【R18】蜘蛛の巣を壊して

もう何度目だろう。数えるのも疎ましくなってしまった。
与一郎が右近の体を抱くようになってから、一年ほどたった。きっかけは思い出せない。記憶という川に靄がかかったように不明瞭だ。
…嘘だ。本当は忘れられない。忘れようはずがない。与一郎と最初に過ごした夜は、今も右近の体と心とを蝕んでいる。それは目に見えない刃となって常に右近に付きまとっていて、今も思い出すだけで背中が泡立つのを抑えられない。濡れた衣服に体を包まれているような不快感を常に感じているようなもので、気を許すと吐き気に襲われる。虫唾が走るというのはこういうことなのかとも思ったが、もっと違う言葉があるかのようにも思える。わからない。わからないことだらけだ。
しかし一つだけ言えるのならば、いつしかそれは逆らえようのない弱みとなり、右近はまるで自らを贄にするように与一郎のもとを訪れたということだ。誰にも言えない、言葉にしてしまえば右近自身が自壊してしまいそうなおぞましい現実だ。なぜだかはやはりわからない。ただ、与一郎が嬉しそうに、誰にも言わない、と言った一言が無性に怖ろしく感じたのは確かだった。
そもそも右近はこんな軽々しい脅しに屈するほど弱い心は持ち合わせていないはずだった。それがどうしたことだろう。与一郎の顔を見た瞬間、右近の心は縛り付けられたように言いなりになるしかなかったのである。
そこにあるのは快楽でもましてや愛などというわけのわからないものでもない、ただの虚無だった。それらの行為に慣れてしまった自分がとても汚く、憎たらしく、情けなく感じる。
年下の与一郎に女のように扱われることを憂うのではない。
もう二度と救われない自らの魂を嘆くのではない。
ただ、この虚無に浸ることでしか、右近は自らを保つことはできなかった。それすら許されないのであれば、とうに気が触れていただろう。死ぬことを赦されていたのであれば、最初の時点で死を選んでいた。迷うことはなかっただろうと思う。
それとも、これも試練だというのか。救済による残り香だとでも言うのだろうか。何のためなのかなんてもう関係ないのかもしれない。
…与一郎の真意は今になっても知ることはできないし、今となっては知りたくもない。 何故このようなことをするのかなんて、知ったところでなんの解決にもなりはしないだろう。知ったところで苦しいのは変わらないのだ。本当にわからないことだらけだ。ただただ、常に見えない腕で首を絞められているような緊張感が右近を襲う。ふとした瞬間、肩が震えていることに気がつくのだ。あれから安心して眠れた夜なんて数えるほどもない。不思議と、与一郎とそういった行為に及んだ日から数日は、かろうじて眠りにつくことができた。一度抱かれれば、もうしばらく誘いはこないという安心から来るのだろうか。それすら浅ましい。情けない。どんなに嘆いても現実は変わらなかったというのに。
それだけの何かを与えられたし、奪われもした。数えてもたった数晩の出来事が右近を変えてしまったのだ。この体も、心も、もう右近の思う通りに動かない。ただ啼かされ、泣きながら犯されることにすっかりこの体は慣れてしまった。汚らわしい。この体にまとわりつく与一郎という男も、汚らわしい。自分の体をそういう目で見るものすべてが、汚らわしい。そう思っていた。
…目の前にいるこの男も、そうなのだろうか。違うと思いたいが。
忠三郎の体に包み込まれた右近は、ぼんやりそう思っていた。暖かく、どこか懐かしい香りがしたが、それに対してなんの感情も抱けなかった。
忠三郎は右近のことが好きだと、愛していると言って急にこの体を包み込みにきた。本当に突然だった。それまでの右近だったらどうしていただろう。拒絶していただろうか?それとも抱きしめ返していただろうか?それとも…今と同じようにただただ腕の中で呆然としていただろうか。わからない。なんだか最初から自分はこんな人間だったような気もするし、違うような気もした。
ただ、忠三郎を汚らわしいと思ったことはただの一度もなかった。それは今もそうだ。なぜだろう。わからない。だから咄嗟に出た言葉と涙は、右近の意識下によってもたらされたものではなかったのだった。気がついたら目頭が熱くなっていて、涙がこぼれたのだった。
「あなたは違うと、そう思っていました…」
右近が泣いている、それに気がついた忠三郎は、抱きしめる力をふと弱めた。
否定されるのを承知で言葉よりも先に右近を抱きしめた。それでもいい、むしろそうしてもらったほうが、諦めがつく。喩え無責任と呼ばれたって構いはしなかった。それだけそれらの行為は衝動的なものだった。抱きしめた体は思いのほか細かった。肩から背中、腰にかけて、わずかに震えているのを感じてそれすら愛おしいとさえ感じた。
しかし、それだけ咄嗟に抱きしめたものの、右近のそれが思いもしない反応だったので動揺を隠そうという思いすら吹き飛んでしまった。
「違う、それはどういうことですか」
右近はなにもいわずただ首を横に振った。そして小さく、ちがいます…と呟く。それがとても意味ありげだったので、たまらず
「何が違うんですか、教えてはいただけませんか」
