これが夢なら悪夢だろうか。
これが夢なら正夢になるだろうか。
これが夢なら…
「どうして」
そう呟く与一郎を、忠三郎は愕然と見下ろすことしかできなかった。与一郎は顔を背けその目の色すら伺うことはできない。
傷を舐め合うわけではない。そんなつもりで抱いたわけじゃない。ならばどうして?何故こんなことになった?
忠三郎の下で、与一郎は白い肌を晒している。陶器のようなその肌は、本当に血が通っているのか疑う。自分とは違いすぎる姿かたちは、忠三郎が思い描く美青年のそれだ。美しい、とは思う。今もそう思う。しかしまだ忠三郎には、与一郎は気のいい仲間でしかない。未だに。恐ろしいことに。
互いに酒に酔ったふりをしていたのだ。
そして現実から目を背け、倒錯的としか言いようのない行動に出た。明らかな罪に今の空気は相対する罰だ。
夢ならば、どれだけよかったか。いや、夢であってもよほどたちが悪い。互いに求め合ってしまった。その事実が忠三郎をただただ責める。
「どうして」
与一郎はさめざめと泣くような男ではなかったと忠三郎は思っていた。それがどうだ。溜め息を吐き、まるで女のように…いや、女だとしてもきっとこうは泣かないだろうと言うような嫋やかさで、与一郎は泣いているではないか。
夢ならば、どれだけよかったか。
きっと忠三郎は与一郎に聞かせたろう。夢の中のお前は色気も可愛げもあったと。趣味が悪いと機嫌を損ねた彼に笑って謝ることすらできただろう。
だがこれは寒々しいほどに現実だ。背中を冷えた汗が伝う。思い出させるように。目を醒まさせるように。
「与一郎、すまない」
そういうと、与一郎は顔を上げる。頰には涙が伝っていた。そしてその目は、疑いと怒りが滲んでいるように思えた。いや、実際はそうではなかったのかもしれない。忠三郎の後ろめたさが、そうさせていたのかもしれない。
「そう思うのなら、どうして同情なんてしたのですか」
また与一郎は顔を伏せる。そしてすすり泣いた彼を、忠三郎はそっとその胸に抱え、ひたすら謝る事しかできなかった。
同情。本当だ。同情以外のなにものでもない。与一郎の隠し持っていた真実の心を知ってしまった忠三郎にできることなんて本当はなかったのだ。
ただ、そうかと重く受け止めて、それでも仲の良い友人でいたいと、そう思うべきだったし、そう伝えるべきだった。
与一郎が打ち明けたのは、きっとそういう未来を期待してのことだろう。こんなことを期待してのことではない。
そしてそれを誰よりも与一郎は分かっている。聡明な男だと思っていたが、ここまで物分りが良いと却って不気味なほどだ。それもそれで勝手な話だ。
「確かに同情だ…言い返せないな。俺の中でお前は…」
「そういうことじゃありません」
「だがそれ以外に良い言葉が見当たらない」
残念だ。悔しささえ感じる。だがこれが事実だ。これで恋仲にでもなれたのならきっとまだ幸せだったろう。愚かに互いのことを好いているだなんて言えたのなら、愚かなりになにかを見つけることができたのかもしれない。
与一郎もきっと考えているのだ。だがそういう道を見つけるには互いに利口すぎたし、もう夢を見てそれで満足できるほど子どもでもなかったのだ。
「こんな言い方は好きじゃないんだが、与一郎、少し冷静になろう。せめて朝には何か言えるように」
「私は冷静です。先ほども、今も」
そこで忠三郎ははたと気がついた。大人だ大人だと思っていて、同い年くらいの気持ちでいたが、与一郎は忠三郎よりも若く、見えるものだってきっと違う。彼の中に燃立つ正しさと、忠三郎が持つそれは同じようでいてきっと違う。
ため息をついて、改めて悔やむ。そんな彼を手篭めにしてしまったのは間違いなくこの手だと。
彼は忠三郎にとって一番そうしたくなかった相手だったのに。
何故か与一郎がまだ年端もいかぬ子どもだった頃のことを思い出していた。繊細で体が弱いが、それ以上に気が強く信念を曲げない子どもだった。与一郎が言うには、その頃から彼は自分のことを想っていたらしい。
全く、全く気がつかなかった。与一郎の目はいつもその揺るぎない美学に従っているものだと思っていた。まさか自分をそういう意味のある視線で追っていただなんて。
「…そうだ、与一郎、お前はいつも冷静で正しい」
そんな彼を狂わせていたなんて、知らなかったで済む問題ではない。
