いつかあなたに似た人が

改宗してしばらく言われたことは、教義でも救いでもなく右近との関係のことだった。
「”右近の門徒”になったのであろう」
口々にそう言う彼らに悪意がないことは知っている。彼らにあるのはたったひと匙の好奇心だ。
右近が忠三郎に何度もしつこく勧誘をかけていたことも、その後忠三郎が右近にこれまたしつこく教えを乞うて、まるで刷り込みされた雛鳥のようについて回った事も、それはそれは彼らの好奇心を刺激するものだったに違いない。そこに何かを見出しては話のタネにしているのだろう。そう思う人の気持ちもわからなくはないから、不快ではない……はずだ。
いや、本当に教義に…右近の言う救いに、そしてそこから広がる世界に、忠三郎が見つけたものを大切にするのならばそういったものを不快に思わなければならないのかもしれない。自分が思った事や考えた末の改宗はそんな軽いものではないと怒る事さえできただろう。だがそれはできなかった。
何故ならば、彼らの揶揄うそれが忠三郎にとって見当違いで下世話なものだと必ずしも言いきれなかったからだ。だから、不快に思うなんてできなかった。自分の思いを否定してまで彼らに怒ることなんてとてもできなかった。
だからこう言ってやったのだ。
「お前らも、信徒になるか?」
そう言うと、皆一様に顔をひきつらせた。その時の忠三郎の表情はそれはそれは恐ろしかったと、のちに伝聞で知ることになり笑い話になるのだが、その真意は誰にもわからなかっただろう。
ただ一人だけ、その言葉に動じなかった男がいる。
「そんなことを言って、本当に”信徒”になったらどうするつもりだ?」
与一郎はそう言って忠三郎を見る。
「喜ばしいことだろう」
なんの気もないとばかりにそう返す。与一郎の屋敷に入り、少しばかりかいた汗を拭き客間にやってきた忠三郎を主人の与一郎は酒と肴を持って迎えた。遠方より鮎が送られてきたので、今日の肴は鮎の塩焼きだ。肴というよりは食事になるが、まあそういったことを気にする仲でももうない。
「喜ばしい?なるほど、自分の敵にもならんということですか。ずいぶんと大きく出ましたね」
「そういう意味じゃないことくらいわかるだろう」
自信がないわけではないが、自信家だというわけでもない。右近と共に信徒になりたいという人間がいたとしたら、忠三郎は迷いなく手を差し伸べるだろう。だがそれは右近ならきっとそうするだろうという考えあってのことだ。忠三郎が、右近に対して並々ならぬ…それでいて、許されざる恋慕をもっていることを知っているのは、忠三郎とこの目の前にいる神経質そうな整った目鼻立ちをしている男、与一郎だけだ。
「この前ここにきた時はべそかいて悩んでいた癖に」
「…それは、改宗するかどうかを悩んでいただけだ……べそなんてかくか」
解された魚を食べる忠三郎の指の無骨さが好ましい。愛情とかそういうのを抜きにして忠三郎の精悍な容姿は与一郎の憧れでもあった。
与一郎の淡くほのかな、それでいて幼い初恋の相手は……よりによってこの忠三郎だった。どうしてこいつなんかが初恋の相手なんだろう。与一郎としては否定したいのだが、忠三郎がなにも知らないのでもうそのまま放っておいている。
忠三郎はなにも知らない。彼が知っているのは、自身が高山右近という男に惚れ込んでしまったことくらいだろう。与一郎は……その秘密と、忠三郎への恋心という二つの相反する秘密を抱えてしまっている。
いい加減にして欲しいと思うが、離れられないのも事実なのだ。仲の良い親友だと、互いにそう思っていなければいけないとすら思っている。多分忠三郎は疑う事なくそう思っているだろう。
「……殿」
襖の奥で何か歩く音と、側仕えの青年の声がする。来客だという。ああ、もうそんな時間か。
忠三郎はキョトンとしている。二人きりと言って秘密を話していたのに、という顔もしている。言い方が悪いが全て顔に出る男だ。それが彼の信用になっている。与一郎に小さく訊く。
「誰だ?」
「佳い人だ」
「よいひと?」
忠三郎が首を傾げていると、また足音がして……現れた男の姿は、宵の口だというのに早朝のような清らかさで客間に入ってきた。
「……右近殿?」
「おや、お揃いで…急に申し訳ありません、なにせこちらに着いたばかりで」