体を離し、手を握って問おうとしたが、その前に手を振り払われてしまった。そしてその手を…抜けるような白い手を固く握り締め、右近はそれを膝の上に乗せて俯いてしまう。その姿はいまにも崩れてしまいそうなほどに儚く、危うかった。思わず生唾を飲み込んでしまって、その浅ましい行動を恥じた。そうではない、そういうことではないだろうと自分に言い聞かせるが、本能というものがもしあるのならばそれは無慈悲なもので、忠三郎は情けない声で唯一つ、
「なにか、あったのですか」
そう言うことしかできなかった。
「飛騨殿には関係のないことです」
右近の言葉は小さかったが、冷たく突き放された気がする。それに対しまるで子どものように必死に追い縋ろうと今度は半ば無理矢理に右近の手を取った。それが本当にいいことなのかはわからなかったが、抱きしめるまでしてしまったのだ。今更手くらいどうしたと自らを奮い立たせる。
右近の手は相変わらず傷だらけだった。右近のすぐに手を清めようとする悪癖については、昔本人から聞いていたが、実際に手を取ると見た目よりもざらりとした手触りに動揺する。細かい傷が積み重なった結果だろうか。何が彼をここまで追い込んでいるのだろう。忠三郎にはわからない。わからないことだらけだ。右近の涙も、傷も、知らないことしかない。そういっても過言ではないくらいだ。
その指先は先ほどまで握りしめていたせいか、赤く充血していた。血が通うのを感じる…整った生の匂いのする、手だった。
「…離してください」
「離しません。何があったのか、どうかお話し頂けませんか」
右近は首を横に振る。何かを諦めたような顔と言うのが一番しっくりくるが、その本当の意味は見えなかった。
「私はあなたの思いに叶うような人間ではありません…それだけです」
「納得がいきません。私のことが気に入らないのならそう仰ってください」
「そうではありません。飛騨殿に非はないのです…手を、離してはいただけませんか」
右近はそう言った。確かにそう言った。まるで非があるのは自分だと言いたげに。忠三郎の動揺を察してか察さずか、右近は続ける。
「わたしは卑しく浅ましい人間です…そもそも飛騨殿と触れ合う資格などないのです。どうかわかってください、お願いします…」
「わかりません、わかりません、高山殿。あなたは浅ましくも卑しくもないではありませんか、それは私が証明します。誰がなんと言おうと変わりません。あなたは…どうしてそのようなことを…」
違う。本当は、何があったとしてもあなたは美しい、そう言いたかった。しかしそれは言えなかった。そんなことを言っても、右近をただ追い詰めるだけのような気がしてしまって、忠三郎の喉もとで止まってしまった。ただ、その身に降りかかっている火の粉のようなものの正体を、探ることしかできなかった。その卑しさも浅ましさもすべて忠三郎のものだった。右近のものではない。
右近が口を開く。唇の造形に目眩がしそうだ。ことの大きさで忘れていたが、先ほどまで抱きしめていられた位置に二人はいる。今更心臓が早鐘を打つが、もう後戻りはできない。そんな彼の控えめな唇が、ぽつり、ぽつりと言葉をこぼした。
「わたしは、飛騨殿の気持ちを知りながらなんて愚かなことを…許されることではないのです、到底許されることではないのです…」
そしてまた涙を零すのを、忠三郎はただただ見つめるしかできなかった。
「知っていた…というのですか、私の、気持ちを…?」
「……」
右近は唇を噛んだ。それから言葉を紡ぐのをやめてしまった。
知っていた?右近が、すべて知っていたというのか。本当は肩をつかんででも聞き出したかったが、それをしてしまったら右近が壊れてしまいそうな気がしてできなかった。いつから知っていたのか、今までどんな気持ちでいたのか…そして、右近が言う愚かなこととは一体何なのか…聞きたいことは山ほどあった。それでも、聞けなかった。
ただ、無言が二人を包む。外からいつの間にやら降り出した雨音が響いていたが、二人の間を繋ぐにはとても脆いものだった。
そして右近は忠三郎にどこまで話すべきかを考えあぐねていた。本当は何も話したくない。聡い彼の事だ。些細な言葉から、右近が隠したいすべてを悟られてしまいそうで。しかし何かを話さなければ、忠三郎も納得しないだろう。忠三郎の手が微かに震えているのがわかる。余計なことを言ってしまったと後悔したがもう遅い。
…本当は、すべてを晒してでも忠三郎に受け止めて欲しかった。右近の中のよこしまな思いが、それをしろとひっきりなしに囁きかけてくる。だめだ、それだけはしたくない。もしすべてを明かしてしまったら、忠三郎はどうするだろう。それによって引き起こされたことを、二人背負うには大きすぎる。
だから、一人でいい。この罪も苦しみも、自分のものだ。誰かに…それも何も知らない、ただ自分を想ってくれていた忠三郎に背負わせるなんて、あってはならない。
「…いつか、いつか本当のことをお話します。いつとはお約束できませんが……少し時間が必要なのです。ですから、心配には及びません…」
自分でも笑ってしまいそうなほどたどたどしかった。子どもじゃないのだから、と情けない自分を隠すように俯く。その言葉を聞いた忠三郎は、ぐっと口を真一文字に締め、頷いた。そして、
「わかりました…いつか、高山殿の御心が晴れてすべてをお話しできるようになることをお祈りします…」
そういって、ずっと握りしめていた手を漸く離した。名残惜しげな手を、握り返すことは右近にはできなかった。そんな資格などないと、自分の中の自分が詰ったような気がして。

