拝島家騒動

拝島家はここ半月、不穏な空気が流れていた。
普段ならば特に笑い話で済むであろう軽い摩擦も、今に限っては古びたタオルで傷口を思いきり擦られるような緊張感をもったものになっていた。一応、明るい話題がないわけではないのだが、その場限りと言った印象はぬぐえない。
礼は、ぼんやりとそんなことを考えていた。
目が覚めて、布団を蹴りながら起きて、隣で寝ている充を起こす。かたい黒髪が盛大に爆発しているこのパートナーの寝起きの感じは、嫌いじゃない。充に眼鏡を渡してやり、その後顔を洗いに洗面に立った時、自分も明るく染めた茶髪が爆発しているのを見て、笑いよりも先に溜息が出た。
「あ」
声がして、振り返ると……やはり今起きたのだろう、ユキがこちらを見て、居心地悪そうに眉根を寄せていた。
「ごめん、顔洗うだろ?」
「……ん」
普段はこんな子じゃないんです、優しくていい子なんです、と咄嗟に頭の中で言葉が躍る。だが、口に出せるほど今は礼にも余裕がなかった。
拝島家には、礼と、礼の母である茜、礼のパートナーである充、そして礼の姪であるユキの4人が暮らしている。ここしばらく、礼の頭を悩ませているのはこのユキのことだった。ユキは今年で10歳になる小学生だ。そろそろ思春期に突入しようとしている。そうでなくとも難しい年ごろのはずだが、彼女の担任から電話がかかってきた2週間ほど前までは、まだそんな時期がやってくる予兆もなかった。明るくマイペースでゲームが好きな……普通の小学生だった。
「ユキちゃんが、同じクラスの倉田美也さんを叩いてしまって」
電話口の担任の声は少し震えていたそうだ。
確かにユキは幼稚園に通っていたころは言葉の覚えが少しだけ遅く、癇癪を起すこともあった。しかし今は問題なくコミュニケーションが取れるし、むしろ周りの子どもよりも話すことは得意な方だと思う。少なくとも、人に突然暴力を振るうような子どもではない。
何があったかわからないまま、電話をとった茜は急いで小学校に向かったそうだ。
職員室の丸テーブルに怖い顔をしたユキが座っていた。担任は新任の若い男性教諭で、ただおろおろしているばかりだった。とにかく茜はユキに話しかけ、何があったかを問いただしたというが、ユキは表情を崩さず、固く黙っていたそうだ。
倉田美也の母親が迎えに来るのを待ち、茜はとにかく頭を下げたという。幸い、美也に怪我はなく、母親もおおごとにはしないと、きっと話し合って分かり合えると優しく茜に話してくれたという。
仕事から帰宅した礼と充は、普段はおもちゃ箱がひっくり返ったように賑やかな我が家がしんと静まり返っているのを見て、何かただ事ではないことが起きたと察した。それから2週間たった今も、ユキは真相を話さない。
それどころかその一件から3日ほど、学校にも行かなかったしリビングにも降りてこなかった。やっと出てきたと思えば、何事もなかったように学校に行きはじめたが……まだ、何も語ってはいない。
礼にとってユキは姪であり、妹だ。
ユキの父は礼の兄で、兄は……礼に暴力をふるった。礼だけではない。母にも、学校の人間にも。彼は結婚後も妻に暴力をふるい、彼女はまだ幼いユキを茜に託すと消息を絶った。兄は酒に溺れてあっけなく死んだが、礼にとってはまだ心の奥の方に生きている。時に怒りながら、時に笑いながら、兄は礼に手をあげた。ユキはどうなのだろうか。
口に出すことはなかったが、そうした礼の蟠りが伝わったのか、茜や充も腫れものを扱うようにユキや礼に関わった。辛い反面、多少放っておいてくれているところに安らぎを感じてしまい、時間ばかりが過ぎていき今に至る。
そういうことで、ここ2週間で拝島家の空気はすっかり変容してしまったのだ。
