そもそものきっかけを思い出すのは今も恥ずかしい。
…夢に彼が出てきた。それだけだ。本当の本当にそれだけなのだ。夢に出てきた人間に焦がれるなんて、恋に恋する乙女ではないのだからと呆れられるだろうし笑われるだろう。自分でも笑ってしまうくらいだ。だからこれだけは誰にも言っていない。与一郎にすら語ることはないだろう。言えるわけがない。それだけあまりにも自分らしくないことだと忠三郎は思う。
その声はとても印象的だった。高すぎず低すぎず、落ち着いた声だった。ずっと聞いていたいと心から願った。鈴の転がるような声とはよく言ったもので、忠三郎の耳に心地よく浸らせるような声だった。
しかしその声は忠三郎に何かを語りかけているようだったのだが、それが何を言っているのか、どの言葉なのかはよく聞こえない。何を言っているのか聞きたいのだが、夢の中の自分は何故かしら声を出すこともできなかった。
夢の中の彼の声に取り憑かれ、忠三郎は起き抜けの顔で辺りを見回してしまった。まるでそこに右近がいるのではないかと錯覚したほどだった。最初は、少し変な気持ちはしたがそこまで気に留めなかったと思う。その日常は変わらず流れた。
しかしそんな夢を…恥ずかしいことに何度も見た。そう、何度も見たのだ。何度も何度も彼は忠三郎に何かを語っていたが、残念ながら一度も右近の言葉を聞き取ることはできなかった。その代わり、その声や姿が何度も忠三郎の脳裏に焼きついた。
以来、忠三郎は惹かれるように右近の前に姿を現した。何かと理由をつけて、二人で会うようになっていった。傍から見たら異様な光景だっただろう。つい最近まで忠三郎は右近の狂信的とすら思える布教に辟易していたのだから。
気が付いたら、洗礼を受けていた。霊名を与えられ、それは使命感となって忠三郎はかの教えを回りに広めていった。その隣には必ずと言っていいほど右近がいた。
右近はそんな忠三郎の変わりように驚きながらも、いろいろなことを教えてくれた。その声で。現実の声は、夢で聞いた声よりもずっと澄んでいて、よく話しよく笑う声であった。右近が聖歌を口ずさめば、忠三郎もそれに倣った。海の外の言葉はあまり知らなかったが、心地の良いものだったと記憶している。その頃も、右近の夢はたびたび見た。
そしてある日突然気がついたのだ。忠三郎の心に生まれたその感情の名前を。それは抱いてはならないものだとはわかっていた。それでも、その想いは日に日に膨らんでいった。よくないものを孕みながら。
その体を、心を、魂を、自らのものにしたいという思いは、確かに教義に反していた。忠三郎自身、さまざまな意味で目をかけている若い従者との関係を右近に咎められてはいた。その時は反論どころか、目を合わせることもできなかったと記憶している。彼との関係は暫くして自然になくなっていった。そこに右近の言葉は関係あったのだろうか。むしろ、右近のみを愛したい思いが余計に湧き上がった気がしないでもない。よくわからない。
…人は生まれただけで罪を背負っていると言う。忠三郎にはそれがよくわからない。
右近からその話を聞いた時、かれ自身が持つなんらかの物語を感じてたいそう魅力的に思ったのだが、聞いているとどうやら、今生きている人間は須らく生きていると言う罪に囚われているのだという。もちろん忠三郎自身も。
それから何度も話を聞きに行った。同じ話を何度もさせるものだから、きっと右近に嫌われるだろうと思ったが、彼もなかなか常人の気骨ではないというか、何度も確認するように忠三郎に話してくれた。
最後まで、生まれながらに背負う罪が具体的になにを意味しているのかは、忠三郎にはわからなかった。
言葉では説明がつくのかもしれないが、どうしても心の中では理解できない。
ただ、一つ言えるとしたら、出会ってたった10数年の間に、忠三郎は右近に抱いてはならない想いを募らせるようになったということだけで、生きているのが罪というならば、忠三郎は右近の分の罪も贖いたいと思っていたことだった。たとえその思いが罪だとしても、忠三郎には右近が必要だった。いつかこの思いを告げよう。そう思っていた。いつか、いつかこの思いを笑い話にでもして、右近に伝えてみたら、彼はどんな顔をしてくれるだろう。どんな反応でも構わなかった。嫌われても、否定されても、それはそれでいい。この想いは本物なのだから。
そう思っていた矢先、忠三郎は病に倒れた。
それは突然のことではなかったが、気がついたころには忠三郎にはどうすることもできないほどの痛みと苦しみを伴っていた。
本格的に体調を崩してから、体の肉はみるみる落ち、一気に老け込んでしまった。わざわざ鏡を覗き顔を見ずとも手を見ればわかるのだ。手は何よりも雄弁に、その人の生き様や現況を語ると忠三郎は信じている。自分の浮腫んだ血色のよくない手を見て思うのだ。これはもう長くない人間の手であるということを。
最初に沸いてきたのは怒りだった。何故自分がこんな目にあうのか、これも神の宿命だというのなら神に聞いてみたかった。何故自分なのかということを。怒りというよりも、それ自体を否定したいという思いのほうが強かったかもしれない。しかし日に日に落ちる体力に、怒りの感情はあまりにも強すぎて、それを維持するのもままならなくなっていった。起き上がるのにさえ人の手を借りなければできなくなったころには、忠三郎の心から怒りは消え、ただ何もない無が包んだ。見舞いに来る人がいれば普段どおりに振舞ったが、帰路につく彼らを見送るともうその場から動けなくなり、しばらくは寝込む日々が続いた。期待するだけ無駄なのではないだろうか。もう治る見込みはないのではないだろうか。暗澹とした思いが忠三郎の心を支配した。