—-

「告げられたのですか…ほう、あれだけ諦めると仰っていたというのに」
与一郎は呆れた顔をして忠三郎に言葉を投げた。どこか興味がないとでも言いたげな表情だったが、その目は忠三郎を値踏みするように鋭い。
「…それについては今はどうでもいい…高山殿の様子が少しおかしかったのだ…与一郎は何か聞いていないか?」
心配しないでほしい、と右近は何度も忠三郎に言った。だがそういうわけにもいかない。与一郎なら右近とも親しい。少しでも何か知っているようならばと思って、覚悟を決めてそこまで話したのだ。
「……そうですか、右近殿の様子はいったいどのような?」
「それが……」
一瞬言葉が詰まる。右近は忠三郎の気持ちを知っていたという。忠三郎はこの気持ちを長らくひとりで抱えていた。そう、目の前のこの与一郎の前以外では。
与一郎の事を疑うというと聞こえが悪い。が、もしかしたらなにかあったのではないかという気持ちもなくはない。与一郎のことは信頼しているからこそ、確認したかったのだ。
「…知っていた、と言っていた」
「知っていた?」
「俺の気持ちを知っていたと言っていた…」
それを聞いた与一郎は、暫く天を仰ぐように視線をはずし、
「…まあ、そうでしょうねえ」
と、呟いた。想定していた答えではなかったので、それを聞いて咄嗟にできたことは眉を寄せることくらいだった。少し素っ頓狂な声が出てしまう。
「何が言いたい?どういうことだ」
「わかりやすいのですよ。あなたは。わざとしているのかと思うくらいに」
「…そうなのか?」
「とても」
与一郎は腕を組み頷くように床に目線を落とした。その瞳はどこか寂しげであったが、何故かはわからなかった。
しばらく与一郎の視線の先を探っていた忠三郎だったが、なんだか急に気恥ずかしくなって耳が熱くなるのを感じた。秘めていたと思っていたものは、当事者であり一番隠しておきたかった右近にさえ伝わってしまうほど脆いものだったのだろうか。そうであったとしたら、非常に居心地が悪い気持ちがせり上がってきた。声が上擦るのを隠せない。
「……俺の気持ちを裏切った、とも言っていた」
それを聞いて与一郎は視線を忠三郎に向け、ふ、と笑ったように見えた。が、何故笑う、と問う前にその表情は消えてしまった。
右近だけでなく与一郎もどこか様子がおかしい。まるで秘密を暴露された子どものようだ。忠三郎のそんな疑いを知ってか知らずか、与一郎は眉を下げていかにも心配だというような顔をした。
「そうですか…」
「何か心当たりがあるのか」
「心当たりというほどのものではありませんが……まあ、これはご本人から直接聞いた方が良いと思いますがねぇ」
そういう与一郎の口ぶりは、言葉以上にどこか思わせぶりだった。やはり何かを隠しているように聞こえる。ただ、何を隠しているのかはわからない。
「何故だ、何か知っているのか、教えてくれ」
「…いえ、何も知りはしません。…お疑いかも知れませんが、わたしはあの方に何も話してはいませんよ」
与一郎はそう言って、今度こそふっと笑った。それは…友人に使う言葉ではないとは思うが、夜にひっそり咲く花のように艶やかだった。