充が仕事帰りにちょっと酒を飲んで帰ることなんて、以前ならばなかったはずのことが起きるようになった。茜も、普段ならば朗らかに笑ってバラエティ番組を見ているだろう時間に、少し気を遣うように台所の掃除などをするようになった。礼だって、普段は充やユキとゲームをしているはずの家で過ごす時間が憂鬱になった。
ここ最近の快晴は、そんな礼を嘲笑うようだった。日に日に暑くなるこの季節が毎年好きなはずなのに、顔では笑っていても心は澱んでいる。朝食も静かなものだった。天気予報を見て多少話をしたくらいだ。充も居づらいのか、何か言いたげな顔のまま仕事に行ったし、ユキはユキで最初からそういう子どもだったかのようなふうに無言で学校に行った。
皆がこの澱んだ空気を突破する糸口を探っているようだった。
礼は家族の部屋を回ると、それぞれのベッドのシーツを乱暴に剥がし洗濯機に放り込む。今年に入って買い替えたばかりのドラム式洗濯機の中でぐるぐる回るシーツは、まるで礼の中に渦巻く思いのようだった。スマホを見るが、気が散るばかりで手につかない。そうこうしているうちに洗濯が終わったアラームが鳴ってしまう。
シーツをベランダに干すと、礼は庭にいる茜に声をかけた。
還暦前の母は、いつものようにタオルを巻いてその上に麦わら帽子を被って、庭の雑草を抜いている。礼はベランダの手すりから身を乗り出して茜に声をかける。
「干しておいたから、あと頼んだぁ」
茜はこちらを見て、手を振り返してこう言った。
「ありがとう、気を付けていっておいで!」
ユキがいないときは、少しだけいつもの光景に戻る。やっと呼吸ができるみたいだと思った。
10時過ぎ。フレックス制の職場は、夕陽が丘駅の商店街から少し路地に入った雑居ビルにある。拝島家からは歩いて20分くらいだ。何も変わらない風景をただ歩いた。
八坂事務所と小さく書かれたドアを開けると、拝島はデスクに鞄を放り投げた。
「どうした。元気がないな」
奥のデスクで新聞を読んでいる小柄で神経質そうな男がこちらに視線を送る。一応この事務所の所長で、礼の上司でもある八坂という男は、つり目をすぐに新聞に戻した。
「おはよう八坂さん、メイちゃんは?」
「奥で寝てる」
この事務所は、親会社である小平グループという商社のネットワークシステムの構築や保守点検を本業としている。メイは事務所の女性社員でエンジニアだ。もう数人エンジニアがいるが、今日は本社まで出ているらしい。まあ全員が揃っても10名にも満たない小さな事務所であることに変わりはないのだが。
メイは昨日から事務所で仕事をしていたようだ。礼も一応肩書は営業となっている。主に本社や本社に近い会社とのやりとりをしているだけなのだが、話好きの礼には向いている仕事だと思う。八坂やメイたちも、軽口は叩くが必要以上に踏み込んでこないところが良い。
「はぁ……」
「なんだなんだ、充くんと喧嘩でもしたのか」
「うーん……それならまだいいんですけどね」
八坂が話を振ってくることは珍しいことだと思った。八坂は仕事漬けの仕事人間のような人間で、けして冷たいわけではないのだが……要は少し不器用な人間だ。
小平グループ本社勤務の充と八坂は面識がある。もちろん、礼との関係も知っている。なんならパートナーシップ宣誓をしたときに証人代わりに役所に同行してくれたのは彼だ。
礼の周りにいる人間で、一番に理解を示したのが八坂だったのは意外だったが、周りの人間も八坂に倣うように礼たちを祝福してくれたのは嬉しかった。だから八坂は冷たくはない。少しだけ仕事をしすぎるだけの男だ。