周りは口にこそ出さなかったが、その絶望は目を見るだけでも十分に理解できた。もう長くはないと理解した彼らの目を見ればわかる!哀れむようなあの目を見るたびに、忠三郎は腹の痛みとともに吐き気に襲われた。実際、何度も吐いたと思う。もはや記憶がおぼろげだ。
しかしそんな中でもはっきりと記憶に残っているところがある。右近が見舞いにやってきたときのことだ。無理をしなくていい、横臥したままで構わないと彼は言い、半ば強引に寝かされた。そうでなくても弱っているというのに、そういうところを一番見せたくない右近にそこまでさせて、情けなさや悔しさで涙が止まらなくなったのだ。そんな忠三郎を右近は抱き締め…彼に抱き締められるのは初めてのことだった…頭を撫でて励ました。
「でうす様は見ていてくださいます。この苦しみの先には光しかありません。あなたは光の中でこそ生きるべき人ですから」
その言葉の本当の意図や、右近の思いを忠三郎は総て知ることなどできない。しかしその言葉に涙が止まらなくなったのだ。まるで神から許されたような、そんな気がしたのだ。
それでも告げることはできなかった。この想いを白日の下に晒すには、あまりにも生々しく血が通いすぎていたから。
……最後に見た光景は、とうとう想いを告げられなかったその人の、生白い肌だった。
彼は必死に忠三郎に何かを伝えようとしていたが、どうにもうまく聞き取れない。外の言葉が堪能だとは思っていたが、果たしてこれは外国語なのだろうか。
一生懸命に声を上げようと口を動かしたが、それが声となってうまく話せているのか不安だ。
これは夢なのだろうか。おぼろげに見える姿は、美しかった。
やはりこれは夢だ。…いや、違う。これは「あのとき」見た夢だ。最初に見た。右近の夢。今思えばあの光景はあの時見た夢そのものだ。
もしこれが現実ならば、彼はとっくに四十を越しているはずなのだ。忠三郎の目には、そこにいる彼は、三十にも満たない美しい青年にしか見えない。初めて出会った時のままだ。もっとも、霞の中にいるような感覚の中では、それも断定はできないが。
綺麗な声だけが耳に響く。
隣にも誰かがいるようだ。いや、たくさんの人がいる。誰だろうか。家族か。医者か…それとも友か。忠三郎にはわからなかった。うまく息が継げない。ひゅうひゅうと喉が鳴る音だけやたら大きく脳に響く。それが邪魔で、右近の声が聞こえない。こんなことになるならもっと早く伝えておけばよかった。こんなことになるのならもっときちんと向き合えばよかった。愛しいと、その魂と触れ合いたいと、心の底から願えばよかった。
誰かが忠三郎の手を握っている。妻だろうか、それのも右近の手だろうか。暖かい。視界が潤む。涙を流しているのだろうか。目を何度も閉じたり開けたりするのだが、視界は一向に晴れないのである。もう痛みも感じない。動こうと思えば動けるのかもしれないと、指を動かそうとするが、縛られたように動かなかった。何かが聞こえる。遠い遠い昔に聞いた、あれは聖歌だろうか。口を動かすが声にならない。すべてが流れていく…忠三郎の意思に反して。
しかし薄れゆく意識の中で、忠三郎が見たものは確かにあの愛しい姿だった。何も言えなかった。何も伝えられなかった。あの頃から何が変わったというのだろう。変わってしまったのが、愛してしまったのが、これが忠三郎の罪なのだろうか。
何もかもが、砂のように忠三郎の手からこぼれていく。少しでも掴み取ろうとしても、ただ、こぼれていく。それでも、それでいいのかもしれない。それが忠三郎の人生なのならば……
—-
忠三郎の死の報せが与一郎に届いて暫くした後、右近が訪ねてきた。それは桜が散り始め新緑が芽吹き始めた頃だったと記憶している。与一郎はその姿を内心苦虫を噛み潰したような顔で迎えた。最期を看取ったのは、誰でもない彼であるから。
残念なことに、忠三郎がいなくてもなんとかこの世界は回っている。朝になれば日が昇るし、夜になれば月がその無情さを湛えてこちらを見てくる。
終わってしまえばいいと思った世界の先を、影を手放したその先を、与一郎は歩いている。影は日が経つほどにどんどん遠ざかるというのに。
「彼は最後に何かを」
彼は伝えたのだろうか、抱えていたその想いを。それだけでも知りたかった。右近がそれを語らなくても、表情を見ればわかるだろう。
しかし右近は沈痛な面持ちを変えることはなかった。
「いえ、何も…」
予想はしていたが、実際に言葉として聞いてしまうと、その想いを伝えなかった忠三郎の一種の優しさとそれを一身に受ける右近に対する嫉妬と、安堵のようなものがないまぜになる。気づかれないように舌打をすると、与一郎は右近と同じ、親友を喪った友の顔をして俯いた。
「そうですか…残念です。まだ若すぎる、何もかもを残して去ってしまうなど…」
右近は涙を堪えているようであった。ああ、なんて純粋な男だろう。そこに彼は惚れたのだ。与一郎にはない、いっそ末恐ろしいほどの純粋さ。ため息をつく。その真意を右近はきっと汲み取れない。
何も知らない右近は、去り際与一郎にこう言った。
「あの方は涙を」
「……」
「涙を、流されておりました」
それが彼の残したい、伝えたいすべてだったろう。
もう、その声を聞くものはどこにもいない。人は声から忘れられるという。いつか与一郎も忘れてしまうのだろう。そして忘れられてしまうのだろう。
過ぎ去った影のあと。残るものは何もないのだ。
右近が去ったあと、誰もいない空を眺めて与一郎は一筋の涙を流した。