…もう潮時か。そう思って与一郎は忠三郎を見た。いや、忠三郎の中にある右近を見た、といったほうが正しいか。
どれだけ傷をつけても、どれだけ快楽を与えても、彼の魂には傷一つつかなかった。どんなに深く、刃物で切り裂くように犯したところで、凛と立つその姿をかき消すには至らなかった。むしろ、荒れ地を好んで咲く花のように大地にしっかりと根を張り、与一郎を錯乱させた。
あの男の末恐ろしさ、抱いているときですら何者のものにもならない…いや、しいて言うならば既に彼らの神のものなのだろうか…不気味さ、挙げたらきりはない。だからこそ抱くことをやめることができなかった。
お前は既に天にはゆけぬ体なのだ。それを思い知らせるために。
こんな男が忠三郎に見合うわけがない。抱いてわかった事が一つある。あの男のある意味での欲深さは、忠三郎の手には負えない。与一郎の手にもだ。救済とやらへの貪欲なまでの執着。それは既に男を知っているとは思えないほどの純粋さだった。目がつぶれる思いを何度したことか。
こんな男が見合うはずがない。なにがあったとしても!……もういっそ、死んでしまえばいいのに。
…わかっている。彼一人が死んだところで意味はない。そんなことをしてもこの想いが届くわけがない。何があっても忠三郎が右近を愛している事実は消えないというのに。

昔、忠三郎が右近があまりにも清廉潔白すぎて、色事に疎いのではないかという話をしてきた。疎いのはお前だ、と言い返してやりたがったがぐっと飲み込んだのを思い出す。右近は忠三郎に全てを伝えられる前に…いや、与一郎と肉体関係を結ぶその前から、忠三郎の気持ちに気がついていた。
そもそも、最初の夜、右近はそれを打ち明けに与一郎のもとを訪れたのだから。何故二人して自分のもとに来るのかという苛立ちもあった。それ以上に、右近が忠三郎を悪く思っていないという口ぶりをしていたのが気に入らなかった。
悩む右近に付け込んで無理矢理にその体を抱いてから、どれだけの一年が過ぎたろう。誰にも言わないから、という非常に安っぽい脅しのような約束を右近は馬鹿正直に呑んで何度も体を与一郎に開いた。こうも素直だとは思っていなかったから逆に訝しんだのがもう遠い過去のようだ。それらは忠三郎の想像を越えた出来事だろう。今のところは。
忠三郎は漸く一つの答えに気がついた。が、それは真実には程遠い。近くてたまるか。どれだけ忠三郎が想像したところで、その程度では与一郎の本当の想いには未だたどり着かない。想像などというものは結局、自分の良心の外を出ることはしないのだから。
しかしこの様子では与一郎が指し示すこともなく、限りなく真実に近いところまでやってくることだろう。疑問を抱きながら、疑問にまみれながら。正直忠三郎が右近に思いを告げるのは想定外だったし、右近が何を言ったかは知らないが、どうせ自分との間柄を恥じて何も言わなかったに違いない。そんな態度を見せられたなら、さすがの忠三郎もいつか答えにいたるはずだ。右近との関係も、与一郎の真意も。きっとすべてに気が付くだろう。そして忠三郎のことだ、気が付いても一人で悩むに違いない。誰にも言わず、誰も恨まず。
ならば壊してしまおう。恨みを買うのは自分だ。他の誰でもない。たった一人、自分だけだ。それでいい。いや、それこそが今となってはたった一つの望みだ。

…それらをまるで億尾にも出さず、今度またここに来るように何気なく誘ってその日は終わった。
終わりの鐘は確実に鳴ろうとしている。

—-

その日は折しも雪の降る晩で、手先が冷え切ってしまうほどひどく寒かった。ちらつく雪を疎ましく思いつつ、忠三郎は右近のことを考えながら、与一郎の元へ向かっていた。
いつか本当のことを言う。本当の事とはなんだったのだろう?そして与一郎の言っていた、直接聞いたほうがいいこと、これも右近の言っていた本当のことと同じものなのだろうか?
右近も与一郎も肝心なことを忠三郎に話してはいない。本当の事は今も見えない。そこにあるものはいったい何なのだろう…いや、考えても答えは出ない。わかっている。これまで聞いた数々の言葉を反芻しながら、雪の積もり凍りついた土を踏みしめた。きしきしと音が鳴る。子供のころ好きだった音色も、今となってはどこか忌々しい。
…直接聞くしかあるまい。
右近はあれから便りをよこさないし、今更会うのも気が引ける。あんな姿を二度も見てしまったら、今度は自分が何をしでかすかがわからないというのもあった。与一郎の誘いのままに、何かほかの話をしつつ何気なく話を聞き出せないかという邪な思いがなくもなかった。