拝島家が4人で暮らすようになって5年。数年前に市が同性間パートナーシップ制度を導入し、礼と充は宣誓1号となった。地元のコミュニティ紙にも少しだけ取り上げられたりもした。笑いの絶えない明るい家だと思っていた。つい2週間前までは。
「今日は特に本社とはやり取りがないから、あとで倉庫整理でも手伝え……何かあるならそこで話せばいい」
「もう、八坂さんったら優しいんだから」
「うるさい」
事務所の郵便処理や取引会社への連絡をしているときは、少しは気がまぎれた。ある程度片付いたところで倉庫に入る。主にシステム運用に関する報告書だが、職員の名簿や給与計算のための書類なども雑多に積まれていた。セキュリティとしてどうなのかとずっと話にはなっていたのだが、人手が足りないのでそのままになっていた紙束をまとめながら、礼はこう切り出した。
「あの、八坂さんって息子さんいますよね……」
「ああ、まあいるな」
八坂は離婚しているが、今も定期的に元妻と子には会っているらしい。今よりも輪をかけて仕事人間だった八坂に離婚届を叩きつけた元妻は、礼も会ったことがあるが話好きで明るい女性だった。八坂はけして明るくはないし、こうして上司と部下の関係だとすれば穏やかに暮らせると思うが、きっと家族には向いていなかったのだろう。
まとめた紙束をファイルに押し込め、棚に入れていく。ファイルの背にだいたいの年月日を入れておけば誰も文句は言わないだろうということになった。
「今、息子さん何歳でしたっけ」
「15歳」
「あー……なんか、その……学校の友達とかとトラブったことって、ありました?」
礼の質問に八坂は顎を触りながら少し考えているようだ。考えていると言うことは、目立ったことはなかったのかも知れない。
「あ?ああ……俺が知っている範囲ではないな。どうした……妹か?」
「まあ、そうっすね。ちょっと困っちゃってて」
「一回話し合うことだな」
あっさりそう言う八坂はそう言う男だ。そんなことが簡単にできない事情があるのだが、彼はそのあたりを汲み取る力があまり強くない。正解を導くことには常に全力だが、過程はなんでもいいと思っている節がある。礼はそれでも、八坂のそう言うところが嫌いではないし、いつも助けられている。
「いや、なんか……難しいよ……なんか家ん中の空気悪いし……」
「充さんも知ってるんだろ。お前より彼の方がしっかりしているんだから、とりあえず二人だけでも話し合ったらどうだ」
「簡単に言い過ぎ〜!世の中八坂さんほど単純じゃないんだってば」
こういう口の聞き方に怒らないのも八坂の特徴かも知れない。その話はそこで終わった。
しばらく所属のわからない紙束をどう処分するか決めあぐねたり、本社に出したはずの伝票が出てきたり、目が覚めた先輩であるメイと調子よく話したりなどした。そうこうしているうちに事務所に戻ってきた他の社員と打ち合わせをして、退勤時間になった。繁忙期を過ぎた事務所は、ゆったりとした時間が流れていた。
夕陽が丘駅の改札で、礼は帰宅する他の社員に手を振り、そのまま駅前のベンチに座った。家路を急ぐ他の人々の波をじっとみている。中には塾通いだろうか、ユキくらいの子どもの姿もある。
ユキがこのままでいいとは思っていない。時間が解決すると言う言葉はあるが、人に暴力を振るったと言う事実は時間だけでは消えることはない。
通りすがる色味のない人影たちは、礼のそんな気持ちを知ることはないし、彼ら彼女らの人生の全てを礼が知ることもない。そしてそれは翻る。彼ら彼女らは知ることはない。ここに座っている礼が昔、夜の街に立っていたことも、大学を中退したことも、ゲイであることも。