そう言ってその男…高山右近は忠三郎の隣に座る。浅葱色の着物に胸にはいつものロザリオが、彼の罪と言わんばかりにその存在を主張している。実際はそんなことはないのだろうが。そして今やそのロザリオと同じものが、忠三郎の胸にもかかっている。流石に揃われると与一郎も胸にチクリと何かを感じるものがあるが、いまはまあ、どうでもいい。
「いやいや、声がけしたのはこちらですから……おや、どうしたのです」
そう言って与一郎は忠三郎の方をわざと見やる。忠三郎といえば、その存在感のある印象的な目許をこれでもかと見開き、頬どころか耳まで真っ赤にしている。先ほど汗を拭ったのが嘘のように、全身から汗が噴き出ているように真っ赤だ。これは愉快だと与一郎は笑う。その笑いを右近は理解し得ない……はなから相手にするつもりなどないのか、それとも本当に気がついていないのか…それだけは与一郎にすらわからないが。
「いや……何でも、ないぞ」
そう言って座り直すところに、右近が滑り込むように近寄る。
「確かに蒲生殿、顔色が芳しくないような……おや、こんなに耳が赤く」
「ワッ!」
無防備に近寄ってくる右近に驚き叫んで体を揺らした忠三郎に更に驚く右近という図そのものが、いっそもう芝居がかってすら見える。与一郎に言わせれば三文芝居だが。
「あら、すみません……そんなに驚きました?」
ころころ笑う右近に、もう忠三郎は忠三郎ではないようにあわあわと手を振る。一生懸命否定しようとする子どものようだ。
「右近殿、この男は純なのです…あまりそう揶揄うと…」
呼んでおいて何だが、見ていられなくなって与一郎が皮肉めいて忠三郎の代わりと言わんばかりに応えると、右近は訳がわからないという風に首を傾げた。
「揶揄ってなどいませんよ?私は心配して…」
「いや、その、違うんです…お、おい、与一郎…」
違う、という言葉に右近はまた忠三郎を見る。そしてその手を取ってこう言った。
「純ではないのですか?」
「や、え……え?!お、おい、おい、与一郎、何笑っているんだ!?」
ここで与一郎は我慢できずに笑ってしまった。もう本当は右近はわかってやっているのではないだろうか。完璧な間だった。忠三郎はいまも口をパクパクさせている。魚かお前はと思う。そういえば右近の分の鮎がまだきていない。与一郎は息を吐きこう聞いてみた。
「もしこの男が不純だとしたら……右近殿はどうします?」
「面白いことを言いますね……不純ですか、それは困ってしまいますね…」
明らかに右近に手を握られた先で人からするには不可思議な音がする。まあ、間違ってはいないだろう。不純なのだから。
「…でも、不純だからと言って救われないということはありません。むしろ不純だと自らを知っている人ほど、救われるのです」
「待ってください右近殿、俺…じゃなくて、私…その、不純……ええと…」
しどろもどろな忠三郎が流石に気の毒になってきたのと、このままでは何かを勘違いした右近の話が面倒な方向に転がっていきそうなので、いい加減助け船を出してやろうと思った。
もう右近はわかっているような気もしたが、未だ右近に夢を見ている忠三郎のためだ。
「いやいや、右近殿…忠三郎殿は周りのものに”右近の門徒”と呼ばれることを気にしているのですよ。むしろこれ以上なく純なのです」
「そうだったのですか」
「あ……そ、その…」
もう大人しくそうだと言っておけよと蹴り飛ばしたい気持ちになるが、そこまでやってやる必要はないだろう。
「そうでしたか……そんな思いをさせてしまっていたのですね…」
右近も、たぶん思い当たる節があるのだろう。もう気にしていませんという顔をしているが、耳を塞いでは生きていけないのだ。
忠三郎はようやく人間としての形を取り戻したようで頷いていたのが、次第にぶんぶんと頭を振り出した。ああ、まだダメかもしれない。人形かお前は。出来の悪い操り人形かお前は。本当に右近が絡むとこの男ときたら、悲しくなってしまうくらい霞むのだ。病弱だった与一郎の憧れだった精悍な彼はもういない。いや、存在はするのだが…どんどん右近に塗りつぶされていく。それが少しだけ悔しいが、それでもこの状況を愉しんでいる与一郎もいるのだ。
「私が旗手になっているつもりはないのですが……でも、こればかりはどうしようもないですね、私の力不足でそうなってしまうものなのかもしれません…」