しかしそれらは思った通りにはいかなかった。与一郎の屋敷前で、忠三郎は与一郎の側仕えの男に止められてしまったのだった。いつもは顔を見れば何も言わずに通しているのが、今日に限って何か様子がおかしい。今は別の来客があると言う言葉に思わず誰だと尋ねると、高山様でございますと言うので少しばかり動揺した。
右近が与一郎と会っている?
なんとか通してもらえないか、二人に直接会って話したいことがあるというと、それでもだめだとやんわり断られ、挙句いつもの座敷とは違う別の部屋に通されてしまった。
…一瞬一瞬が、まるで一昼夜のように感じられた。
もしかしたら今右近に会えば、与一郎の前ならば右近は覚悟を決めてすべてを打ち明けてくれるのではないだろうか。少なくとも右近は与一郎には何かを伝えたに違いない。
連れてきた従者にそこで待つように伝えると、狼狽えて止める彼を振り払うように忠三郎は部屋を出たのだった。

いつもの部屋の場所はわかっている。誰かに咎められたら厠にでも行くのだと答えればいい。そう思って一歩一歩、歩みを進めた。
気がつけば雪はやんで、雲の向こうにかすかにだが月の光を感じられた。

その部屋は暗かった。いつもとは違う雰囲気で、本当に二人がそこにいるのかもわからない。そもそもこの部屋で合っていたのかすら疑う程だった。しまった、部屋を間違えたかと踵を返そうとした瞬間、忠三郎の耳に聞き覚えのある声が聞こえてきたので足を止めた。
…右近の声だ。なにか話し声がする。こんな暗い部屋で?何かよほど大切な話でもしているのだろうか…それにしてもおかしい。
忠三郎は咄嗟に壁に背中を合わせて耳を欹てた。これが褒められたものではないことくらい重々承知だ。普段の忠三郎ならば絶対にしないことだし、軽蔑する行動だ。しかしここで引き下がったら何か後悔しそうな確信に近い予感が、忠三郎をこのような行動に掻き立ててしまった。
すっと息を吸って呼吸を抑える。冷たい空気が胸に入り、なんとなく五感が鋭くなったような気がした。
…話し声は途切れ途切れだがかすかに耳に届いた。だから、その話し声の異様さに気がつくのに時間はそうかからなかった。普段とは違う、右近の声が聞こえる。
「…どうしてそのような…!」
言い争いをしているのだろうか。右近の声に怒気が伺えた。いや、怒りだけではない。なにか別の、必死に声をこらえているような、そんな声だ。更に続けて与一郎の声が聞こえてきた。与一郎からは怒りは伺えず、むしろ子供が内緒話をするときのどこか楽しげな声音だった。
「その方が………と思ったからですよ」
「なんて…なんてことを…!」
今まで聞いたこともないほどに高く、泣いているのかわからないが啜り泣くような声が微かに響く。
忠三郎は思わず飛び出そうと足を踏み出した。ただ事ではない、それだけを把握して。しかし、それから続いた言葉たちはその勇ましい足を止め、表情から色をなくしてしまった。
「ならば、早く、止め………っ!」
「まあまあ、…………でしょうし、彼には…待ってもらいましょう」
「あ、あ、あ………いけません、だめです………いや、いや……」
顔に流れる血がみるみる熱くなるのを感じた。相反して背筋が凍るのを感じる。もう何が熱くて何が寒いのかすら覚束ないが、その感覚を受容することしかできなかった。
…違うと思いたい。
ここにいるのは本当に与一郎と右近なのか、何が起こってしまっているのか、障子一つ隔てた向こう側の事はわからないではないか。しかしこの状況が、暗い部屋が、声が、忠三郎に告げている。たった一つの、答えというには残酷すぎる何かを。
足が震える。何が真実で何が虚構なのか、それすら曖昧なものになってくる。ただ、障子を開ける勇気がどうしても沸いてこない。
もし見てしまったら、もう二度と戻れないような気がして。