なんだか考えごとをしていたら、甘いものが食べたくなってきた。この辺は小さなケーキ屋が多く、いくつか気になっているものの入ったことのないところばかりだ。よくユキや充、茜と行く喫茶店に入ろうか悩んでいたが、そうこうしているうちにまた電車が到着したらしく、改札から多くの人が流れてくる。その中に充もいた。
「おかえり」
そういうと、充は困ったように眉を下げた。
「ただいま。暑いんだから先に帰ってればよかったのに」
「ん……なんか、ちょっとね。歩いて帰ろ」
昔はよくこうして、充の帰りを待っていた。八坂などからは忠犬ハチ公のようだと言われたが、充が帰ってこなくてもずっと待っている自分が容易に想像ついてしまったので珍しく言い返せなかった。
充はネクタイを緩めて、一緒に歩き始めた。昔はよくこうして二人で歩いて帰っていた。うっすら汗をかいた充の黒髪を見て、少し伸びたなと思った。礼には理解できないが、充は美容院や床屋が苦手でいつまで経っても髪の毛を伸ばしっぱなしにしてしまう悪癖がある。そろそろ庭で切ろうかと考えていた。
充との出会いは大学だった。真面目で洒落も通じない充を面白がって、いつも一緒に歩くようになった。ノートの貸し借りをしたり、学食で昼食をとったりした。充は当初、礼のことを鬱陶しがっていたそうだが、話をするうちに意外と通じるものが多いことに気が付いたのだという。
だからだろうか、礼が夜の街で働いていることを知って、誰よりも心配したのは充だった。彼のアパートで二人して泣き、充はそこで礼に自らもゲイであることをカミングアウトした。彼には彼の閉した世界があったのだ。
それから交際に至るまでは少しだけ間が開いた。それだけ緩やかな関係だったし、それは心地が良かった。
付き合い始めてしばらくして、礼の実家に住む話が降って湧いて出た。提案したのは茜だった。同性パートナーシップ制度のことを教えてくれたのも茜だった。たまたま実家のあるS市が、制度施行を決めた頃だ。まだ幼稚園児のユキと還暦前の茜を二人きりにすることに限界は感じていたし、充さえよければ礼はそれが一番楽だった。
充は茜に自分よりも懐いている気がする。互いに晩酌仲間だ。酒に弱い礼では話せないようなことも話したそうで、それは今も気になっている。
ユキは最初は充に心を開いていなかったが、充がテレビゲームを好むこともあり一気に距離が縮まった。茜や礼に内緒で二人で家電量販店に行き、ゲームハードを買ってきたことだってある。
つらつらと思い出しながら、暫く黙って歩いていた。坂道を上り、夕暮れが二人の影を伸ばしていく。
「ユキのことなんだけど」
「……うん」
「俺、今日ちゃんと喋りたいんだ。充、一緒にいてくれない?」
「……わかった」
充と交際を始めたきっかけも、話し合いだった。派手好きな礼と地味な充は、外見からは真逆に見えるがその実中身はよく似ていると思う。話し合うことが好きで、互いの疑問点や課題を洗い出し、解決できる相手だ。最初に話し合ったのは、先述した礼が夜の街で働くことについてだった。あの頃は互いに学生だったから、議論というよりは喧嘩に近かった。礼が危ない店に出入りしていることを顔を鬼のように歪めて咎める充がわからなかったが、今ならばよくわかる。充は礼を個人として尊重していたのだ。誰にも心を打ち明けられなかった礼に充は寄り添ってくれた。充も必死だったのだと今ならわかる。
近づく家への足取りが、昨日よりは軽い気がする。今は少し大変だが、大丈夫、なんとかなる。そう思って二人で帰った。

彼らが帰路につく少し前のこと。
拝島茜はラジオを聴きながら庭の雑草をむしっていた。ここ最近は正午ごろともなると還暦には堪える暑さだから、水やりだけは朝に行い、細かい庭仕事は夕方ごろに行っている。多くの趣味を手放してきた中で、庭だけは未だに続く茜の趣味だ。これもいつまで続くかはわからない。ノリウツギというグリーンの紫陽花はお気に入りの株だ。今年も見事に咲き始めている。
