人間だった

菊の花が枯れはじめた。切り戻しをいつにするかなどというどうでもいい会話を聞いた。冬のあいだ土の中で、新たな芽はどのような世界を目にするのだろうと、やはりどうでもいいことを考えていた。右
近が死んで三年経った。彼が寄越した手紙を眺めることはしなくなった。代わりに何故か、与一郎は歌の一つでも返せばよかったと悔やむようになった。
あの日に戻れたら、いや、その更に前のあの日に戻れたら……そんなことを考えてもどうしようもないことなど、わかりたくなくてもわかる年齢になってしまった。記憶の中で微笑む友人たちの中で、右近も平等に色褪せていく。夢の中で気が付くのだ。彼らの声が思い出せないことを。指先から抜け落ちるその言の葉を、掴み取ろうと必死に手を握ったところで、ただ己の爪が掌に刺さるだけで何も手にすることなどできなかった。
また菊が枯れている。あれから更に五年ほど経った。与一郎の手元には作りかけの歌がいくつかできた。毎年何故かこの時期に一句一句絞り出すように歌を作っている。出来上がることはないのだろうし、出来上がらないことに意味があるのだろう。生きている限りそれに満足も納得もしないのだ。新たに出会う人々の顔に、旧い想い人を重ねたところで虚しいだけなのと同じで、あの時右近に言えなかったことを今新しく用意しても、それになんの意味もない。
昔、茶を沸かすための水を汲んだ桶に小さな穴が開いていて、気が付かずに持ち上げた二人の服がずくずくに濡れたことがあった。笑いながら乾かしたものだ。遠く海を越えた右近の衣は水に濡れやしなかっただろうか。彼はとても神経質だから、それはそれは嫌な顔をするのではないだろうか。別に彼を憐れむつもりはない。彼は間違いなくこの世の道理に自らの信条を示しそして打ち勝ったのだ。むしろ与一郎こそ憐れまれるべきではないのだろうか。彼に対し、ただ助命すると……その嘆願を方々に出すとだけ言ってしまったこの愚かさを、今となっては許せるほどもう若くない。右近は確かに勝った。与一郎の大切な初恋の人の魂を携え、きっと穏やかに逝ったのだろう。
ふと庭を見るとまた菊が枯れていた。あれから……何年経ったであろうか。もう思い出せない。二つほど選んだ歌以外はみな捨ててしまった。
「父上」
ふと顔を上げると、そこには先日寺から連れ戻したばかりの立充……今は立孝と名を改めさせた……が首を傾げこちらを見ている。誰にも教えていないのにも関わらず、何故彼は右近と同じ仕草をするのだろうといつも思う。本当に目の配り方やゆっくり顔を向けるところなどが似ているのだ。その頬の肌理の細やかさなども少しずつ似てきている気がする。そんなはずはない筈なのにも関わらず。
「何を見ていらっしゃるのですか」
それを聞いた与一郎は、立孝に隣に来るように促る。素直に隣に座った彼の若さに眩暈がしそうだ。彼はいつもそのときの与一郎が望む香りを身に纏っている。得るたびに喪うと言うが、与一郎は右近を喪う代償に彼を手にしたのではないかと最近思うようになった。
「あの菊を見ていた」
「……あの土の中にある菊は、来年どのような花を咲かせるのでしょう」
「さあ、もう咲かないかもしれないな」
「咲きますよ」
やけに返答が早く、かつ断定する彼の口ぶりに、与一郎は少しだけ驚いて振り返る。そして、彼が静かな土の中で眠る菊ではなく、父である与一郎を見ていることに気が付いて、一瞬何故か背中が冷えた気がした。そんなはずはない。先ほどまで思っていたことは最早届かない願いのようなもので、現実でそれが成立するはずはない。
「父上が望めば、何度でも咲きます」
そう話す立孝は、まるで与一郎よりも年上のような……その年齢におおよそ見合わない表情だった。右近に諭されている時のようなこの心の動揺を、まだ年端もいかぬ我が子には見せられない。与一郎は咄嗟に視線を逸らし、話題を変えることしかできなかった。
「歌は好きか」
そう問うと、立孝は穏やかに頷く。本当に、右近に似ている。涙が出るほどに似ている。むしろ笑いながら浅く溜息をつくと、それをどう判断したかはわからないが、立孝はそっと与一郎に寄り添った。
「しかし私はまだ歌をよく知りません。父上の詠む歌を教えてはくれませんか」
彼の目はもう、子どものそれになっている。生まれた時から与一郎と離れて暮らしていた立孝は、まるでそれまでの時間を埋めるように与一郎の傍にいた。きっとこれからもそうなのだろう。確かに菊はいずれ枯れる。しかし切り戻しをすればまた来年、新たな顔を見せる。得ただけ喪うのならば、また得ればいいのだ。そして失うとしても思い出は誰にも奪われない。この記憶は、この感情は与一郎だけのものだ。誰にも渡さない。
短冊を立孝に見せる。広げたそれらを立孝は煌めく眼差しで眺めた。隣で一つ一つ言葉を教える与一郎の声は、まるで若いころに戻ったように弾んでいた。

越し袂
いとど乾がたき
旅の屋の
したほ結ぶ
木々の木の下