忠三郎がしばらく呆然としていると、突然閉ざされていた障子が勢いよく開いた。
目の前には与一郎が立っている。忠三郎がそこにいると最初から分かっていたかのように、しっかりと目を合わせてこちらを見ていた。
…ぞっとした。長らく友だと思っていた彼の、見たこともない目。それは哀れむような目をしていたし、侮蔑するような目をしていたし、もっと深い、慈母のような目をしているようにも感じられた。本当は目を逸らしたかったが、逸らすことはできなかった。何かに吸い寄せられるように見つめ、まるで石のように動くことができなかった。
そんな忠三郎を笑うように目を細めて口を開いた。
「盗み聞きとは感心しませんよ、飛騨殿」
「…お前は何をしている」
咄嗟に言えたことはそれだけだった。違うと言ってくれ、そう願っていたがとてもじゃないが口には出せなかった。
「お分かりになりませんか」
与一郎は不自然なほどにあっけらかんとしていた。いつも通りの声音が却って気味が悪い。いや、いつもよりも若干機嫌がよいようだ。酒にでも酔っているのだろうか。
「そこをどけ」
「ここまで無礼な方に譲る道はありませんなぁ」
唇の両端を持ち上げ、艶やかに笑う与一郎の後ろに誰かがいる。それが誰かはもはや忠三郎はわかっている。けれども、違うかもしれないという一縷の望みを捨てきれなかった。しかしそんな忠三郎の気持ちを裏切るように、次第に暗さに目が慣れてきて、部屋の中がよくわかるようになってきた。
座敷に…何も敷いていないそのままの床に、生白い肌が横たわっていた。
それは息を切らし、今にも泣き出しそうな嗚咽を漏らしながら、こちらを目を見開かんばかりに見つめていた。上気した頰は引きつり、動揺と恐れを隠しもせず、忠三郎を見ていた。
着崩れた着物から見える白い脚。白い脚。しなやかな線を描く、白い脚!
そのとき忠三郎は心のどこが崩れるようなそんな音を確かに聞いたのだった。それが何かはわからない。あなたは違うと思っていた、右近がつぶやいたあの一言が脳裏を埋め尽くす。その言葉は海水のように忠三郎の脳の隅々にまで行き渡りその思想を支配した。
与一郎を押しのけるようにして彼の元へ駆け寄る。与一郎は特段抵抗もせず、それらを見ていた。それは二人を嘲るようにも見えた。
「や…」
右近は身動ぎして忠三郎から逃げるように後ずさった。肢体を隠そうと身をよじっているが、隠しきれない白い肌にはあちこちに痛々しい傷があった。忠三郎の知らない、傷があった。そして近づいて初めて知った右近の表情は、今まで一度も見たことのない、明らかな恐怖に染まった顔だったが、その恐怖がなにを意味しているのかも、わからなかった。
「…お願いします、見ないでください…何も、知らないでいてください……違うのです…」
か細い声はそれまで聞いたことのないくらい上ずっていた。普段の饒舌さが微塵も感じられない。少女のような声だった。何も知らない、それはつい数刻までの忠三郎でいてほしい、そういうことなのだろうか。何も知らなかった。こんな答えだなんて。知ろうとしていた先の道が、こんなにも澱んだ暗いものだなんて!
「おや、右近殿、挨拶はされないのですか」
忠三郎たちに近づき、与一郎は喉奥で笑う。
そんな彼を忠三郎は振り向きざまに殴り飛ばしてしまった。それは忠三郎の意識を通り越していくものであって、完全に頭に血が上っていた。咄嗟にしまったと思ったがもう遅い。与一郎は体勢を崩し床に倒れてしまった。
こんな時にそれすら絵になる男だ。憎らしいほどに。ちっと舌打ちをして、与一郎は起き上がる。
「何をなさるんですか、痛かったですよ」
「お前は…いったいお前は何故こうのような……悍ましいことを…」
「悍ましい?笑わせてくれますな、あなただってこの方とこうしたかったはずですよ」
耳まで赤くなるのが自分でもわかった。違う、違う!と叫びたい気持ちと、本心にあった邪な思いを素手で鷲掴みにされたような痛みが襲った。そこまで考えていなかったわけではない。右近に触れたい、それから先のこともしてみたいと全く思わなかったなんて、そんなことあるわけがない。だが、言わなければならなかった。それは違うと。
「俺は…違う」
「どこが違うんでしょうねぇ」
与一郎が首をかしげる。全て、すべて見透かされているような気がする。それを気取られぬように怒りを前面に押し出すが、それすら悟られているようで気味が悪い。
「もう一度聞く、なぜこんなことになっている。俺にわかるように説明しろ」