いつものようにばたばたと、大きな音を立てて門から駆けてくるのは下校してきたユキだ。そこまではいつものユキだが、茜の顔を見てどこか……怯えているような顔をして、そっと家の中に入っていった。ちょっと前なら、庭の手伝いをしつつ学校での出来事を話していたのに。
茜はユキの祖母だが、同時に育ての母でもある。
ユキの父……礼の兄であり、茜の長男である佳樹は、家族に暴力をふるう人間だった。茜も礼も被害に遭った。高校でもたびたび暴力沙汰を起こし、遂には退学処分になった。家にいると酒を呑んで暴れるし、いなければいないでいつ警察から連絡があるかと気が気ではない生活が数年続いた。
礼には申し訳ないことをしたと、茜は常々思っている。茜の夫は20年前に不倫が発覚し、散々揉めて離婚した。夫は抑圧的な人間だったが……結婚前はしっかりした男だと勘違いしていた。彼との暮らしは息苦しく、更にはそこに子育ても加わり、不倫沙汰を抜きにしてもとても一緒には暮らせなかった。
幸い自宅と共に慰謝料を得ることができ、養育費も素直に支払った。それだけは助かったが、それだけでは生活ができない。茜の会社勤めだけではなく、スナックでも働いた。家に佳樹と礼を残して。
ちょうどその頃から、佳樹が家で不穏な態度をとるようになった。最初の被害はまだ10歳にもなっていない礼だった。早く気が付けばよかったが、仕事が忙しくなかなか向き合えなかった。礼もまた、佳樹からされたことを隠していた。きっと兄が本気で自分に暴力をふるうなんて誰にも言えなかったのだろう。次第に茜にも暴言を吐くようになり、髪の毛を引っ張られたり殴られることも増えていった。
高校を中退して数年、佳樹は結婚し独立した。その時はだいぶ暴力も落ち着いて見えていたから、妻となった女性には殊に感謝していた。すぐにユキが生まれ、茜は祖母になった。
嬉しかった筈だった。
しかし佳樹はユキの誕生を切っ掛けに再び暴力を振るうようになった。ユキの母は暴力に耐えきれず、ユキが1歳のときに離婚した。母は体が弱く、とてもではないがユキを単独では育てられなかった。里親や養子を考えたが、その際に茜は……咄嗟にこう言ったのだ。
「私の養子として引き取らせてくれない?貴女はいつでも会いに来ていいし、もう一人で生きるのならばそれでもいい。一瞬でも娘ができて嬉しかった。だから、貴女の選択を尊重したいの」
彼女と話したことはあまりなかったが、その日をもって彼女はユキを茜や礼に託したのだ。
佳樹はその後、酒の飲みすぎがたたってあっけなく死んだ。病院で息子の死に顔を見た時、悲しかったはずなのだが、涙は出なかった。ただ、ほっとしてしまったのだ。母親として情けない話だが、やっと嵐が過ぎ去ったと素直にそう思ってしまった。
ユキの母も最初は何度か会っていたが、最近は会っていない。ユキはそれらを幼いながら覚えているのだろうか。
茜は首に巻いたタオルを手に取り、指先の泥を払う。
5年前に礼がカミングアウトをし、一緒に暮らしたいと充を連れてきて、ユキの表情は前よりも明るくなったと茜は信じている。人にはそれぞれ相性があることを離婚で痛いほど知ったから、きっと自分たちは大丈夫だと思っていた。かつて掴もうとしても掴み切れなかったはずの幸せをやっと手にしたと思う。
ユキが暴力をふるったという事実は、事実以上に彼女の父を思い起こさせるものだからこそ、茜は何も言えなかったのだった。
そういえば……茜は庭の隅に植えたトマトを見た。そろそろ収穫頃だ。ブルーベリーも実が大きくなってきた。どれもユキの大好物だ。佳樹はトマトが食べられなかった。何をやっても吐き出したっけ。ユキはユキ、佳樹は佳樹で分けて考えなければならないことはわかっている。