右近は右近で、何かわかっていますよという顔をしているが、やはりわかっていないのではないだろうか。そういえば最近右近と二人で酒を飲む機会がなかった。
今度二人で…聞いてみたい気もしたが、それを忠三郎に知られても厄介か。いや、そもそもそれは、野暮だというものなのかもしれない。
こうして三人で過ごすが、与一郎は自ら道化になるつもりは毛頭ない。
…まあ、結果として道化になるのは、仕方がないことだと思うが。
「蒲生殿にも苦労を掛けます。でもいつか、報われるときが来ると信じましょう…蒲生殿」
「は、はい」
「その時、またこうして笑いましょうね」
そう言って、忠三郎の体を右近はそっと抱いて、そして離れた。
ああ、忠三郎がまた何も言わなくなってしまった。よく見たら首元も、手も真っ赤ではないか。ころころと笑う右近に、流石にやりすぎだと与一郎はたしなめる。
「それはそれは素晴らしい、でもここでやらないでいただきたいものですな。見ていてあまり心地いいものではないですね」
「越中殿にもご迷惑を、なにか埋め合わせをしなければなりませんね」
「いや……たいがい迷惑はあなたの手を握りしめてるそいつから被っているので、別に…ああ、でも」
そう言って頬に指を這わせる。ここまで来たら、野暮も何もないだろう。
「なんでしょうか?私にできることなら」
「今度、こいつ抜きで話しましょうか」
「あら、そんなことでいいんですか。お優しい」
そう言って笑う右近の隣で、ようやく意識を取り戻したのか忠三郎が何か言っているが、無視すると奥に声をかけもう一回酒を持ってこさせた。

「最後の最後まで…何のつもりなんですかね、あの人は」
もう与一郎を与一郎と呼ぶ者はいない。皆、三斎様だとか、ご隠居様だとか勝手に呼ぶ。もう勝手に呼ばせている。なんでもいい。自分の姿にも慣れた。
…本当になんでもいいわけではない。現に今は少し苛ついている。人を払い、部屋に閉じこもるようにすると、独り言が次々に漏れてくる。
五十路を越え、細くなったその指には手紙が、少しずつ見えづらくなってきている目の前には一服の掛物がある。
掛物は絵だった。鶴の絵。今にも動き出しそうだ……この絵に与一郎は見覚えがある。いや、見たことはないかもしれない。
だがこれを与一郎は知っている。この鶴を……”この鶴が誰なのか”も。
「勝手な人……」
独り言は少しずつ大きくなっていくようだ。
そして手紙だ。これがいけない。こんな手紙を書いて寄こすなんて、本当に何を考えているんだ。
こんなの、まるで……。
「…恋人なら他にいたでしょう……人違いですよ、右近殿」
もう、いない。忠三郎と呼ばれたあの男は。本当にいなくなってしまったから。誰かに存在を塗りつぶされることももうない。唯一の人になった。
死んだ人間への恋文なんて悪趣味だ。ましてやそれを親友に送りつけるだなんて。考えられない。やはり、常なる人ではなかったのだ。あれは。
なにもそんな男を好きになることなんてなかった。なにもそれを自分に打ち明けることもなかった。あんなに悩んで、悩んで、それでも諦められなかったのに。
結局、何も知らないで、右近も忠三郎も旅立ったのだろう。まさかこんな形で取り残されるなんて。
「…やはりあなたにこそふさわしいもの…」
手紙を、少し口に出して読む。ああ、苛々する。もう忘れていたと思ったのに。実際、もうその声も話したことすら、全部忘れてしまったのに。
一気に吹き上がってくるこの感情もなかったことになってしまうなんて。最期に手を取るのは、自分じゃないだろう。こんな老いた手じゃないだろう。
思い出せども、思い出せども、忠三郎のあの瑞々しい魂がまばゆく光るばかりで、その輪郭すらもう思い出せない。もう何もないのだ。
「焼いたところで…許してはくれなさそうですね」
そう言って、与一郎は息を吐き、手紙を大切に遺すと決めた。切支丹に来世という考えはないと、右近は笑って言っていたが、もうそんなのどうでもいい。
いつか、忠三郎がこの手紙を見るように。いつか、この言葉の前に跪きさめざめと泣くように。
いつか、あの深い深い海のような瞳が、その身の罪を喚くように。
そう思って与一郎は手紙を仕舞った。