聞いたところで、なんと言い訳しても許さないつもりだった。この際右近の同意が万が一でもあっても関係ないとすら思っていた。怒りが、ただの怒りが、わかりやすいほどの嫉妬が忠三郎を支配した。それが正しくないことは忠三郎が一番理解している。
ただ、ふうふうと息を吐き、握った拳を震えさせることしかできなかった。与一郎から見ても右近から見てもたいそう滑稽だっただろうが、そんなことはどうでもいい。怒りを抑えることは到底できなかった。
だがしかし、与一郎の発した言葉は忠三郎の想像していたものとはまったく持って違うものであった。
「それは…簡単なことです。わたしが、飛騨殿のことを愛しているからですよ」
言うまでもない、という顔をしている与一郎の言葉が、一瞬、この国の言葉ではないのかとすら思った。その言葉は短いものだったが、この場で理解するのはそれほどに困難なことで、一瞬体の力が変に抜けてしまう。
「…な、に?」
「飛騨殿」
「やめろ」
咄嗟に出たのは、自分でも情けないほどの制止だった。そんな忠三郎の声も聞かず、与一郎は忠三郎の目の前にまで再び近づいてくる。今日ほど忠三郎は与一郎が…与一郎の顔の傷が…美しく整った相貌が…恐ろしいと感じたことはなかった。
普段なら見逃していたそれぞれが、いま、じりじりと忠三郎に近付いてくる。それは忠三郎を追い詰めるには十分すぎるものだった。
「愛しています、初めて会ったあの日から今日に至るまで全てのあなたを」
「冗談はやめろ、答えになっていな…!」
言い終わるのを待たずに、忠三郎の鼻先に触れるのではないかというところにまで与一郎はいた。後ずさると向こうも一歩踏み込んでくる。壁まで追いやられもう逃れられないところまで来てしまった。再び手を上げるのもやむなしと目の際に力を入れるが、正直言って自分がいまどのような顔をしているのかまるで分からない。
目の前の彼の目が細くなるのを恐ろしい気持ちで見つめるしかなかった。
どんな言葉で繕っても、脅したところでもう与一郎は引き下がらないだろう。それだけはわかって、その恐ろしさが否応なしに忠三郎を襲った。
「やはりあなたは鈍い」
与一郎が笑った。その吐息が頬に当たるのを感じて眩暈がする。甘い、甘い、苦しい、眩暈。
何を言っているんだ、与一郎は。本当にこの男は与一郎なのか?なぜそのようなことを?疑問ばかりがあふれ出てくるが、今はもう何も聞きたくない。考えさせる暇すら与えてくれない目の前の麗人に忠三郎はとうとう懇願した。せざるを得なかった。なんてことだ。与一郎ですら、いや、与一郎だからこそか…?わからない。本当にわからない。ただ、一言紡ぐことしかできなかった。
「…聞きたくない。悪い冗談はよせ」
「冗談ではありません…冗談なんか言うものですか……愛しています、心から、あなたのことを」
「やめてくれ…与一郎」
これ以上の抵抗はできなかった。与一郎の顔をした知らない誰かとしか思えなかったから、最早拳を握ることすら許されなかった。
そしてそんな忠三郎の様を笑うようににっと口端を持ち上げると、更に近づいてきて…暖かなそれが忠三郎の唇を塞ぎ、滑らかな舌で歯列をなぞるとそっと離れていった。咄嗟に唇を拭う、が、もう遅い。
蹂躙された、この俺が、与一郎に!
何もできなかった。抵抗も、罵声を浴びせることも。ただ顔を赤らめてそこに立ち尽くすしかできなかった。与一郎はそんな忠三郎に満足そうに唇を舐める。おぞましいながら、美しいと、そう思ってしまった自分を恥ずかしいとすら思った。
すべて知ってしまった。忠三郎の中にその事実が這入りこむ。抵抗してももう手遅れだ。
「ひとつ……いいことを教えてあげましょう」
与一郎はそう言うと、挑発的に忠三郎を見上げた。
「今更なんだ、何が言いたい、言え…与一郎」
言葉だけの強がりだ。本当はもう何も聞きたくはない。耳を塞いで足を折り、全てを閉ざしたくなるほどの事実が忠三郎を襲い苦しめる。
「右近殿は…」
そこまで言って与一郎はふふっと笑い、今までに見たこともないような侮蔑の表情を見せると、
「あなたのことを…心から愛しているそうですよ」
「……!」
やめて、と右近が小さく叫ぶのが、やけに遠くから聞こえるような気がした。実際は立ち尽くす忠三郎のすぐ後ろに、いまだ立ち上がることもできずに啜り泣いていたというのに。
愛している、右近が。
辱められ泣き叫んでいた右近が、忠三郎を、愛している?
そしてその張本人である与一郎もまた、忠三郎を、愛している?
あまりにも情報量が多すぎる。忠三郎の考えをとうに超えてしまっている。またもや眩暈がする。頭に血が行き過ぎたのかくらくらとする感覚に勝てる気がしない。