茜はユキに話しかけようと庭からリビングを伺ったが、そこにユキの姿はなかった。

その晩のことだ。
食事を済ませて、遂に礼は動いた。ユキをリビングの椅子に座らせ、紅茶にたっぷりの砂糖とミルクを入れ、彼女の前に出した。
「大事な話をしたくて。遅くなっちゃってごめんな、ちゃんと時間とって話したくて」
「……」
ユキは察したのだろう。やや俯いて、黙っている。ユキを責めるようなことはしたくない。それは礼にとって一番やりたくないことだ。責めたところで、本人がその心の中を言わなければ意味がないことを礼も兄を通してよく知っていた。ユキに同じ道は歩ませたくない。暴力でも、暴言でも、人は変わることはない。向き合って話すことでようやく人は変われるのだ。それは礼が充に教えてもらった一番の事実だった。
「一番つらいのはユキだと思う。それは母ちゃんも、俺も、充もそう思ってる。みんなユキの力になりたいんだ。何かあったか、話してくれない?」
礼はまるで幼いころの自分や兄に言うようなつもりでそう話した。礼もまた、本当のことを話すのに時間がかかった。
ユキはひとつ、息を吐くとミルクティーを舐めるように飲み、カップを置いて話し始めた。
「礼ちゃんと充ちゃんのこと、美也ちゃんにバカにされたの。許せなかったの」
それから、ユキの言葉は止まらなかった。男が二人で暮らしているなんて変、男が実家から出ないのも変、ずっとお母さんと一緒にいるなんて変、ユキの兄は変。美也から言われたという言葉を口にするたび、ユキの顔は苦しげにゆがんだ。
礼と充は顔を見合わせ……ユキが零す言葉に耳を傾けた。彼女は小さな体を震わせる。
「絶対にそんなことない、美也ちゃんは礼ちゃんにも充ちゃんにも会ったことないのにそんなこと言うの変。そう言ったの。そしたら『そんな家に住んでるアンタの方が変』って言われたの……それで……ぶっちゃった」
俯き、涙をこぼすユキのそばにより、礼は肩を何度か撫でた。ぐすぐすと啜る音が、彼女の痛みを表している。
ユキは知っている。自分を産んだ母のことも、産ませた父のことも。だがおそらくその話を友人にできるほど、彼女の中でそれらの事実に決着はついていない。
それを学校という他人のいる環境で話せるほど、済んだ話ではないのだ。治りきらないかさぶたを剥がすような痛みは、ここにいるすべての大人が知っているものだ。
しばらくユキは泣いていた。
「ユキ……今度さ、美也ちゃんをうちに連れておいで」
ユキは礼の提案に目を丸くした。しかしすぐに眉間に皺を寄せ、不満そうになじる。
「そんなことしたらまた変って言われる」
「知らないから変って言うんじゃないの?美也ちゃんの中で、俺たちは想像上の生き物だもん。龍とかそんな感じで。だからさ、一回会って話してみようよ。美也ちゃんちには俺から連絡するし。充、それでいい?」
黙って聞いていた充は眉を上げると、当然のことだというように頷いた。
「もちろん。僕はユキちゃんが一番大事だけど、その美也ちゃんって子も心配だよ。知らないことって怖いから……ユキちゃんはどう?」
「……」
ユキは黙って聞いていたが、やがて顔を上げるとこくりと頷いた。
「ということで母さん、家貸して」
「もとからここはアンタの家だよ」
そうだった、と礼が言うと、ユキも少し笑っていたようだった。

週末。土曜日の午後。
母親に連れられた美也がややこわばった顔をして拝島家にやってきた。
提案した時は少し怪訝な顔をしていた美也の母親だったが、事情を説明すると意外にも反応がよかった。
「ブルーベリー摘もう」
