと何もできません」
まっすぐ見つめるのも恥じらうほどだ。崇敬もなにもかも超えて、忠三郎は正しく右近に思慕を寄せている。惚れた人間が困っているときに、いてもたってもいられなくなるのは当然だろう。
そこに水をさすように鋭い言葉が飛んできた。
「人である意味がないのでは、と俺は思いますけどね」
こちらを見ながら酒を飲んでいた与一郎が急に割り込んできたのだ。
彼もまた、優れた出自を持つながらも幼少の頃に京で町人に紛れ潜伏していた時期がある。本人はそんなものもう忘れたと言うが、随所に現れる彼の審美眼は、そこで鍛えられたのではないだろうか。いずれにしても忠三郎には経験のないものばかりだ。
「おい与一郎、なんてことを」
「俺なんかいなかったみたいな様子でいられると、流石の俺も腹が立つんですよ」
「おや、与一郎はそんなことがなくともいつも怒っているじゃないですか」
与一郎と忠三郎の睨み合いに、右近が割って入る。
と言うよりも、完全に加勢してきた。右近は与一郎よりも十も年上だが、与一郎のお構いなしの態度に右近も時折こういう姿を見せる。忠三郎だけであればけして見せないだろう。そうだ。右近はいつも忠三郎の前で穏やかで、時折微笑み、そして熱く教えや美しいもの、茶席でのしつらえや花の話をする。くだけた話をしないわけではないが、どこかで差を感じるのだ。
……与一郎への嫉妬とまでは言わないが、少しちりちりと胸が焦げるような気がする。同時に、自分の幼さを見せつけられたような気がして、勝手に気まずく思っていた。
もしかしたら、ここで一番人から離れているのは自分なのかもしれない。貧しさや苦難を知らず、教えや茶や歌を好み、困っていることと言えば最近新しく得た領地の配分のことばかりだ。領国経営だってけして楽ではないが、絶対的に彼らが得た労苦とは一緒にはできないだろう。特に右近のように、病める者や貧しい人々に混ざって教えに生きている人間は、忠三郎とは比にならないほど人間としての強さを感じるのだ。だからこれは嫉妬というよりも、同じものになれない苦しさだと思う。
「得られるものは得た方が良いんですよ。この人みたいに不器用に生きる必要がありますかね」
右近をこれみよがしに指さして笑う与一郎が本気でそんなことを言っていないことはわかる。
彼もまた、どこか不器用な人間なのだ。
忠三郎はだから、こう言い返した。
「それもままならないことの方が、却って人間らしいと俺は思うが」
それは右近を擁護したわけではない。か弱い自分を苦し紛れに守ったにすぎないのだ。こんな魂胆を右近には知られたくないけれど。
右近はしばらく笑っていたが、忠三郎の言葉に息を少しだけ漏らし思案していたようだ。そしてうたうようにこんなことを言う。
「人であることとは詮無いことですね」
「右近殿がそう言うと、まるで人に憧れている何かのようだ」
与一郎はうたい返すようにそう言う。こういうやりとりだって、右近とはしたことがない……と、どうやら珍しく顔に出ていたらしい。与一郎がわかりやすくこちらを小突く。
「心配しなくても、右近殿は忠三郎殿が思う通りですよ。ちょっと揶揄っただけでそんなに恐ろしい顔をしないでくださいよ」
……そういえば、むかし与一郎に……自分が右近に惚れているかもしれないというようなことを口にした。
本当はきちんと相談したかったというか、右近との関係を良く知る与一郎に一度話すことで整理を付けたかったのだが、与一郎は変な話をするなと話を流して、なんとなくなかったことになった。
ただ、与一郎のことだ。彼は良くも悪くも執念深い。どこかで覚えていたのだろう。
「そんな顔はしていない」
「なんだか与一郎殿と忠三郎殿のやりとりを見ていると、羨ましくなりますね」
右近の言葉に忠三郎はまるで自分の心の裡を当てられたと思って思わず肩が揺れた。
「羨ましいもんですか、右近殿に忠三郎殿の相手を代わっていただきたい。改宗させたなら責任を取るのが筋でしょう」
「責任ですか? おやおや、これは困りましたね」
「おい与一郎。どういう意味だ」
与一郎はそんな二人の様子を見渡すようにして、大きなため息をつくと、明後日の方向に向かって大きな独り言をこぼすようにこう言った。
「別に。人である意味と同じくらい、あってもなくても俺達には関係のないことですよ」
了
2025年1月5日に開催された「もじのイチ」で無料配布したコピー本より、小説部分のみ掲載しました。