—-

それからしばらく、右近は与一郎の前にも忠三郎の前にも姿を現さなくなった。右近を預かる孫四郎が言うには、彼は屋敷にある祭壇の前で、昼夜問わず祈りを捧げているのだと言う。
誰にも会いたくない、この我儘をどうか聞いてほしいと涙ながらに訴えられて、なにかのっぴきならないことでもあったのではないかと心配したものの、結局本人の好きにさせていると言う。

右近の手を離したあの時から、ずっと後悔していることが忠三郎にはある。あのとき手を離さなければ、右近の心にきちんと向き合えていれば。右近が抱えている苦しみを口にするまで阿呆のように手を離さなければ…もっと違う未来があったのではないだろうか。もっと違う何かが、二人を待っていたのではないだろうか。
少なくとも今のような事にはならなかったのではないだろうか。
…いや、今となってしまえばそれこそ愚の骨頂だ。右近がこんなことを話せるわけがない。こんなことだ。口に出してしまえば右近はきっとその苦しみに押しつぶされてしまう。そうまでして求めていた答えではなかったのだ。知りたくなかったし、右近も知られたくなかったであろう。
与一郎についてもそうだ。彼の意図はいまだ知れない。しかし忠三郎を…あまり考えたくはなかったが…愛しているということは本当なのだろう。だとしたら、彼には彼の苦しみがあったに違いない。むろん、それで彼が右近にした愚かな行為が赦せるわけではない。当たり前のことだ。そもそも忠三郎を愛しているというのならば、何故右近に手を出すような真似をしたのだ。その行動は未だ理解に苦しむ。
だが…忠三郎は今までの自分の行いを振り返る。苦しめていたのは、自分だ。まごうことなく、自分が与一郎を苦しめ、追い詰めていた。もし忠三郎が与一郎の立場だったらと思うと居た堪れない。好いた相手が、とんでもない相談を持ちかけてくるのだ。それも何度も。こんなことがあってたまるかと悲鳴を上げてしまうかもしれない。友人という枠組みに、忠三郎はあぐらをかいていたのではないだろうか。
結果的に右近を傷つけたのは、自分なのではないだろうか。
出口の見えない考えがめぐり巡って忠三郎を傷つける。
今までどんなことを言われようと、されようと、自分という人間は気にも留めなかったし、それが男としての…武士としての器だと思っていた。しかしこれはどうだ。
結局のところ忠三郎は誰も救えなかったではないか。この手は誰も救えなかったばかりか、大事な友人二人を苦しめただけではないのか。手を握り締める。血液が流れるのを感じる。いっそ止まってしまえばいいのに。そう思っても、生きるのをやめられない。
右近もまたそうであったのだろうか。与一郎もまた、そうであったのだろうか。よくない道と知りながらも、その歩みを止められなかったのではないだろうか。それを止められなかったのは、忠三郎の罪ではないのだろうか。

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更にしばらくの間を空けて、二人の前に右近は再び姿を見せるようになった。右近は何事もなく振る舞ったし、与一郎もそうだった。
忠三郎もまたそれに倣うほかなかった。疑念を抱いたまま、自らの愛への少しの恐怖を胸にそっとしまったまま。あれは何かの悪い夢だったのだろうかと今も思うことがある。夢だったらどれだけ幸せだったろう。
笑う右近のその表情の奥に隠された苦しみを忠三郎は知ってしまった。
与一郎が隠していた冷たすぎる情熱を、忠三郎は知ってしまった。

悪夢の先のぎこちない日常を今日もまた泳がねばならない。疑問を抱いたまま、恐れを抱いたまま。
その重さを知りながら知らないふりをして、今日もまた生き続けるのだ。
真実の道は、必ずしも陽の当たる場所とは限らない。愛とは、陽の匂いのするものとは限らない。
影におびえ、そしてそれを受け入れることでしか指し示された道はないのだ。
その思いを胸に抱いて。