茜がそういうと、それまで警戒していた美也の表情が少し明るくなったようだった。小さな庭の隅に実を結ぶ無数のブルーベリーを前に、ユキはこう言った。
「大丈夫、美味しいよ」
ユキに連れられて、美也は二人でブルーベリーを摘みはじめた。それらを見ながら、美也の母は礼と充に話しかける。
「すみません。実は私自身、美也から詳しい事情を聞いたのが昨日で……私もどうしていいかわからなくて……差別や偏見なんて絶対にだめ、と育てていたはずなんですけど……」
「こちらこそ……本当にすみません。僕たちもユキから話を聞いたのが遅くなってしまって」
礼が頭を下げると、いえいえそんなと美也の母は畏まる。
「美也も私たちだけの言葉で育ってるわけじゃないと思い知らされました。なんだか……私、頼れない母親なのかなって思っちゃって」
美也の母は公務員だという。ミディアムボブの黒髪とさっぱりしたシャツ、昔の礼はこういう真面目そうな女性にどこか警戒心を持っていた。真面目だからこそ、もしかしたら助けてくれるのかもと期待してしまうのだと、同じく真面目な充と出会ってから初めて気が付いたのだが。
美也の母は今年から都市整備系の部署に配置転換になったそうだ。
女性進出と言われているものの依然として職場は男性の方が多い部署で、夫と同じく帰りが遅くなることも往々にあると話した。娘にちゃんと関わっていなかったと肩を落とすのを、充が宥める。
「今はネットもありますし、そうでなくてもいろんな声を聞いて育つものですから……でもこうして実際に様子を見て、自分で判断してもらうのが一番いいのかなぁって」
「本当にわざわざすみません。私、パートナーシップ宣誓が決まった時、広報部署にいたんです。だからちょっと、色々胸にくるものがあって……」
その後、美也とユキが摘んだブルーベリーを全員で食べたり、充が最近凝っている紅茶だったり、今朝礼が勇気を出して入った夕陽ヶ丘のちょっと贅沢なケーキ屋で買ったケーキや菓子などを楽しんだ。美也は少しずつ笑顔を見せるようになってきたし、きっと普段はユキにこう接しているのだろうと思うような言葉も出てきた。
「ユキちゃんまたこぼしてる!」
ハッキリとものを言うが、けして冷たい子どもではないと言うことがその時点で礼には察することができた。マイペースなユキとはある意味で相性がいいのかもしれない。だからこそ、ユキも美也も動揺したのだ。きっと。
話しているうちに、美也の母が市の広報部にいた頃に関わったリーフレットがきっかけで茜が二人にパートナーシップ宣誓を勧めたことがわかった。
「ママ、そんな仕事してたんだ」
美也はそう言って、茜が大事にとっておいたリーフレットを眺めていた。淡いさまざまな色の重なったデザインは、美也の母の提案で決まったものだと言う。それぞれの色が重なったり離れたり、人生とはそう言うものだよねとデザイナーとやりとりしたという話も出た。
「きっとお母さんの仕事で、幸せになった人がいっぱいいるんだと思うよ」
茜の言葉に、美也はまだ考えているようだった。何に影響されたかはわからない。しかし、彼女は礼や充を見て、そしてリーフレットを見て、それまで得た言葉よりもそうして実際に目にしたものを優先したらしい。
「ユキちゃんごめんね」
ぽろりと出た言葉すぎて、肝心のユキが聞き逃していたようだった。ユキは目の前のケーキに夢中だったらしい。
「え?なに?」
「……ごめんね、って言ってんの」
美也はムッとした顔をしたが、ユキの様子にはぁとため息をついた。まだ小学生とは思えない大人びた仕草で、周りの大人も思わず顔を見合わせて驚くほどだった。しかし、次に彼女の唇から溢れた話は、ごく一般的な、どこにでもいる子どもの言い分だった。