大人として、責任を負わなければならないとすら思った。それが直接自分のかけた罪でないとしても、与一郎の大人ぶりに甘えてそこにある本当の気持ちに気がつかず振り回したのは事実だ。
「そんなことを言って欲しいわけじゃありません」
「お前は俺に何を望む」
「……何も」
その言葉がいたく寂しい。もう与一郎は自分になにも求めることがないほどに、失望しただろう。
失ったものはたった一つかもしれないし、超えてしまったものもたった一つかもしれない。だけれども、何もかも全てを失ってしまったような、そんな気さえする。
「もう手遅れなのか、本当に」
「貴方に縋れるほどわたしはもう子供ではありませんから」
与一郎はそう言って忠三郎から逃れようとする。ぬくもりの間に冷たい風が吹くようだ。陽の光が強いほどに影が色濃くなるように、一つになったものが二つに戻ろうとするその瞬間はとても儚い。
手放したくない。
咄嗟に出た言葉と行動が、与一郎の顔を顰めさせる。
「…やめてください。なにを考えているんですか」
「弱気なことを言うのは承知の上だ。俺がしたことが正しくないこともわかっている。それでも、頼む…今だけでいい、このことは忘れてくれ、このまま…」
「馬鹿ですか貴方」
そういうと与一郎はその手を振り払い、忠三郎の両肩を掴んだ。細い体の全てを使っているような力強さで、涙を落としながら睨む。
「忘れる?いい加減にしろ。忘れられなかったから、諦められなかったから、だから今があるのに。いったいなにを忘れると言うんですか。今だけ?冗談じゃない!」
その声は低く震えていた。指の力が、どんどん増しているようだ。ああ、そういえば与一郎の指は昔からきれいで好きだった。
そんなことを知りようもない与一郎が、冗談じゃない、と繰り返す。
いっそ憎悪すらにじんでいるのが忠三郎にもわかる。その憎悪すら、愛おしいと思ってしまうのは間違っていることなのは十分に承知の上だ。
思ってはいけない。わかっている。これは一時的な感情だ。同情にも似ているし、憧憬にも似ている。
だが、一線は確かに超えてしまった。許されないだろう。誰にだって、何にだって。
「こんなことをしたのに、夢じゃないのに」
もはや与一郎の言葉は忠三郎に向けたものではないことは明白だった。
その言葉の一つ一つが、忠三郎に刺さる。
夢。夢じゃない。互いに思っていることだろう。でもその先にあるものはきっと違う。忠三郎が愛したかった人。愛せなかった人。愛ではないと確信してしまった人。全てにおいて与一郎はいるのだ。何事もなかったように、それはすべてだ。与一郎にとってもそうだろう。与一郎の中で忠三郎は、きっと愛してはならない人だったのだ。夢の中でだけ、本当のことを打ち明けられる。そんな人間だったのだろう。
そんな与一郎に今だけだとか、忘れろなんて言う甘い言葉は届かない。わかっていたはずだ。そんな言葉に屈しうわべだけの甘さにとろけて、何も見ていないと目をふさぐことが、与一郎にとってどれだけの苦痛を与えるのか。
それでも思わずにはいられない。裏切りだと後ろ指をさされようと、冒涜だと顰蹙を買ったとしても。ただ単に、酷い男だと罵られたとしても。夢であってほしかった。そう、夢であってほしかった。
遂に与一郎は笑い出してしまった。くく、と笑う与一郎を忠三郎は黙って見ているしかなかった。
夢ならばきっと、忠三郎も笑えていただろう。そうに違いない。だが、現実だ。紛れもなく。
与一郎はまだ笑っている。なんて悲しい笑い方だろう。それに対して何も言えない忠三郎は、なんて寂しい存在だろう。
「こんなことなら、何も言わなければよかった。どうして、どうして…触れ合いたいだなんて、どうして情けが欲しいだなんて…」
きっと与一郎にとっては、この状況は間違いなく悪夢であり正夢であるのだ。
作り出してしまった。そんなものを。そしてぶつけてしまった。己の欲を。
情事後の虚脱感とはあからさまに違う、罪悪感。まるで初めて人を斬り殺した時のような、今となればよくわからないあの感覚に似ていた。
改めて思う。夢ならば覚めてほしいと。夢でなくても、現実でなければなんでもよかった。
目の前の与一郎がこのまま狂ってしまったらと思うと、もうこの場から逃げ出したくなる。
「どうして」
また与一郎が繰り返す。
現実の朝が夢の闇夜を切り裂いていく…。