君に世界

右近が死んだそうだ。
詳しいことは知らないが、かの国に到着して早々、病気であっさりと死んでしまったと言う。彼らはそれを帰天と言っていた。そう言えば妻が死んだときもそう言われていた。魂が主とやらがいる天に帰るからそう言うのだと。
馬鹿馬鹿しい。
死んでも何にもならない。あるのは骸ばかりだ。それは何も語ることはないし、何も聞いてはくれない。彼の物語はとっくに終わったのだ。物語の結末なんてあえて知りたくもない。その後の話なんてなおさらだ。
それでも彼が死んだという事実は与一郎を少し動揺させた。右近との仲はそれほどのものだったのかと、更に少し驚いた。もう何にも驚かないと思ったから。
この年になって、たくさんの友を見送った。それは夕暮れが夜になるのと同じで仕方のないことだと思っていた。その中の一人だと思っていた。でもそれは間違いだったのだ。生きているうちにそれに気が付いたら、何か変わっただろうか。いや、それでも何も変わらない気がする。
与一郎は彼が遺した手紙を眺めた。
近日出航いたします……この字を書く人間はもうこの世のどこにもいないのだ。こんな恋文めいた手紙をよこしてくるとは思わなかったが、今思えば右近は全てわかっていたのかもしれない。自らの天命とやらを。
与一郎にもいつか必ず来るこの物語の終焉。それがもし今日だとしたら? それとも明日だとしたら? もしそれがわかっていたとしたら、与一郎は誰と会い、何を口にし、何を飲み食いすると言うのだ。少なくとも、こんな手紙は書くことはないと思う。
ふと思い出した。その右近に惚れこんだ男がいたことを。その男こそ与一郎の淡すぎる初恋の相手だったのだが、今はどうでもいい。彼は右近に看取られて若くして死んだ。忠三郎というその男は、右近に惹きつけられるがまま改宗していた。ああ、そうだった、彼もまた帰天したのだ。
忠三郎が死ぬずっと前に、彼に右近とのことを何度も相談された。与一郎からしたらたまったものではなかったが、顔には出さなかった。顔に出したら、負けな気がしたから。
今思えば、この想いは口に出すべきだったのかもしれないし、言ったことで何か世界が変わったかもしれない。お前のことを好きだと言うことで、何か大きなものが変わっていった可能性はある。
それでも与一郎は、言うことができなかっただろう。なぜなら、右近のことを語る忠三郎の表情を知っているのはこの世で与一郎だけだからだ。それを手放してまで吐露することではないと、きっと思ってしまうから。
再び視線を手紙に落とす。貴方様にこそ相応しい……消去法では、と付け忘れてはいないか。別に自信がないわけではない。ないが、相応しいとまで言われて送られてきたものがものだ。そう言いたくもなる。
右近が手紙と一緒に寄こしてきたものは一服の掛物……平たく言うと絵だった。それも少なくとも与一郎にとっては特別なものだ。これは……かつて忠三郎が所持していたものだった。鶴が描かれているそれは、忠三郎の幼名である鶴千代に因んでいると言っていた。
忠三郎が秘密裏に右近に渡したのだろう。それを秘密にされていたことが少し腹立たしい。それを右近も黙って受け取っただけなのだろう。そこに何があったかなんて知りたくもないが、きっと、この二人の間には何もなかったのだと思う。
そうでなければ、こんな手紙を添えて与一郎に送り付けることなんてしないだろう。かの南の異国に連れて行ってやればいいだけだ。
外から春の香りがする。太陽が傾いて夕闇が迫ってくる。それらは赤くも黒くも見えたし、黄色くも見えた。この空のどこかに右近や忠三郎がいるのだろうか。今更そんな夢のようなことを考える暇はないが。
少し気になるのは、右近にはこの空は何色に見えているのだろうということだ。右近の目には、世界はどのように映っていたと言うのだろうか。もっと言えば、彼の世界に忠三郎や与一郎はいたのだろうか。
なんだか急に寒々しいほどに虚しくなってきた。
もしかしたらと思うその気持ちは、次第に確信に変わってくる。今となっては答え合わせなどする余地はないけれど、まるでそれこそが真実のように思えてしまう。
右近の見える世界に与一郎も忠三郎もおらず、そこにはただ、主とやらしかいなかったのではないだろうか。もうそこには、与一郎も忠三郎も入る余地がないくらいに膨れ上がっていたのではないだろうか。結果として右近は誰にものにもならなかったのではないだろうか。
そう思うと、帰天という言葉はしっくりくる。ただ持ち主のもとに帰っただけだ。それだけなのだ。そう思ったら、今更涙が溢れてくる。どんな願いも、どんな祈りも今となっては傲慢にしか思えない。手紙と絵を前に何か憎まれ口の一つでも叩きたかったが、声が詰まりそれは叶わなかった。
ただ一人、与一郎は人知れず泣くことしかできなかった。