曰く、共働き世帯の美也から見たユキが羨ましくてたまらなかったということ。家に帰れば茜がいて、充と礼が二人ともユキに優しい。充とゲームをしたり、礼と映画を見たり、4人で出かけたんだと言う話も、ユキはよく美也にしていたそうだ。美也からしたら、見せびらかせているようにすら見えたのだろう。それで、つい悪口を言ってしまったと、美也はそう口にした。
「なにそれ。私は美也ちゃんが羨ましいんだけど!」
聞き終わるや否や、ユキはそう叫ぶように言った。
「なんで?」
「鍵持ってるじゃん。かっこいい」
「そんな理由?」
「うち、鍵持たせてもらえないもん」
確かに、基本的に拝島家は誰かしらかが家にいるので、ユキに鍵を渡していない。
もしものときのために共有の鍵をダイヤル式のセキュリティボックスに入れて裏口に設置しているが、今のところユキが使ったことはない。
礼が家に兄と二人きりの状態で暴力を振るわれた経験から、自然とそうするように大人が動いていただけなのだが……。
「ユキは美也ちゃんが羨ましくて、美也ちゃんはユキが羨ましいんだね」
充の言葉に、ユキと美也は二人してうーんと納得したようなそうでないような顔をした。きっと互いにもっと言い分はあるのだろう。礼がちらりと横を向くと、仕事が忙しいらしい美也の母も難しい顔をしていた。
「じゃあ、美也ちゃん、これからはうちによく遊びにおいで」
茜がそう切り出す。えっと美也が顔を上げた。
「でも、拝島さんそれだと大変じゃ……」
美也の母のほうが早く口を挟むが、茜はいいのいいのと手を振る。
ああ、そうだった。茜は……礼の母は、そういう人間なのだ。多少口は悪いがどっしりと構えていて、こちらが何かを言えば『大丈夫よ』『平気よ』『いいのいいの』が口癖だった。礼がカミングアウトした時もそうだったし、充ごと転がり込んできたときもそうだった。
「孫なんて何人いてもいいしね。子どもたちだって、面倒見る人は何人でもいた方がいいのよ」
「塾の前に来てもいい?」
美也がそういうので、今どきの小学生はもうこれくらいで塾通いをするものだんだと礼は感心していた。充が美也の母に塾について何か話している。そういえば充は子どもの頃から塾通いをしていたそうだ。思うところは多いのかもしれない。結局、塾の前に遊んでいいという話がまとまった。
「じゃあね!」
「またね!」
夕方。迫るようなオレンジ色の陽射しの中、美也は母の隣で笑顔で手を振った。ユキも、礼も、充も、茜も手を振り返した。美也もユキも大丈夫だろう。もちろん喧嘩もするだろうが……きっと大丈夫だ。少なくとも、もう美也は顔の見えない『ユキのクラスメイト』ではない。見知った関係だ。それは翻って美也にとってもそうだろう。礼も充も『知らない男同士のカップル』ではなくなったのだ。
「ね、美也ちゃんをうちに呼んでよかったでしょ」
茜が礼の隣でにまにましている。礼が子どもの頃はこの母が家にいることの方が少なかったことを思い出していた。だからこそユキは、寂しくないように育てると、口には出さずともそうしていたのだった。
茜の言う通りかもしれない。子どもを育てるのは、なにも血の繋がりのある両親二人きりではない。そんなことを言ったらユキはどうなるというのだ。そして美也もまた、その輪の中に確かにいるのだ。
「充ちゃん!今度美也ちゃんとマリカやることになった!」
「いいじゃん、じゃあ特訓しようか」
この日から、美也は毎週拝島家に遊びに来るようになった。ゲームや庭いじり、たまに美也の両親も交えて食事をするなど家族ぐるみの付き合いになった。
二人は一生ものの親友になるのだが、まだこの時は誰もそれを知らない。

2025年6月21日